マダムLinのほろ酔いトーク

映画と小説の日々

伊集院静と『いねむり先生』

2012-05-29 22:27:55 | Weblog

「伊集院静」という作家の名を、ゴシップ週刊誌で初めて知ったという人は、われわれの世代には多いのではないだろうか。
その結婚にまつわる三角関係?と、妻となった夏目雅子さんの早逝。

きっと名うてのプレイボーイなのだろう。
妻子持ちの身で、寄りにもよって二人の女優と浮名を流すなんて。
児童文学研究会の友人は「あんな女たらしの小説なんて絶対読むものかと思っていたのよ」という。
ところが、読んでみたら「これがよかったのよ」と。

わたしは友人ほど頭が柔らかくなかったので、知名度を利用して小説を売っている人なのだと、勝手に思っていた。

その思い込みが崩れるのはずいぶん経ってからだ。
わたし自身も人生の壁のようなものに当たり、ふと『美の旅人』を手にしたとき。
その書き出しは美術書にふさわしくない、人生の迷いと苦悩に満ちていた。

ところが『大人の流儀』を拾い読みし、また思いが変わる。
繊細な苦悩の人と思っていたのはとんだ勘違いで、やっぱり彼は「女たらしの遊び人」なのだ。
祇園の舞妓さんに「手切れ金はいか程か」と尋ねたところ「家一軒でよろしおす」と言われ、原稿料を前借しまくったこと。
現在の妻である篠ひろ子さんに、別れるなら慰謝料はけた外れと言われ、やむなく?結婚したことなど、嘘とも実ともつかぬ語り口でぬらりと言ってのける。

ただ者ではないな。

『星月夜』を読んでみた。
ミステリーにしては文章が淡泊すぎると感じた。
犯罪にまつわる人間性は、もっとドロドロネチネチしたものではないのか。
十割蕎麦のような氏の文章は、基本的に犯罪にも捜査にも向かないと思った。

そしてやっと『いねむり先生』に。
ゴシップ週刊誌をにぎわしていた「伊集院静」が、作家「伊集院静」として再びマスコミに現れるまでの、谷間の数年間がそこには描かれていた。
愛妻に死なれ、精神のバランスを崩し、アルコールに溺れ、分裂症の発作が再発し、人間としてのギリギリのところで這うように生きていたサブロー(若き日の伊集院氏)は、Kさんに紹介され「先生」に出会う。

名は明かされていないが、先生とは色川武大、Kさんは黒鉄ヒロシ、歌手のIさんは井上陽水であることは、おのずとわかる仕掛けになっている。
なのに、有名人との交友録では全くない。
「頭がこわれている」と自覚する人たちの、愛と思いやりに満ちた交流が描かれている。

小説を書く才能とは何か。
ある人が言っていた。
才能とは普通「ある」と表現するけれど、小説に関しては「ない」ことが才能なのだと。
一般市民ならだれもが持つコモンセンスのようなもの、平衡感覚、リズムなどがすっぽりと欠落し、それを書くことで補っているのが作家なのだと。

泣ける小説だった。
幻覚、幻聴に悩まされながら、それでも締め切りに追われ「小説書き」という仕事をまっとうした「先生」。
その先生を支え、支えられて旅打ちを続ける「サブロー」の、ほのぼのとして張りつめた綱渡り行脚は、十割蕎麦のような粘りのない伊集院静の文体を得て、独特の味と香りを放った。
これが伊集院静なのかと納得した。
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『2001年宇宙の旅』

2012-05-28 23:05:18 | Weblog
SFファンタジー系は苦手、キューブリック監督も苦手なのに、レンタルショップに出かけ、検索までして見つけてもらったのだから、映画との出会いも縁あればこそか。
友人に勧められ、話題作りにでもなれば、という程度の動機だった。
やはり持つべきものは友?(笑)

苦手ジャンルだけあって前半は気付くと寝ていた。(笑)
で、再度チャレンジ。
結果:感想を言葉でいうのは難しい。

退屈だったのかと言えば、面白かった。
合わなかったのかと言えば、夢中になっていた。

語りつくされているけれど、ヒトザルが投げた「道具」としての白骨が宇宙船に重なってサルの歴史が人類の歴史になる、その映像表現は今の言葉でいうなら「鳥肌もの」です。
そのワンシーンだけで完結していると言いたいくらい。

コンピュータHALの裏切りがあまりにも面白く、この観念的な映画の唯一の「手に汗握る」シーンとなっているため、シュールなラストシーンに戸惑う。
サイケデリックな光、突如現れるロココ調の部屋、老人と化したボーマンがなぜそこで食事し、最後はスターチャイルドなる胎児になって終わるのか。謎、謎、謎。

いろんな解釈があるらしい。
小説を読むと、さらに詳しいいきさつがわかると友人は言う。
でも、なぜか食指が動かない。
何度も手に取るのに、読む気になれない。
なぜ?
たぶん、映画で完結しているから。

図書館の書棚を見れば、アーサー・C・クラークの「宇宙の旅」の続編が何冊も並んでいる。
それを読みたいと思わないのは、ストーリー展開には興味を持ってはいないのだろうな、わたし。

わたしを魅了したのはストーリーでも解釈でもなく、「時代」だった。
映画が製作された時代は、わが青春時代。
小難しいことがもてはやされ、難解な表現こそがゲイジュツと評価された時代。
小説も、哲学も、音楽も、みんな小難しかったなあ。
難題を解くことが人類の成長だと、信じて疑わなかったのだろうか。

不可解な石碑「モノリス」の意味も、本当はパズルのようなものかもしれないのに。
考えてしまうのですよね〜
知恵の輪を玩ぶサルのように。

もしかしたらこの映画、当時のインテリ層に投げられた「知恵の輪」だった?
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最近読んだ本より

