言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

アフォーダンス理論について

2016年10月13日 08時02分38秒 | 日記

 昨日の河野哲也氏の主張は、アフォーダンスといふ考へ方と共通点が多い。私にはそれを要約する力はないので、ウィキペディアを引用しておく。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%80%E3%83%B3%E3%82%B9

 関係の中で「主体と客体」との意味が確定するといふことである。認知心理学のいふ構成主義といふものも同じ認識であるが、これが現在の思考形式なのだらうと思ふ。

 物の意味は内在するものではない。使はれる中で、その意味が決まる。さういふことである。

 内田樹氏がつとに語る「ブリコラージュ」といふこともそれと同じである。関係の中で存在の意味が決定するといふことであらう。

 しかし、辞書といふものが存在する以上、言葉の意味にも中心があり、その範疇が広がることはあるとしても、中心を押さへるといふことも大事である。関係も大事だし、存在も大事である。それを両建てで理解する二元論的認識が必要なのである。

ジャンル:
ウェブログ
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 『意識は実在しない』 | トップ | 両義的かな、人生は。 »
最近の画像もっと見る

コメントを投稿


コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。

あわせて読む

トラックバック

この記事のトラックバック  Ping-URL