新・からっぽ禅蔵

上座部仏教僧としてタイで修行の後、日本の禅僧となった、水辺を愛するサーファー僧侶のブログ。

禅話102ーその道に仏祖なし!ー

2017-04-04 14:43:50 | 日記
◆南嶽玄泰和尚


○原文

師来晨遷化、今日並無僧到。自出山口、喚得一人、令備香薪於山所訖、被衣而坐、乃書二偈曰、
「今年六十五、四大将離主。其道自玄玄、个中無佛祖。」
又曰、
「不用剃頭、不用澡浴。一堆猛火、千足万足。」


○試訳

師に遷化(せんげ=亡くなる事)来たる晨(とき)、今日、到る僧 並(みな)無し。自ら山口(山門の意か)に出(い)でて一人(いちにん)を得て喚ぶ。香薪を山所に於いて備え訖(お)わら令(せ)しめ、衣を被りて坐して乃(すなわ)ち二偈(2つのコメント)を書して曰く、
「今日六十五(65歳)、四大(身体を構成する四大要素) 将(もっ)て主(わたし)を離る。其の道 自ずから玄玄(げんげん=奥深いの意)として、个中(かちゅう=数えられる存在の意か)に仏祖なし。」
また曰く、
「剃頭(浄髪)を用いず、澡浴(入浴)を用いず(もう剃髪する必要も 入浴する必要もなくなった)、猛火(荼毘の炎か)は一堆にして、千足万足(遥か遠くへ行くの意か)。」

◇一挙手一投足の “今” が仏道修行である。
作法通りに髪を剃る事も、作法通りに入浴する事も、すべてが仏道修行であるのだ。
しかし、この世を離れたら、もうそんな行為は一切必要なくなる。
そしてその先には、もう仏も祖師もない。
ただ1人、遥か遠い黄泉の道をゆくだけだ、といったところか。

だとすれば彼は、死後に於いては、仏法に何ら期待はしていない。
僧侶でありながら、死後には、一切 仏法を頼らない、という宣言のようにも思える。

そうであるならば、僕としては、ある意味 好感が持てる。

僕も、死後にまで、“人為的な枠組み” を持ち込むのはゴメンだ。
そのときには、身1つで身軽で臨みたいものだ。





写真:湖面のカヌー上から桜をめでる。

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