2012-05-26 22:49:39 | Weblog
蒸し暑い日だった。
かといって冷房を入れるにはまだ早い。
ドアや窓を開放すれば蚊が入る。
いや、蚊だけではない。今日はお客さんもいっぱい来館。
普段の倍以上の来館者に、くたくたよれよれ。

ふしぎ系の客、ひとり発見(笑)
広告の余白に走り書きしたメモを見せて、この本はあるかという。
『お金の不安が消えるノート〜60日でお金がたまる一日一分の習慣』
「お金がいつかなくなるんじゃないかと、不安でしょうがないんやて」
と言う男性は60代前半か。

あいにく所蔵がなく、県内の図書館にもなかった。
購入すべきかと本の詳細を見れば「書き込み式」とある。
「ちょっと図書館向きじゃないですね。毎日一分書き込めとありますよ」
「なあんだ。じゃあ、自分買わなきゃダメなのか」
そうですよ、投資もせずに儲かる話はないでしょう。

最近読んだ本。  
『七十歳死亡法案、可決』(垣谷美雨・作)
この作家さん、発想が面白い。『結婚相手は抽選で』とか、思わずタイトル借りしたくなるアイデアはすごい。
『結婚相手は抽選で』は少子化対策のため、ある年齢に達しても独身の男女は、強制的に相手をあてがわれるという法案をめぐるドタバタ。拒否権は2回。3回目を行使した者は男女を問わず強制労働を課される。さて、この法案は本当に少子化対策となりうるのか。
荒唐無稽とは思うものの、身につまされることもあり。

ところで『七十歳死亡法案、可決』は高齢化社会対策のため、70歳以上の人間は2年後に強制死亡、それ以下の人間も70歳の誕生日の30日後には死なねばならない法案が強硬可決されたところから始まる。
見えないはずの寿命が見えてしまうとどうなるか。
人はどんな行動をとるのか。
想像の範囲内の暴走ではあるけれど、小さな家庭にも波紋は起きる。
辛口ホームドラマを見るような展開だが、それなりに楽しい。

『相田家のグッドバイ』(森博嗣・作)
工学博士にしてファンタジー作家の半自伝的小説とされる。
森博嗣の小説世界は、わたしにはとても読みこなせないシュールさを持つが、この作品に関してはスラスラと読めた。
というか、ハマった。
熱くならず、かといって冷たくもない独特の距離の置き方は、理系頭脳のなせる技か。

母親は、いったん家に入れたものは、生ごみ以外、決して捨てない人。
箱や缶はマトリョーシカ人形のように入れ子にし、包装紙はきれいにはがしてアイロンをかけ、輪ゴムは大きさ別に分け、収納する。
が、どんなに整頓しても物は増え続け、部屋は物置と化し、それでもスペースがなくなると増築を重ねる。
その母親が亡くなったとき、8千万円は貯めたといわれるへそくりを探すのに、家族がどんなに苦労したかまで、淡々とした筆致で語られるのだ。

執着を描いているようで、実は淡泊。
分をわきまえ、等身大に生きて死んでいった相田家の人々。
読了後、心に残るものがあった。

ところで『相田家のグッドバイ』、書いていて「愛だけのグッドバイ」とも読めることに気付いた。
なるほど、そういう仕掛けもあるのか。
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『赤毛のアン』の思い出

2012-05-23 22:39:25 | Weblog
絶妙な出会いというものがある。
早すぎても、遅すぎてもダメ。
しかるべきときに、しかるべき形で。

小学生のわたしは、本など読むよりも外で遊ぶ方がずっと好きな子どもだった。
勉強は嫌いで、もちろん塾など行ってはいない。

3歳年上の姉は、わたしよりはずっと真面目に勉強し、本を読んでいた。
はじめて図書館へ連れて行ってくれたのも姉だった。
遊んでばかりいるわたしがバカになるのではないかと、本気で心配してくれたのだ。

本好きの父が酒に酔った勢いなのか、「少年少女文学全集」を買ってやると姉に約束した。
わたしはまだ小学1年だった。ろくに字も読めないのに、姉だけ買ってもらえることが悔しくて、「わたしも読む!」と言い張った。

第一回の配本は、忘れもしない『ああ、無情』。
かろうじて文字を読むことはできても、意味など分かるはずもない。
「ああむじょう」と、お経のように唱える題名の意味だって、わかってはいなかったのだ。

月に一度の配本を、姉は待ちわびていた。
なかでも楽しみにしていたのが『赤毛のアン』だった。
ところが、この本がとんだ落丁本だったのだ。
途中、数ページがすっぽりと抜けていた。
自転車で取り換えに行った姉は、在庫がないと言われ、肩を落として帰ってきた。
今でも大切にしているこの全集に、『赤毛のアン』は欠本のままだ。

二度目に「アン」に出会うのは、小学6年の秋。
愛知県豊橋市から岐阜市に引っ越したばかりで、友だちもいなかった。
中学3年になっていた姉が文庫本で購入し、わたしにも勧めてくれた。

学校図書館で借りる児童書しか読んだことのないわたしに、文庫本は新鮮だった。
挿絵のない本を読むのも初めてだったかもしれない。
苦労して読んだ記憶がある。
読めない漢字も結構あった。
それでも読了できたのは、それほどアンの世界が魅力的だったからだろう。

もしも少年少女文学全集の、子供向きに抄訳された『赤毛のアン』に最初に出会ってしまっていたら、それはただの変わった女の子の話で終わったかもしれない。
大人の本として出会ったおかげで、それから数十年、「アン」はいつもわたしの傍らにあり、何十回と繰り返し読む友となった。

