言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

『教育の力』を読んで

2017年05月15日 14時54分50秒 | 日記

 教育学者の苫野一徳氏の著書の二冊目である。

 デゥーイの教育学とフッサールの現象学とを合はせて教育を語るのが、苫野氏の教育論である。

 理性では唯一の心理にたどり着くことはできない。だから「共通了解」を探るといふことにおいてのみ、ものごとはより良き方向に向かふといふ確信が著者にはある。その核心は決して相対化されることはないから気持ちは良い。

 結論においても概ね賛同する。「個人の自由」の確保と互ひの承認、そして「一般福祉」の向上、これのみが教育の果たすべき役割である。その通りである。

 個人の自由もなく、互ひの自由の尊重もなく、全体として停滞してゐる。さういふ状況が私たちの現在ではないだらうか。

 そこからより良き未来に向かふには、共通了解を探る以外にない。

 近著の『はじめての哲学的思考』で詳細に述べられたところである。

 学ぶところ大であつた。ただ、少少「いい人」すぎる論説で息苦しい。かういふ人が中等教育の現場に立つと案外御自分の理屈につぶされて倒れてしまふものである。現実の闇は、きれいごとではない。そのことを思ふとやや青さも感じる。しかし、それはそれでいい。学問なのだから。

 いちばんおもしろい指摘だと感じたのは、学校教育法規則には、各教科の「標準授業時間数」は定められてゐるものの、それが集団でやらなければならないといふ縛りはないといふことである。つまりは個別に対応してよいといふことである。さうなればクラスに基づいて一斉に授業を行ふ必要もないといふことになる。学校空間がクラスで出来上がる必然性もそこにはないとなれば、今とは異なる学校のありやうも出来上がるといふことが示唆された気がした。

 知的な興奮がしばしば湧き上がる好著であつた。

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