言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

「格差」を感じるのが社会の貧しさ(改稿)

2016年11月20日 10時29分25秒 | 日記

 産業革命以来の「豊かな社会」の訪れによつて中間層が膨らみ、大衆といふものが現実的な存在となつた。二十世紀といふ時代はそれを実現する時代として見ることは、もはや歴史の教科書に記述される内容である。

 そして今日の社会では、その豊かさが一巡した後に「より豊かな人とより豊かでない人」との間に格差が生まれてゐると言ふ。それを称して「格差社会」と言ふ。そもそも豊かであるか否かは、年収いくら以上であるといふことは言へないものであり、テレビの普及してゐない時代にはテレビが豊かさの象徴でありえたが、今日では何台テレビを持たうが豊かさを保証してくれるものではない。ちなみに言へば、私の子供の頃はバナナは自慢して食べるものであり、家の外で友達に見せびらかして食べるものであつた。さういふ姿にいやな感じがあつたことを覚えてゐる。ところがバナナ三本を百円で買へる時代にはバナナは安物のおやつの代名詞になつてしまつた。

 豊かさとはそもそも「格差」によつて生まれるものであつて、「格差」といふものが問題になるのはじつは私たちが豊かだからなのではないか。もちろん、その豊かさは経済的なものでしかないけれども、さうであるからこそ他者との経済的比較(「格差」)を気にしないもう一つの生き方を目指すといふ社会を作る契機にもなりうる。社会の多様性といふことが言はれるゆゑんであらう。が、それが難しい。なぜか。

 かつて山崎正和が西部邁との対談の中でかう言つてゐた。

「万人がひとしく個性的に自我拡張を行うということは、本来、矛盾した概念であるわけです。自分の個性を発揮しているときにはだれでも嬉しいけれども、他人が発揮すれば腹が立つという仕掛けなのですから、困ったものです」と。

 豊かな社会が大衆を作り出す。その大衆とは砂のやうな画一的な存在の集合体なのだから、それぞれが個性的にあることを目指すとは自分の存立基盤を損なふやうな行為であり、不安定を取り込むことになる。そこでは敵対的な感情を生み出すことにもなりかねず、格差を求める心性が醸成されていくとも見ることができよう。

 そこでの心性を端的に示したのが、ホイジンガの次の言葉である。久しぶりにこの人の文章を讀んでゐて、示唆されることが多い。

「自分の生の欲望の、すなわち、自分自身の無制限な膨張と、自分の安楽な生存を可能にしてくれたすべてのものに対する徹底的な忘恩」であると言ふ。

 『朝の影のなかに』は今では絶版であらうか。序文をガブリエル・マルセルが書いてゐるのに今回気づいた。オルテガ、ホイジンガ、マルセルとヨーロッパの良質な知の連携が一つの本の中に感じられる。これほどの良書が絶版であることもまた社会の貧しさであると感じてしまふのである。

 社会を構成してゐる人々一人ひとりが個性を目指すのであれば、そこには格差はないのではないか。富士山と天城山とでは比較ができないのと同じである。それを「高さ」といふたつた一つの指標で測るから格差が生まれるのである。同じ方向をしか見ない社会であれば序列がつく。それが格差の正体ではないか。大衆化社会の個性化教育といふ自己矛盾に気づくことが、解決の糸口である。

 欲望の抑制と今ある恩恵に感謝すること。それが大衆を豊かな人々に変へてくれるやうに思ふ。

 でもやつぱり難しいか。

 今朝は、ずつと霧が続いてゐる。お昼前の今も続いてゐる。晴れない霧の中でそんなことを考へてゐる。

 

※ 友人からの指摘で、改稿しました。感謝。

 

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