子どものころはメルヘンだった世界が、本当は作者の苦悩が生み出した世界だったことも、大人になってから知った。
『赤毛のアンを書きたくなかったモンゴメリ』という本を書かれた梶原由佳さんとは、偶然ネットで知り合い、仲良くしていただく幸運にも恵まれた。
http://www.yukazine.com/

子育てを終え、少し時間ができたときは東京まで出かけ、松本侑子さんの「赤毛のアンの英語講座」を受講したりもした。
英語の原文を買って文庫本と読み比べ、それが完訳に近いことを知った。
だからこそ、大人になってからも色褪せない「アン」でいてくれたのだ。

ある日、もう「アン」を必要としない自分に気付いた。
大人になれないわたしの心を、繭のように包んでくれていたのだろうか。

人生を曲がり角に例えるのも、アンから教わった。
マシュウが死んで進学を断念し、小学校教師になることを決意した時、アンが言うのだ。

「クイーンを出た時には、自分の未来が一直線の道に見えたのよ。そこにたくさん並んでいる里程標も見えたわ。今はそこに曲がり角ができたんだわ。そこを曲がったところになにがあるか知らないけど、最上のものがあると信じようとしているの」

たしか、この言葉、小学六年の感想文にも引用した。(笑)
人生を曲がり角に例えるクセは、このときについてしまったのかもしれない。


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今日から化粧をやめてみる その後

2012-05-22 19:54:31 | Weblog

一切の基礎化粧品を使わなくなってから3か月弱。
残念ながらまだお風呂上りのツッパリ感からは解放されないけれど、ワセリンを薄く伸ばした掌でそっと押さえるだけで収まる程度のもの。

思えば肌断食を決意した3月のはじめ、毎日鏡を見ては悩んでいた。
本当にこんな無謀なことをして大丈夫なのか。
とりかえしのつかないことになったら、どうしよう・・・

シミ、シワだらけの素肌を世間に晒す苦痛も相当なもので、一時はストレスで胃が痛くなったほど。
そのたびに宇津木龍一さんの本を読み直したいと思うけれど、返却されればすぐに貸し出されてしまう売れっ子本だ。

宇津木氏のクリニックで肌断食に成功し、美しい素肌を取り戻したクライアントさんは何千人もいるけれど、やっぱり途中ぐらつくことも多く、脱落していった人も数えきれないほどいるという。
まずは身内からと夫人に勧めたものの、半信半疑でなかなか信じてもらえなかったこと。続行中も何度か挫けそうになり、そのたびに夫である氏から理を説かれ、励まされたこと。一人の意志で続けるのは難しい、そのために本の形にして繰り返し読めるようにするのがいいと夫人に勧められたのが、本書を執筆するきっかけだったという。
やっぱり、みんな思いは同じなのだ。

先日のこと。
図書館で、ある女性が雑誌を探されていた。聞けば基礎化粧品を特集したク○ワッサン。
「最近、肌の衰えが気になって。化粧品の見直しの必要を感じるのよ」と、その女性Sさんはおっしゃる。
Sさんはわたしと同い年、農業に従事する人らしく、毎日長靴履き、浅く日焼けした顔はノーメイク。ラオスで小学校を建築するボランティアにも参加したというSさんは、女性的というより人間的魅力にあふれる人。
ところが、(と言っては失礼だが)宇津木氏の本を紹介すると並々ならぬ関心を示された。
「それ(基礎化粧品断ち)を実行しているの?」とわたしに聞く。
「もちろん。もう二か月半になりますよ」と答えると、私の顔をまじまじと観察し、その本を読んでみると言うのだ。

数日後、Sさんは来館するや「わたしも基礎化粧品、やめたよ」と同志宣言された。
半分化粧品の宣伝のような雑誌よりも、宇津木氏の本の方がずっと説得力があったという。
ワセリンもすでに買い求めたというから、さすが行動が早い辰年。(笑)

メイクをしない人はときどき見かけるけれど、基礎化粧品を一切付けない人は珍しいのではないか。歯磨きや洗顔と同じように、生活の一部に根付いた習慣のようなものだから。
それは「美しくなりたい」「いつまでも若く見られたい」という女性の願望と強く結びつき、そこに疑問を差し挟むことは、根底部分を覆されるような不安を感じる。

お風呂上り、ほのかな香りを愉しみながら肌を整えるひとときは、女としての充足感に包まれる至福の時だった。
せっせと手入れしていれば、信じていれば、きっと奇跡が起こる(肌は蘇る)と、何の根拠もなく信じていたい。そのほの甘い思いを手放せば、女を捨ててしまうような気さえした。

メイクとは何なのか。
一種の仮面効果もあるだろう。
しっかり厚塗りしていた頃、職場でもポーカーフェイスでいることが多かった。
素肌に近い状態になってからは気取ってもしょうがないから、その分、笑顔で補う。(笑)

思えば職場でナンパするわけじゃなし、120%の顔を作る必要がどこにあったろう。
それよりも、ハレの日にこそしっかりメイクして、プチ変身する方がずっと楽しいではないか。

宇津木氏も言う。
いつもメイクで補って120%の自分を作ってしまうと、たまに見せる80%の素顔とのギャップを、人はこう受け取る。
「あの人、素顔はあの程度なのね」

