言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

『日本語をさかのぼる』を読む。

2017年01月30日 13時48分42秒 | 日記

 日本語学の泰斗大野晋の著書である。初版が1974年であるから、40年以上も前の本である。

 私も大学で「国語学」を学んで以降、この分野の学問の状況は分からないので何とも言へないが、この日本語の語源研究がどういふ評価を受けてゐるのか知りたいが、否定肯定いづれにせよこの文献が出発点であることは事実であらう。

 とは言へ、そもそも日本語の語源を探るといふのが素人談義に見られかねない。語源などといふものはなんとでも言へるといふことをすでに大槻文彦『言海』が証明してしまつたので(「言海の限界」などと揶揄される)、学者は敬遠してゐる。

 語源研究は、それほど難しいといふことである。

 さて本書であるが、とても構への大きい立論である。漢字が入つてくる以前に、私たち(「私たち」と言つても、日本列島といふ共同体に共存してゐる人にさういふ意識があつたかどうかは措くことにする)が、どういふ言葉で世界を見、どうとらへてゐたのかといふことを目指しながら日本語の源流を探つてゐる。

 じつは昨日、在野の思想家を囲んでの「言語哲学研究会」に参加した。昨日の課題が本書であつたわけだ。各自が本を読んで来て、その方が一冊を解説し、事あるごとに議論を交はすといふスタイルであつた。詳細なレジュメを元に四時間。あつといふ間の研究会であつた。これだけのレジュメを作るのにどれほどの時間を要しただらうと思はせるほどのものである。

 大野晋に寄りかかりすぎで、もう少し批判的な見方があると良かつたが、国語学の専門家がゐたわけでもなく、それは仕方ない。

 大きく盛り上がつたのは、日本語には「ある」と「ゐる」との違いがあるといふことであつた。本書からは離れてしまつたが。

 日本語の「ゐる」には、「花が咲いてゐる」といふやうな使ひ方がある。一方「花がある」といふ言葉もある。「ゐる」は、発話者とその対象とが共に一つの世界に居合はせてゐるといふ意味である。ところが、西洋語には「ゐる」「ある」の違ひがない。だから、ハイデガーも人を表すのに「現存在(Da-Sein)」などといふ言葉を用ゐなければならかつたといふのだ。Seinだけでは、人も物も表してしまふことになるからだ。日本語なら「ゐる」で十分だ。

 そもそも存在論的問ひが日本人にはよく分からない。「ゐる」とは何か、といふことが分からないと言ふ。

 それが日本人の秀でた点だといふのが昨日の結論であつたが、それはどうかと思ふ。

 過去は消え、未来は見えないといふ時間の一点に立たずむ近代人の孤独な存在の意味を問うた実存的問ひを、私たちが克服してゐるとはとても思へない。

 本書の要約は不可能だ。こまかい言葉の一つ一つの語源は実際に読んでもらふしかない。しかし、かういふ本を読みながら語り合ふのはとてもいい時間だつた。

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