言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

山崎正和『文明としての教育』

2008年01月02日 14時30分30秒 | 日記・エッセイ・コラム

文明としての教育 (新潮新書 241) 文明としての教育 (新潮新書 241)
価格:¥ 714(税込)
発売日:2007-12
 新潮新書の新刊、山崎正和氏の『文明としての教育』を讀んだ。口述筆記といふスタイルのせいか、ずゐぶんと讀み易い本になつてゐる。もちろん、説明がもう少し欲しいなといふところがいくつかあるが、山崎教育論の骨子は見事に出てゐる本である。今は、讀み終はつたばかりでうまくまとまらないかもしれないが、こちらも批評の骨子だけ書いておかうと思ふ。

 まづはタイトルについてであるが、「近代文明における教育の在り方」といふ意味であらうが、「として」といふのは分かりにくい。時代と共に教育の在り方は變はる、現在は「近代化」の眞つ只中にあるのだから、それに相應しい教育の在り方を見出すべきだといふのである。

 近代教育の役割には「サービス」と「統治」とがあり、その混同が現代の教育の本質的問題であるといふ。具體的に言へば、歴史教育も道徳教育も統治としては留保すべき事柄であり教へる必要のないことであるし、皮肉なことに中學生にとつての樂しみの一つである「部活」も學校が行ふサービスとして過剩であり、地域に讓るべきだといふことになる。つまり、サービスとしての役割は減らし各自の自主性を尊重し、統治としての役割は嚴選して個人に強制する――これが近代文明の教育であるといふのが結論である。

 これまでにも何度となく書かれて來たことである。歴史教育や道徳教育については、保守派とは一線を劃してゐて興味深い。私自身もこの考へに近い。サービスも嚴選すべきといふのも贊成である。しかし、なにか違和感がある。その違和感をはつきり感じたのが次の文である。

「愛国心とは、何より現代の日本社会、すでに多様な要素を含んだ文化にたいして向けられるものでなければならないでしょう。」(167頁)

「現代の日本社会」にたいして「愛国心」を持てとはどういふことであらうか。愛國心とは、山崎氏が書いてゐるやうに「伝統の末端に現代日本文化がある」ゆゑに持つべきものではないとは言へ、「現代」の「文化」のみを對象とすべきといふのはあまりに合理的すぎる。學校教育の學習内容は「合理的」でなければならないといふのが、山崎氏の意圖であるのは承知の上であるが、文化といふものがそもそも合理的であるかどうか、現代文化の中にも傳統的なものが入つてゐると考へることは、山崎氏とは違ふ意味で十二分に合理的である。大人の顏に子供の頃の面影があるのは當然のことであるやうに。

 どうやら、氏は、文明と文化を器用に分け過ぎるきらひがあるやうだ。教育は文明であるがゆゑに文明に關はるものだけを教へよといふのである。だから、假名遣ひについても少少觸れられてゐるが、だいぶん以前の主張よりは後退してゐる。文化の傳承といふのは、學校教育では排除されるべきだといふことなのだらうか。かつて氏は歴史的假名遣ひで書いてゐたが、しばらく前から「新かなづかい」を使つてゐる。そのことを私は批難してゐるのではない。だが、傳統文化としての歴史的假名遣ひは、「現代の文化」としての「新かなづかい」の前に敗北してゐる現状においては、歴史的假名遣ひを必要とする合理的理由はない、だから教へる必要はない、と考へるのはをかしいだらう。さう氏が考へてゐられるのは、假名遣ひが文明の産物だと思つてゐるからである。確かに、正書法といふ考へ方は文明に屬さう。しかしながら、それぞれの國の正書法の在り方は、すぐれて文化的である。もつと言へば、書き言葉を尊重する私たちの國語においては、正書法である假名遣ひは精神の在り方と強く結びついてゐるのである。少なくともこの問題においては、それが文化か文明かを「合理的」に判斷できるものではない。「もういちど機会があれば、私たちは仮名遣いについて再検討しなければならない、と私は考えています」(162頁)とほんたうに氏が考へてゐるのなら、今、中央教育審議會の會長である立場で少なくとも、この問題について發言はすべきである。これこそ「統治」にかかはる重大議題である、と考へてゐる私の意見は牽強附會であらうか。

 しかしながら、氏の文體はいつもながら秀逸である。「四六時中、子供たちは刺激的でしかも断片的な、受け身でしか受け取れない情報に首まで浸かっているわけです。これに慣れてしまった結果、情報漬けでいないと子供たちは落ち着けない。これを別の面から見ると、現代の子供たちは孤独になる権利を奪われているといえるのです。」(191頁)とあるが、「孤独になる権利を奪われている」のは、何も子供だけではないが、情報洪水の害悪を言ふには、これ以上ない譬喩であらう。その他にも、魅力的な文章が散見され、堪能できる。なにより、こちらの頭腦を動かしてくれる。その意味でも良書である。

 それにしても、文明に役立つための教育といふことがあまりに強調されるのは、やはり山崎氏に統治者としての意識が強いせいであらう。その意味で、鴎外を「家長」として捉へた文藝批評家の面目躍如である。しかし、教育の基盤になる道徳は時代によつて變はらないものであるといふ認識や、さらにその道徳の根源にある「個人の命よりも大事なものがある」といふ認識が本書では忌避されてゐるのは、この著作が近代合理主義者の産物であることを示してゐる。

  そして、ほんたうに個人が大事だと思ふのなら文部科學省などいらないと言ひ切るべきであるが、それを言ふほどには根源的でもない。その意味でも政治的合理主義である。もちろん、これが現實的な判斷といふものなのだらう。しかし、事實が大事だと言ふのなら、命を惜しまず、自己の責任において教育を行つた私塾によつて、近代が切り開かれたといふのもまぎれもない事實なのである。となれば、教育を變へられるのは、命も惜しみ個人の責任も囘避する、臆病で尊大な中教審や文科省であるはずはない、といふことも隱しやうのない事實なのである。

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