ところが、ふだん80%の素顔でいる人が、ここぞというとき120%の化粧をキメると、人はこう思う。
「思ったより美人じゃないの」

そして、往々にして人は驚いた方の記憶がより強く刷り込まれるものだ。
<たまの化粧>の方が、美人のアピール度は高いというのだ。

化粧をする楽しみは手放したくない。
が、毎日素顔を隠し続ける必要もない。
まずは、ありのままの自分を受け入れよう。
変身は、たまにするから効果があると思おう。

昨日会った娘は言った。
「もうファンデを塗っているのかどうか、聞かなければわからないよ」
肌の肌理が回復し、シミが薄くなった。(あくまで当社比 笑)
細胞がダメージから回復し、全体にハリが戻った(ような気がする)。
何よりも目が慣れた。(笑)
わたし自身も、周りの人たちも。

人工的な香料に敏感になり、ワセリン以外のものを顔にも手にもつけたいとは思わなくなった。
友だちとのお泊り旅行で、素顔を見られる恐怖におびえなくてもいい。

たった3か月でこんなに変われるものなのだ。
「知る」ということは、こういうことなのだ。

化粧品は手放せても、読書はやめられそうにない。
死ぬまで本を読む生活ができたら本望。
そんなことを思うようになったのは、残念だけど色気がなくなってしまったからかもしれないけれどね。(笑)
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呂布の恋〜北方謙三『三国志』を読む

2012-05-21 21:03:01 | Weblog
全13巻を一か月半かかって読了した。
映画『レッドクリフ』程度の知識しかない世界だ。中国史もすっかり忘れてしまった。
おかげで創作小説を読むように、ハラハラドキドキの活劇にのめりこんだ。

北方「三国志」は、ハードボイルドの世界だという。
歴史小説にもハードボイルドにも疎い私にはどのみち新鮮だが、その感想を一言でいうなら、男気にあふれる世界か。
男とはこういう生き物なのか、同じ人間とはいいながら、やはり女とは別の生き物だ。その思いを読後、ますます深くする。

なかでも惚れ込んだのが、呂布奉先。
第3巻まで読んだあたりで友人にそう言うと、呂布は主を二度も裏切る野蛮な男だという。

作者・北方謙三氏は、やはり呂布にという男に特別な思いがあったのではないか。
彼が描いた呂布とは、こんな男だ。

人並み外れた戦闘力を持つが、心は未熟、というか子供のようにシンプルで純粋だ。

たとえば、道ですれ違った女性に一目ぼれし、なんとしても彼女を手に入れたいと思うが、その気持ちをどう表わしたらよいのか、わからない。
困窮した彼は、女をさらい、人里離れた小屋に閉じ込める。
そして一緒になってくれと頼むのだ。

女はかたくなに呂布を拒む。
その野蛮な手段だけでなく、一回り近く自分の方が年上であることが、彼女を躊躇させた。
せっせと運ぶ食べ物にも水にも、手を付けない。
このままでは女は死んでしまう、呂布は気も狂わんばかりになるが、気のきいた口説き文句ひとつ言うこともできない。

数日後のある日、女は思いを定め、身を清めて呂布を受け入れる。
呂布は初めて触れる女体に、心の原初に戻ったような安らぎを覚える。
この日から女「瑶」は、呂布の最愛の妻となるのだ。

最初の主「丁原」を殺すのは、妻を呼び寄せてはならないと言われたから。
二人目の主「董卓」を殺すのは、「老いた妻では、つまらぬだろう」と若い女をあてがわれ、それが妻の気病みの原因になったから。

呂布には、国取りの野望も忠誠心もない。
戦いたいから戦う。男だから戦う。戦う以上は勝つ。
ただ、それだけ。

愛欲はあるが、瑶以外の女性には向かない。
彼女以外は女性ですらないのだ。
第三者の目から見れば、老いてさほど美しくもない瑶なのに、呂布にはかけがえのない魂の拠り所だ。
瑶に送られて戦い、瑶のもとへ戻って眠る。
獣の巣のような存在、それが瑶。それが呂布の「強さ」の源。

呂布の心のもう一つの拠り所に、愛馬・赤兎がいる。
たぐい稀な能力を持つ天下の名馬だけが、稀代の豪傑と心を通わせ合うことができた。
曹操の猛攻の中、主・呂布をなんとか城に連れ戻した愛馬は、深い傷を負っていた。
苦しむ赤兎を助けたい一心で、呂布は敵将曹操に取引を持ちかける・・・
この愛馬と呂布の別れがまた、悲しく美しい。

このあたりから涙が止まらなくなった。
妻に先立たれ、赤兎を手放し、力尽きたかのように乱世に沈んだひとりの男。
信念や戦略に生きる他の武将たちとは全く違うその生き方は、人間というより「男」そのもの。人というより野生動物のようだ。

日本はまだ卑弥呼の時代だろうか。
愛とか忠誠とか、そんな観念など、なかったかもしれない。
だからこそ、現代には絶対に存在しない、呂布のような男の生き方が光る。
存在しえない存在だから、その美しさに心置きなく泣ける。

北方「三国志」は、そんな涙を惜しみなく流せる、上質のカタルシス装置のようでもあった
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ふしぎ系の客

2012-05-14 23:31:17 | Weblog
利用者の方と接していると、ときどき不思議な気分になることがあります。
先日のこと、常連さんの初老の男性が、「書類の忘れ物はなかったか」と聞きます。
カバンや携帯、衣類、靴の忘れ物はありますが、書類は届いていません。
その旨を告げると、その男性は言うのです。
「うん、ちょっと夢で見たのでね」

は? 書類を忘れた夢を見たということ?
で、もしかしたら図書館に届けられているかもしれないと思ったと?

