言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

丸山真男の種明かし

2017年06月14日 13時25分44秒 | 日記

 丸山真男に『「である」ことと「する」こと』といふ論文がある。もともとは講演の内容で、日本の伝統的社会を「である」社会と規定し、近代化していく状況を「する」化と名付けた。存在論と現象論とを同時にとらへた文章で、高校生にはかなり難しい内容のやうであるが、私にはとても面白く感じられる。

 近代化とは、西洋化「する」ことである。日本の伝統的価値観は、私達が日本人「である」ところから発したものであり、どうして目上の人の前で足を組んで話してはいけないのかを西洋的論理で説明「する」ことはできない。日本的論理で言ふしかない。それは日本人「である」からだといふ風にである。

 「である」と「する」とは非常に優れた比喩で、山崎正和も近著『世界文明史の試み』の中で、「する」身体と「ある」身体といふ比喩を用ゐ、その影響を示してゐる。

 ところがである。丸山自身もこの言葉を別の思想家からの影響で使用したものではないかといふのが私の見立てである。といふのは、くだんの『「である」ことと「する」こと』の中に、シーグフリードの文章が引用されてゐるが、そこにかうあるからだ。

「アンドレ・シーグフリードが『現代』という書物のなかでこういう意味のことをいっております。「教養においては――ここで教養とシーグフリードがいっているのは、いわゆる物知りという意味の教養ではなくて、内面的な精神生活のことをいうのですが――、しかるべき手段、しかるべき方法を用いて果たすべき機能が問題なのではなくて、自分について知ること、自分と社会との関係や自然との関係について、自覚をもつこと、これが問題なのだ。」そうして彼はちょうど「である」と「する」という言葉をつかって、教養のかけがえのない個体性が、彼のすることではなくて、彼があるところにあるという自覚をもとうするところに軸をおいていることを強調しています。」

 丸山真男の発想に、そもそも「である」と「する」との二つの原理があつて、それによつて日本社会の分析が始まつた。そして、考へを進めてゐるうちにシーグフリードに行き当たつたといふ構成になつてゐるやうだが、実はこのシーグフリードの文章を先に読んでゐてそこに出てゐた術語を見て、「これは使へる」と思ひ日本の社会分析に利用したといふのが真相ではなからうか。

 丸山真男の書庫が、こちらに再現されてゐる。シーグフリードの書物に書き込みがあるかどうか、いつ読んだのかが分かると面白い。はずれてゐるかもしれないが。

 

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