言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

追悼 渡部昇一先生

2017年04月19日 10時40分51秒 | 日記

 4月17日、渡部昇一先生が亡くなられた。86歳であつた。

 偶然であるが、ここのところ毎晩ユーチューブで渡部先生の書斎を訪問して本について語る『書痴の楽園』といふ番組を見てゐた。一日一つづつ。30分の番組である。だいぶん痩せられてゐるなと思ひ、心配になつてゐたところでこの訃報に接し何とも言葉がない。

 私には面識がなく、何かの集会に来られて「チャンドラボース」の話を聞いたことが一度あるぐらゐである。日曜日にやつてゐた時事放談のやうな番組は時折見てゐたし、本は何冊か読んだ。今でも10冊ぐらゐはすぐに探せるところにある。最近見てゐた上記の番組では、著書は600冊以上あるといふから多作家である。

 何より私にとつての渡部氏は、大学生のときに読んだ『知的生活の方法』『歴史の読み方』の著者である。保守派の大論客であることは氏を紹介するのに必要な大きな事柄であるが、私にとつては生活者として教養人がどう生きるかといふことを具体的に教へてくれる人物であつた。書斎の作り方、家の建て方、さういふものを具体的に図面で示してあり、夢のやうな話であるが、それを見て空想できる楽しい時間であつた。

 その後、英語学の大権威であり、書くべきものを若くして書いてしまつたが故に才能を浪費してゐるのではないかといふことを信頼する友人から聞き、なるほどさういふものかと思つた。

 山形の同窓であつた井上ひさしは、渡部を嫌つてをり文章のなかで揶揄してゐたことがあつたが、さういふ嫌味なところが劇作家には必要なのかもしれないが、井上の下卑た言動の方が悪い印象として残つてゐる。渡部には井上ひさしを揶揄したものはないと思ふ。

 また福田恆存は渡部をくさしたところもあつたし、その通りと私も思ふが、それを読んでゐるはずの渡部の福田恆存への批判を寡聞にして私は聞いたことがない。

 一冊2000万円以上する初版の『カンタベリー物語』などを含む、15万冊以上の貴重な書物に囲まれて亡くなられた。渡部先生の御冥福を祈る。

 その御学恩に感謝します。ありがたうござました。

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1 コメント

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Unknown (マロン・ナポレオン)
2017-04-24 14:12:54
私も、渡部昇一氏の御著作にお世話になり、ご冥福をお祈りするものですが、一点だけ。

また福田恆存は渡部をくさしたところもあつたし、その通りと私も思ふが、それを読んでゐるはずの渡部の福田恆存への批判を寡聞にして私は聞いたことがない。
-> 実はあるのです。福田恆存ご逝去の3年後、1997年の、谷沢永一との対談本『人生は論語に窮まる』(PHP研究所)において、福田氏の批判に答へるといふことでなく、全く違ふ話題で、渡部氏が福田氏を「批判」してゐます。曰く、恆存が清水幾太郎を批判したが、それは、恆存の清水への嫉妬故だつた、清水は外国語が堪能だつたが恆存は実は英語がさほど読めなかつたさうだ、などといふ内容でした。私には中傷としか思へず、唖然としたのを覚えてをります。ご機会がありましたら、お目通しいただけますと幸ひです。
 

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