この男性、変わった本をリクエストされます。
「変わった」とは、「変」という意味ではなく、流行や時流に左右されないという程度の意味。
たとえばこんな本がありました。
『お菊さん』

アマゾンのレヴューに「原訳版が1915年(大正四年)、文庫版が1929年(昭和四年)初版の旧字旧仮名遣いの翻訳文なので、『お菊さん』はお世辞にも読み易いとはいえない」と書かれている本です。
県図書館が所蔵していたので取り寄せたところ、黄ばんだ文庫本が送られてきました。
見れば昭和26年のもの。
27年生まれのわたしといい勝負ではありませんか。
本だって、60年も経つとこんなに劣化してしまうのです。
人間がシワだらけ、シミだらけになるのは無理もないと思わずしんみりするような傷みようでした。
読むどころかページを繰るだけでも大変そうな、その老齢な文庫本を、その方はこともなげに借りていって普通に返却されました。
読まれたのでしょうか。
感想を聞いてみたい気もしましたが、それは越権行為ですよね^^;

これも先日のこと。
中学生の女の子がカードを作りたいと言います。
申込用紙を書いてもらおうとしたら、住所の番地がわからないというのです。
「いつもコピペばかりしているので覚えられない」と。
いまどきの中学生、自宅の住所を知らないのでしょうか。
わたしが中学生だった頃、もちろん住所は知っていました。
ペンフレンドに手紙を書くとき、封筒の裏にしっかり書かなくちゃいけませんでしたから。
でも今は友達とのやりとりもメールが主流でしょう。
住所を覚える機会、ないかも。

でもそのおかげで、しっかりその子の名前を憶えてしまいました。
そして数時間後、そのカードが落し物として届けられました。
なんてそそっかしい。
作ってすぐに落としたみたいです。
しかもご本人はまだ館内で友だちグループと勉強中のようです。
「**さん、カード落ちてましたよ」と声をかけました。
すると、「どうして私の名前を知っているんですか」と驚くのです。
たしかに登録した人の名前をすべて覚えているわけではありません。
でも「あなたはインパクトが強かったのよ」とも言えず。(笑)

不思議なもので名前を憶えられていたことがうれしかったのか、その子は次の日も来館し、カウンターにやってきました。
「この人の書いた本、ありますか」とメモ書きを差し出します。
そこには「紅玉」と。
「リンゴ?」とわたし。
「作家さんの名前です。友だちに勧められたんだけど、本を見つけられなくて」
そんな名前の作家さんがいるのでしょうか。
困ったときのネット頼み。検索すると、ありました。紅玉いづき。
「電撃大賞を取った人ですね。ゲーム系?」と言うと、彼女もびっくり。
「電撃文庫だったんですか〜。どこの図書館にもないわけが、やっとわかりました。とってもわかりやすい説明をありがとうございます」

彼女はその後もいくつか探している本のヘルプを求めにやってきました。
図書館の司書は本探しの役に立つということが、少しは分かってもらえたかな。

さあて、明日はどんな「ふしぎ系の客」に出会えるか、たのしみ、たのしみ。
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映画『わが母の記』

2012-05-05 17:44:04 | Weblog
役所広司が母親を背負うCM写真が「いかにも」で、こんな映画は絶対に観るものかと思っていた。お涙ちょうだいに決まっている。

が、GWの中の唯一の休日に、観てしまった。
理由:主人公の名前が「洪作」だったから。

洪作って、あの『しろばんば』の洪作?
見れば原作は井上靖の自伝的小説だとある。
間違いない、あの「洪作」だ。

『しろばんば』は、わたしにとって特別な作品だった。
学生時代、テレビもない下宿の一室で、さびしくなるとこの小説を読んだのだ。
伊豆湯ヶ島の小さな土蔵で、わけありの「祖母」と一緒に暮らす小学生の洪作。
母親も姉妹も健在で、たしか豊橋に住んでいた。
なのになぜか洪作は、小さな土蔵で祖母の愛情だけを頼りに生きている。

あの母と息子の話なのか。
いったいどんな紆余曲折を経て「背負う」シーンに至るのか。
それを知りたくて映画館まで足を運んだ。

作品の背景は1958年から1970年の日本。
豊かにはなっても、まだ<あの戦争>が影を落としていた時代だ。
わたしの子ども時代、青春時代とも重なっている。
『しろばんば』が特別な作品であったのは、作者の井上靖の姿に父親をだぶらせていたからかもしれない。
やはり静岡の田舎に住み、小説家を志していた父だった。
映画の中で娘たちに怒鳴り、家では丹前や浴衣で過ごし、原稿用紙に向かう男は父そのものに重なって、思わず涙ぐんだ。

作品のテーマはやはり「なぜ母は彼を捨てたのか」らしい。
その答えらしきものは妻の口から明示されるが、「なぜもっとはやく教えなかったのだ」という洪作に、妻の言う言葉がいい。
「あなたは捨てられたと思っていた方がよかったのですよ。それでいい小説をいっぱいお書きになれたのですから」

小説とは、心の暗部からふつふつとわき出る、毒ガスのようなものなのか。

認知症の進んだ母親役を樹木希林が好演。
やはり彼女は日本のメリル・ストリープです(笑)

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『異性』(2012年 河出書房新社刊)

2012-05-05 16:48:03 | Weblog

作家の角田光代さんと歌人の穂村弘さんの、恋愛にまつわる交換エッセイ。

軽く一時間程度で読み飛ばせる内容。
が、さすが作家と歌詠み、男女の機微、真相をズバリと言い当てて小気味よい。

たとえば、「おれがいないとだめな女」「おれなんかにはもったいない女」。
フタマタをかけている男が一方を選ぶとき、切り捨てる側に言う決まり文句らしい。
角田氏やその友人は、なぜか「おれがいなくてもひとりで生きていける」側に立たされ、切り捨てられることが多いという。いったいどんな女性が「おれがいないとダメな女」で、どんな要素が「ひとりでも生きていける」と判断させるのか。

