芦田先生のブログに「パッシブ・ラーニング」といふ言葉があつた。「パッシブ」とは受け身といふことであり、キリストの受難のことを「パッション」といふが、それと同じ語源である。
アクティブ・ラーニングの対義語(対概念)であるが、学校を取り巻く言説として最近は積極的・活動的といふことが流行してゐるが、果たしてそんなことで生徒の知が活性するかどうかといふ疑問への応答である。
ネットで調べると、このことについて書いてゐる方がゐた。
http://walk41.exblog.jp/26086482/
「被教育(educated)」といふ言葉こそ適切だといふのはその通りであらう。教育された主体として被教育者がゐれば、アクティブラーニングは可能であるが、それなしに形式だけ整へればできるといふものでもない。
今年に入つて私の所属する学校でもアクティブラーニングに「挑戦」してゐるが、その手始めに東京大学の知識構成型ジグソー法といふプログラムを見せてもらつた。題材は、宮沢賢治であつた。いくつかの文章を与へ、それぞれのチームでどれを選ぶかを決め、それについて感じたことを話し合ひ、それを最後に発表するといふものである。二時間ほどかけての授業であつた。
教師役の人は何も説明しない。促しもない。生徒が感じたことを発表し、それを聞くといふことである。それを見てゐて、私は「ひどい」と思つた。かういふことをして何があるのだらうか。
生徒が気付いたことは、どれも間違つてはゐなかつた。しかし、例へば「出だしは登場人物の紹介で始まる」といふことにすら気付けてゐなかつた。
「よだかは、実にみにくい鳥です。」
「なめとこ山の熊《くま》のことならおもしろい。」
「虔十《けんじふ》はいつも繩《なは》の帯をしめてわらって杜《もり》の中や畑の間をゆっくりあるいてゐるのでした。」
これが物語の形式の典型であることに気付かせることは、映画でもドラマでも、そして現代の小説でも同じである。なぜだらう、といふ問を生み出すことになる。物語とは何なのか、そこまで考へさせることが出来れば最高である。具体と抽象の思考を促し、そして抽象思考を身につけた後に、他のものから具体を探させる。それが「考へる」といふことである。
「気付いたことを発表しませう」だけでは、同じ言語空間の中でさまよつてゐるだけで、飛躍する瞬間がない。そこには教員が絶対必要である。芦田先生の言葉を使へば、「考へるとは、いつでも他者の言葉で考へる」といふことであるからだ。
パッシブ・ラーニングの充実。やはりこれが大切である。問題は、「被教育的」でないパッシブ・ラーニングなのであつて(授業者が自己完結的な発話行為を授業だと思つてゐて、全く教育を施せてゐない状況)、いきなりアクティブ・ラーニングに解決を求めるのは違ふ。