言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

道路が誰も幸福にしてゐない件。

2016年10月16日 19時34分32秒 | 日記

 今日は、長距離歩行の下見のため知多半島を終日見て回つた。歩行することがめつきり少なくなつた現代人には道路を数キロも歩くといふことはほとんどない。

 走ると言へば、競技場を走るか、道路を閉鎖して一時的にマラソンコースとなつた所を走るかである。もちろん一人で街中を気ままに走るのであれば自由に走れるが、それでも歩道のない自動車道があまりに多いことに閉口するに違ひない。

 道は自動車のためのものとなつてゐる。車道に穴でも開けば即刻修理することになるだらうが、草が茂つてきて歩きにくくなつた歩道はそのままで、ますます人が歩かなくなるから歩道は草に覆はれてしまふ。今日一日観察しただけでもさういふところがあまりに多いことに気付かされた。もちろん、歩道のない道路もたくさんあつた。対向する自動車がぎりぎり通れるほどの車道には歩道を確保する余裕はないといふことであらう。もはや日本の道は歩いては目的地にたどり着けない状況にあるのだらう。

 車は日進月歩で進歩していくけれども、道路事情はまつたく変はらない。車の魅力を一番感じるのは、カタログやCMで見たときとディーラーで見る止まつた車の実物を見たときであつて、走つてみればその性能を感じることができないといふのでは実にお粗末である。狭い道路、駐車場のない目的地、高い駐車料金、渋滞する道路、疲れ果てて帰宅するやうでは、若者の自動車離れは加速するばかり。自動車は道路とセットであるといふことをそろそろメーカーも考へる必要があらう。まさか日本の市場を放つておいて海外で売り逃げることしか考へてゐないといふわけではあるまい。

 現在の道路は、歩行者を寄せ付けず、自動車には不快なものとなつてゐる。かういふ状況を解決するためには、道路の整備にお金をかけるしかあるまい。インフラ整備は終はつたのではなく、もう一度やり直すことが求められてゐるのである。

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