これに対する穂村氏の答えは明快で、(このような発言をする)「おれ」の気持ちは「あいつ」を選んで「おまえ」と別れたいだけ。
選ばなかった方を傷つけない方便が「「おれがいなくても・・・」「おれなんかにはもったいない・・・」発言なのだという。
なあるほど。
捨てられる理由はただひとつ、「もう付き合いたくない」に尽きるのだ。

穂村氏の、男の恋愛は4コマ漫画、女性のそれは長編劇画との例えも頷ける。
恋愛に起承転結をつけたがる女と、そのときそのときの判断があるだけの男。
すれ違うのも無理はないか。

泣き落としにかかる女、男の前で泣いてたまるかと歯を食いしばる女。
<デートの費用は男が出すオーラ>全開の女、割り勘にしないと落ち着かない女。
嫉妬する女、しない女。
どちらがいいも悪いもない。
惹かれる理由も、別れる理由も、本当はない。
男女の仲に正解はなく、世の男女はお互いの気持ちを模索し合うだけ。
メビウスの輪のようなエンドレスの追いかけごっこから逃れるには、恋愛市場から降りるしかないのだ。


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LINE

2012-05-01 22:07:36 | Weblog
某SNSで入った映画コミュのリーダーさんに、スマホ同士で無料電話ができるという便利ツールを紹介していただいた。
http://line.naver.jp/ja/

無料だというので、早速トライすることに。
インストールはあっという間に終わり、登録も簡単。
はい、還暦間近のおばさんが「カンタン」と言うのですから、誰でもできること間違いなし(笑)

あちこちいじくりまわしていたら、リーダーさんからWelcomeメッセージが届く。
へえ〜、チャットもできるんだ。
おまけにスタンプとかいう大きな絵文字や、表情豊かなキャラクターがじゃんじゃん送られてくる。
軽く興奮状態ですよ、わたし。

夜になって送られてきたメッセージの送信者は、なんと娘だ。
「登録してみたよ〜」と。
設定時に、アドレス帳から自動検索して、友だちを探してもいいですか? と聞かれ、「はい」を選択したからだろうか。
友だち欄にはいつの間にやら嫁の名前まで。
おまけに友だち候補の欄には婿の名が(笑)

「お誘いが行ったの?」と娘に聞けば、「うん、ママ友から紹介されて」と。
こんな偶然もあるんだ。同じ日に登録なんてね。

「のりちゃんが使ってるプロフ写真、わたしが撮ったのやんか」と娘。
姪の結婚式での夫とのツーショット写真だ。
もちろん夫は切り捨てている。

「かわいそーに」と娘。





深夜にピッピとスタンプを飛ばしあう。
今日会った娘は「あのスタンプには大笑いした」と。

言葉よりも軽いやりとりは、気楽で後腐れもない。
すぐに飽きそうな気もするけれど、仲間が増えたら楽しいかも。

ところで肝心の無料電話はまだ誰とも試していない。
ソフトバンク同士の家族とはもともと無料なので、試す必要もないし。
他社のスマホを使っている人なら便利かもしれないけれど、同世代のスマホ保有率は低そうだなあ。

これを読んでくれた人で、私の携帯番号をご存知の方は、どうぞ検索してくださいな。
スタンプ仲間になりませんか?(笑)
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夫の友人

2012-04-29 23:03:20 | Weblog

大学時代の商業英語クラブの同期だというSさんが、神戸から訪ねてきてくださった。
鉄道が好きな人だから、電車に乗りたくて鈍行で来るらしいよ、と夫。

午後1時に最寄りのJR駅にお迎えに行く。
夫も前に会ったのはいつなのか覚えがないと言うほどの、久しぶりの再会だったらしい
が、顔を合わせたとたんに仲間の噂話に花が咲いている。
共通の青春時代を過ごすと不思議なもので、どんなにブランクがあっても会えば時間を飛び越えるみたいだ。

わたしにとってはほとんど未知の人たちなのに、話に加わっているだけで、共通の友人のような錯覚に襲われる。
Sさんの話術、いや魔術なのかな。

夫が病後でなければ、わたしが同席することもきっとなかった。
病気は決して喜ばしいことではないけれど、それをきっかけに世の中の見方が変わったり、思いがけない人の輪に恵まれたりもするのならば、悪くない。

世の中に不幸などはなく、不幸な見方や考え方があるだけなのか。

手料理でおもてなしできればよかったのだけど、さすがフルタイム勤務では気持ちの余裕もなく、近所の料理旅館でランチ。
田舎の特権で、普通のランチでも個室でゆったり過ごせる。
どれだけいてもいいですよ、と言ってもらったけれど、1時間ほどで我が家に移動。
お天気もいいし、庭でお茶しようとパラソル立てて用意していたけれど、Sさんの選んだ場所はなんと台所(笑)
ひとりでお茶を用意していたわたしを気遣ってか、家族の食事するテーブルで2時間もおしゃべりに花を咲かせることになった。

「妻とはほとんど会話らしい会話はしないんですけどね」という言葉が信じられないほど、Sさんの話題は豊富で、失語症の夫を気遣ってか、ほとんどひとりで座を切り盛りしてくださる。
唯一残念だったのは、お酒を飲めない体質らしく、用意していたビールとワインが空振りになったこと。飲めばもっと饒舌になったのになあ、わたし(笑)

