言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

ファンクショナリズムについて

2016年10月01日 08時18分41秒 | 日記

 

 

 

  今日は、これから東京に行く。「知の理論」の学習会。

  新しい学校の在り方を求める一環で、参加を希望した。既に教材は2月頃に求めて少し読んだが、現実の授業でどう扱つて良いものやら分からずに、そのままにしてあつたが、この学習会を通じて何かきつかけになるものがあれば得て来たいと思ふ。

 さて、標題であるが、機能主義と訳されるこの思考であるが、これが随分と学校教育を害してゐると考へてゐる。芦田宏直氏の要約によれば、「述語をたくさん集めれば、主語の本質が分かると考へる思考」のことである。この要約は氏の言葉通りではないので悪しからずご了承願ふ。

  例へば、野球選手のイチローについて語るとして、アメリカにゐる、高打率のバッターと言つたところで、イチローについて分かつたことにならない。野球についても、打率についても、バッターについてもそれぞれ、「◯◯とは」といふ説明が必要になる。その作業を果てなく進めてもそれでも、その実態は分からないのではないか。主語を知る方法は、別にあるのではないか。

  私はそれを田辺元を読みながら、かつて統辞的論理としてまとめたことがあるけれども、つまりは主語と述語とをつなげるテーマを追究するといふ視点を持たせるといふことである。

  考へてみれば明らかであるが、私たちが言葉を話したり書いたりする時に、話しながら書きながら、言葉を紡いでいくのである。主語を構成する述語をいくつも考へて文を作るといふよりも、主語を意識しながら(あるいはあまり意識することもなく)あるテーマを追ひかける途上に述語がつぎつぎに産み落とされていくといふのが実相ではなからうか。となれば、教育といつても同じことでテーマを追ひかける思ひがなければ述語をいくら集めても主語はつかめず文は構成されない。さう思ふ。

 

「知の理論」が、生徒の心にテーマを宿すきつかけになるものであるかどうか、それを考へて参加したい。

 

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