言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

キャリア教育の嘘・・・・・・仕事とは役割である。

2016年10月07日 11時52分08秒 | 日記

 30年ほど前までは、「自己実現」といふことが言はれてゐた。なるほど自己の理想を実現していくことが人生なのだ、といふのは当たり前に思はれてゐた。好景気に支へられた時代の空気そのままに、それは疑問もなく30年前までは語られてゐたのである。

 しかしながら、その理路を整理してみると、あらかじめ「自己」といふものがあつて、それがあるプロセスを経て「実現」されるといふことである。本当だらうかといふ疑問が出てくる。代表的な本が、山崎正和の『自己発見としての人生』である。この本が出たのは、1985年である。山崎は、自己とは通念とは逆で、人生を行きながら発見していくものだと論じたのである。当時、この本を読んでなるほどと思つたが、人々の「自己」観は今もなほ健全である。

 自己は予めあつて、そしてそれを実現していくべきだといふ観念の現代版が、「キャリア教育」である。「あなたの適性は何ですか」「あなたはどんな職業に就きたいですか」といふ問ひかけのうちには、強固な「自己」があるといふことを前提としてゐる。しかし、職業とはさういふものであらうか。

 社会の中で生きていくのが私たちであるとすれば、自己の適性よりも前に社会に対して「私」はどういふ役割を担へるのかといふ構へを持つことの方が自然であらう。存在よりも前に関係があり、その関係のなかに投げ込まれたのが私たちである。その関係への配慮がなければ存在の意味は探れない。存在の意味にとらはれて、自己の適正を考へるから躍動感のない生になつてしまふのである。これもまた教育の普及は浮薄の普及なのかもしれないが、教育の普及が自我を過大視し、その拡大欲求を増大してしまつてゐるのではないか。

 仕事とは、社会の中での「私」の役割である。その立場から考へていくのが、今必要なキャリア教育である。

 

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