「会社の人とは毎日長時間一緒に過ごしても、なぜか仕事を離れると付き合いがなくなってしまう。反対に学生時代の仲間は何十年疎遠にしていても、会った瞬間に昔に戻って盛り上がれるんですよね」と言う通り、ほとんど接点のなかったJさんと夫は、お茶だけで3時間以上も盛り上がっていた。

夫の病後の状態を心配して、同級生を代表して様子を見に来てくださったらしい。
そういう仲間に恵まれた夫をうらやましく思う。
団塊の世代の団結の強さ?
それとも、集団行動を好む男子の特性?
夫の人徳? まさかね(笑)

仕事をし終え、第二の人生に差し掛かり始めたころ、家庭でも子供たちが独立し、ふと生きる目的を見失うのが60代前半なのかもしれない。

Sさんが重たい思いをして持ってきてくださったお土産、神戸牛の味噌漬けを夕食でいただいた。


うーん、とろけるような、それでいてさっぱりした脂は、ワサビを薬味に添えると最高。
Sさんのために用意していたビールを夫と平らげながら、私たち夫婦も久しぶりに会話らしい会話をした。
老後の生活の活性化って、共通の友を持つこと?
神戸から電車を乗り継いで来てくださったSさんのフットワークの軽さに感謝しつつ、わたしまで学生時代に戻りそうになった、春のひとときなのでした。

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昭和の香り

2012-04-27 18:04:33 | Weblog

昨年末、横浜のラーメン博物館へ行った。
10年以上前から一度訪れたいと思い、新横浜に行くたびにそのあたりをうろつくのだけれど、いつも行列ができていて断念。
今はさすがに行列はなく、やっと夢がかなった。

目的はもちろんラーメンを食べるためだが、入場料を300円も取られる。
施設維持費か。

中は意外と狭く、地下一階と地下二階に分れている。
ラーメン屋さんも小じんまりした店構え。ピークのときはここにも行列ができたのかしら。

いろんな味を楽しみたいので、ハーフサイズを注文。それでも600円近くする。
岐阜ならそれで普通のラーメンが食べられるのに^^;

レトロな街並みを歩くと、子ども時代に戻ったような気がしてくる。
紙芝居屋さん、なつかしい。

映画館の窓口。

そうそう、昔は本編の前にニュースがあったのね。
子どものころはとっても退屈な時間だった。

「怪盗ナルト仮面」のクイズに挑戦。
「市営地下鉄の大人の料金はいくら?」
1・15円  2・20円  3・30円。
田舎のバスの大人料金は10円でした。

「割橋駅付近で売りに出された家の値段は?」
1・82万円  2・820万円  3・8万2千円
うーん、見当もつかない。昔は100万長者なんて言葉もあったくらいだから、1かなあ。

「スカラ座で次会上映の『サザエさん』を演じる女優さんはだれ?」
1・江利チエミ  2・美空ひばり  3・雪村いづみ
これは友人と意見が分かれた。江利チエミがサザエさんを演じたのは間違いないけれど、それはテレビドラマだったと主張するわたしと、映画版もそうだったと言う友人。
銭湯へいく途中の階段にポスターが貼ってあったはずと見に行くと、果たして江利チエミだった。

途中の電気屋さんにはこんなナショナル坊や。これ、欲しかったなあ。

今はもうナショナルという商標さえなくなってしまった。
我が家の初代テレビはこれ。
国鉄官舎住まいだった当時、近所の家にアンテナが立つたびに焦った。
親に泣き付いてやっと買ってもらったテレビの横で、ポーズをとるわたしは小学1年生。

さすがにモンペは普段着じゃありません(笑)
学芸会で「花咲じじい」の役が当たり、母に作ってもらった衣装で満足げにポーズをとっているのです。

こんな写真を見るにつけ、昭和は遠くなりにけりと感じる。
そうそう、当時はラーメンではなく中華そばと呼んでいましたっけ。

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あなたが寝てる間に

2012-04-15 22:23:04 | Weblog
iphoneアプリです。


ずっと前に新聞で紹介されているのを見て、探すともなく探していた一品。
惹かれたのは、睡眠が浅くなったときにアラームを鳴らしてくれる機能。
そんなことが携帯ごときにできるものかと半信半疑ながら、寝言やイビキも録音してくれるとあらば、好奇心で購入。

寝ている間の自分の行状は気になる。
自分のことなのに、本人だけがわからないのだから。
イビキをかいていないか、寝返りが激しいのではないか? 寝言を言ってはいないか?

以前夫に、「お酒を飲んだ夜はイビキがうるさい」と言われたことがある。
心優しい友人は、イビキかかなかった?と訊けば、大丈夫と言ってくれるけれど、私だって同じことを聞かれたら、正直に答えられるかは疑問。

寝返りを何度も打っていたよ、と言われたことも。
これは心当たりあり。明け方、掛布団がベッドから落ちかけて目覚めたことが何度かある。
ちなみにわたし自身が落ちたことはない。

一日目。
アプリをセットして枕元に置く。
寝酒でしっかりヨッパらってから寝てみる。
「酔うとイビキ」という、夫の証言をまず検証せねば。

朝、ドキドキながら結果を見ると、2時間半しか寝ていないことになっている。
どうやら夜中にネット接続して、アプリを終了させてしまったらしい。
あーあ、だからヨッパはね〜

でも記録された0時半から2時半の間、何度も寝返りを打っているのがわかる。
睡眠も浅い。
録音されたものを再生。
右上に「小さな音が聞こえてきます」と表示が出る。
時計の秒針の音を拾っている。
ガガガと怪獣が動いたような騒音には、「誰かいるみたいです」と。
誰かって、わたしがいるのですよ。

「ひそひそ話す声が聞こえます」とか、
「電話が鳴るような音が聞こえます」とか、
挙句の果ては「地下鉄が走っているような音が聞こえます」とまで。
地下鉄どころか、たった一本のローカル線さえも8年前に廃線になった田舎なのに。
夫がトイレの水を流した音か。
まさかイビキではないよね?

