言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

Theory of Knowledgeにどう対すべきか。

2016年10月17日 13時33分01秒 | 日記

 新しい知識を得ることに喜びを感じてゐた。「へえ、さういふことなのか」といふ歓喜が学びの初動にあつた。今もきつとあるだらうが、なかなかそれが難しいといふ状況が今はある。

 「覚えることが増える!」「試験範囲が広がる!」といふところに還元されてしまふから、新しい知識との出会ひが学びを発動しない。これは厄介な事態である。

 知識が「もの」として物象化してしまふから、「量」に還元してしまふのである。それでは抱へるのに限界があらう。まして抱へる気もなければ、抱へる能力もないのであれば、「もの」としての知識は身につかない。

 この例で言ふと、「抱へる気」や「抱へる能力」の格差が、苅谷剛彦氏の言ふ「インセンティブディバイド」である。生育暦によつて気持ちや能力に格差が生まれてしまふのである。そして、「もの」としての知識ではなく、「こと」としての知識を身につけさせようといふのが「知の理論」である。その核心は、テキストによれば次の二つである。

 1 「私は知っている」あるいは「私たちは知っている」と言うとき、それはどのようなことを意味するのか。

 2 その知識は、何に基づいているのか。

 の二つである。このやうに問ふことによつて、「知識を体系的に生み出す仕組み」が醸成されるといふやうに考へてゐるらしい。

 じつに理想的である。しかし、さう甘くないだらう。「もの」としての知識がなければ、「こと」としての知識も生まれ出ない。比喩で言へば、乗り「もの」としての自動車がなければ、乗る「こと」としての運転知識は身につかない。まさに両輪である。今は、「もの」の徹底的習得がなほざりになつてゐるのではないか。知識習得の精度を上げることなしには始まらないのではないか。私はさう思つてゐる。

 

 

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