言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

世に厄介な人・こと・気分

2017年07月16日 20時13分15秒 | 日記

 先日、出張があつて上京した。帰りの新幹線まで時間があつたので、国立新美術館のジャコメッティ展に出かけることにした。あの針金で造られたやうな人物造形に、なぜか不思議に惹かれてゐるからだ。

 いつかは手に入れたいと思つてゐる。なぜだか分からないけれども。

 今回はそれでもこれまでとは違ふ印象があつた。

 一つ。足が全体のバランスからすると異常に大きいこと。重さを支へるといふ物理学的な要請であるなら興醒めだ。

 二つ。針金にヘドロを吹き付けたやうな汚さを感じたこと。

 三つ。これは単純に新知識だが(ジャコメッティの遍歴には関心がなかつたといふこと)、シュールレアリスム→小さい造形の時代→針金のやうな造形の時代→日本人の時代→リトグラフの時代といふやうに、変遷がはつきりしてゐるのだなと感じたこと。

 10年程前、友人を訪ねてシドニーに行つた時に、偶然ジャコメッティ展をやつてゐてそれを喜んで見た時の作品がいくつもあつたが、今回感じたのは「懐かしさ」ではなく「汚さ」であつたのが不思議だつた(シュールリアリスム時代のものは汚くないのにである)。

 モデルに似せよう似せようと思へば思ふほど、彼の造形は小さくなつたり、細くなつたりしていつた。その伝で行けば、似せよう似せようと思へば思ふほど汚くなつていつたといふことになるのだらうか。

 下の今回の美術展のポスターをご覧になつてどう思はれるだらうか。

 私たちの本性は「汚い」、藝術家の目にはさう見えたのではないかと想像される。

 ではその「汚さ」の正体は何か。それはルサンチマンである。怨恨感情、私怨である。

 知識のお化けは、自己の正体を論理で覆ひ、きれいに誤魔化したやうに見せるけれども、尻尾は出てしまふ。じつに正確にである。「語るに落ちる」といふ諺があるが、まさに言葉の端々に出てきてしまふ。頭隠して尻隠さずである。

 この私怨感情が厄介だ。それほどにまとはりついて離れないからだ。

 今起きてゐる事象の根源にある問題は、この私怨であらう。そしてそれは取り除かうと思つても、なかなか取り除けるものではない。ジャコメッティの造形がいくら細くなつても「汚さ」が現出してしまふのは、それが人間の実存にまとはりついてゐるものだからであらう。だが、たつた一つだけその汚さを美に昇華する方法がある。それは何か。自分は汚れてゐると自覚することである。その意識があれば、他者の汚れを見る前に自分の汚れに目が行くはずである。さうなれないのは、自分の汚れを感じてゐないからであらう。

 イギリスの社会人類学者メアリ・ダグラスに『汚穢(おわい)と禁忌』(塚本利明訳・ちくま学芸文庫)といふ書物がある。そこにはかう記されてゐる。

「聖とは〈神〉の属性である。その語源は『隔離する』ことを意味する。では、それ以外にこの語はどのような意味をもっているのだろうか。いかなる宇宙論の研究においても、我々は能力と危険との原理を求めることから出発するべきであろう。旧約聖書においては祝福があらゆる善きことの源泉であり、祝福の撤回はあらゆる危険の源泉である。人々がある地に住めるようになることすらもが神の祝福によっているのである。
祝福を通して神が行なう業は本質的に、人の所業が栄えるための秩序を創ることである。女の多産、家畜の繁殖、耕地の豊饒等は祝福の結果として約束され、祝福は神との契約を守り神の一切の戒律と儀式とを遵守することによって獲得され得る(中命記第28章1-14節)。祝福が撤回され呪いの能力が解放されると、不毛と疫病と混乱とが現われる」

 呪ひとは私怨の言葉である。それが蔓延すれば「不毛と疫病と混乱とが現われる」。最も恐るべき事態である。

 

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