コンドルセは、革命権力が人民に対して公教育を保障しなければならないのは、「人類に属する全ての個人」の幸福のためであって、決して国家権力のためではないことを明瞭に述べています。
「人類に属する全ての個人に、みずからの欲求を満たし、幸福を保証し、権利を認識して行使し、義務を理解して履行する手段を提供すること。
各人がその生業を完成し、各人につく権利のある社会的職務の遂行を可能にし、自然から受け取った才能を完全に開花させ、そのことによって市民間の事実上の平等を確立し、法によって認められた政治的平等を現実のものにする方策を保障すること。
これらのことが国民教育の第一の目的でなければならない。そしてこの観点からすれば、国民の教育は公権力にとって当然の義務である。」
「各人がその生業を完成し、各人につく権利のある社会的職務の遂行を可能にし、自然から受け取った才能を完全に開花させ」ることを、今の日本の教育基本法では「人格の完成」という言葉で言い表しています。
また、 前シリーズの第2回「日本国憲法の究極目的は?」でも述べたように、憲法第14条で個人の尊重、個人の幸福追求権を究極目的としていることとも深く関わっています。
こうした見地を示す「個人主義」という言葉は、しばしば「利己主義」と混同されて使用されますが、まったく違います。
利己主義の場合、「自分」の利益だけを重視し、そのためには他者の権利を顧みないということになります。しかし、個人主義の場合は、「全ての個人」にとっての利益が問題にされます。したがって、それが実現されるような社会のあり方を追求していくという方向に向かいます。
封建制・絶対王政の身分制度の下では、一部の特権階級以外の圧倒的な人々は「個人」としての幸福を追求する権利は与えられていませんでした。王の地位は神から与えられたものであると考えられ、人々が逆らうことはできませんでした。
そうした旧体制を覆して成立した革命権力の下で同じようなことが繰り返されてはならないという考えは、当時の最も先進的な革命家たちが共通してもっていました。
マラーは「貴族による貴族政治を打倒しても、もしそれが金持ちによる貴族政治に変わらねばならないとしたら、われわれは何を得たことになるだろうか?」と述べています。
新たな「貴族政治」にさせないために何が必要なのでしょうか。コンドルセはそれを教育に見出しました。
大阪府(市)教育基本条例案によれば、教育の目的は、すべて何らかの「人材」を作り上げることに収斂されています。「人材」という言葉には、その人本人を尊重するのではなく、それが“何かの役”に立たなければならないという意識が込められています。
それはコンドルセが目指したものとは正反対の方向を向いています。(鈴)











以前は、なにかしら個人と社会を対立させて考えていましたが、個人を尊重しその幸福を実現することこそが社会の役割と考えられるようになりました。