二日目。
寝酒なし。寝つけないのではと思ったけれど、疲れていたのかあっさり陥落。
一度も起きずに5時間半も眠った。
それがこんなグラフで表される。

やっぱりかなり動いている。
寝姿をビデオに撮ってみようか。いやいや、そんなもの見たくもない。

録音をチェック。
イビキはかいていないようだ。
夢を見たので寝言を期待したけれど、それもない。
すうすういう寝息と、ときどき発する呻き?のようなもの。
んふぁあ、ギギギ←ベッドのきしむ音
あ、寝返り打ったなってわかる。

自分の寝息って、なんか妙な感じ。
わたしであって、わたしではない、へんな生き物がいるみたい。

朝は自然に目が覚めてしまうので、せっかくのアラーム機能は、まだ試せずにいる。
でも、自然な目覚めに勝る「自然な目覚め」はないのだから、これでよいのか。

ヨッパのときの激しい寝息を聞くと、もう寝酒はやめようと改めて思う。

ところでセッティングにセーフゾーンチェックというのがあって、寝ている場所の電磁波などを感知するらしい。
これが曲者で同じ場所なのにBADになったりSAFEになったり。
BADの表示になると、「ここは寝るのにふさわしくない場所です。ただちに移動してください」みたいな警告が出る。
そして、機器を振るか、8の字を書いて悪い磁気を克服せよと。
iphoneを振ると本当にSAFEになった(笑)
意味不明^^;

まあ、大人のおもちゃでしょう。
寝言を楽しみにするとしましょう。

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漆に魅せられて

2012-04-08 23:48:19 | Weblog

友人からプレゼントをもらった。
包みを開けると、理科の実験に使うようなガラスの容器。

コルクの栓を抜くと、手で削られた鉛筆一本と、ホルダーが。

一見、何の変哲もないこのホルダー、実は漆塗りなのだ。
友人が自ら塗ったのだという。


連想ゲーム。
漆と聞いて、何を思い浮かべる?

かぶれ、そして、高価。

まず、かぶれ。
手袋、マスクを装備して、恐る恐る扱っていた漆、直後は何ともなかったのだという。
しばらくしても、特に異状はない。
なあんだ、自分はかぶれない体質なんだと気を緩めたころに、どっと来るのだという。
もう、全身がかぶれる。
指の先まで。男性なら**まで。
その痒みにのたうちながら、それでも漆塗りをやめられない。

友人に勧められた『漆塗師物語』を県図書館から取り寄せて、読んでみる。
http://www.sentenmon.jp/story/library/bookdvd/post-17.php
漆に魅せられた一人の男性が、縁もゆかりもない漆職人の世界に飛び込んでいく。
職人の世界の厳しさ。
それにめげない志。
これは男の世界だなあと思う。

そんな職人さんでも、やっぱり最初は漆にはかぶれる。
それはじわじわと蓄積され、ある日突然、その許容量を超えて表面に出る。
それを乗り越えれば、もう大丈夫らしい。
通過儀礼のようなものだろうか。

車谷長吉の小説にも、職人の世界が描かれている。
料亭の下働きをしていた頃、天ぷらを揚げる温度は油に指を入れて測れ、と言われた。
200℃の油に指を入れて、火傷しているうちはダメらしい。
揚げ物屋のおやじさんの指が油に入っているのを実際に見たこともある。
人間の体も鍛えれば、そこまでなる。
最後は志。ある人は強いなあ。

サラリーマンの友人に、「なぜ漆塗りなどを?」と訊くと、「手触りが何とも言えずよいから」と言うだけ。
卵の殻に絵を描いたり、ピンホールカメラを作ってみたり、ジャズバンドでギターを弾いたり、会うたびに趣味が変わっている人。
その趣味の世界を楽しむために、昼食を抜いて費用を捻出するのだという。

アルミのホルダーに塗られた漆は、確かに人肌のようなぬくもりだ。
この感覚が、人を虜にするのか。

使わなければ意味がないから使って、と言われているけれど、いまだに標本のように飾っている。
漆は「普段使い」じゃないという庶民感覚が、すり込まれてしまっているのかな。

奥の深い世界がある。
そんな洞窟を覗きこむたびに、なぜか人生のはかなさを感じるこの頃。
何にも「魅せられない」自分が哀しい。

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庭が焼け野原?

2012-04-08 15:14:31 | Weblog
冬に逆戻りのような今日この頃、でも外に出ると、意外な日差しの明るさに驚かされる。春は着々と近づいていて、自然もちゃんとそれに感応している。
のんびりした休日、洗濯物を干しながらふと見回せば、あちこちに花が咲いている。
いつもこの季節にだけ俄かカメラマンになって、庭の花をパチパチと撮るのも毎度の反応、進歩がないな。

何のお世話もしていないのに、律儀に花をつけてくれる。
もう少しヒマになったらガーデニングにも精を出そうと思いつつ・・・
今は、ありがとう、とお礼だけ。

裏庭のボケ。花の季節にだけ、その存在に気付かれる可哀そうな木。

ハナニラ。これもふだんは雑草にまみれています。ゆるして。

ムラサキハナナ。どこかから飛んできて気ままに咲いてくれます。

カエデの新芽。赤ちゃん葉っぱのかわいいこと。

ところで、我が家の庭の異変と言えば、一か月ほど前、シルバー人材センターさんに頼んで剪定をしてもらったこと。なにしろ10年以上庭師さんを入れていなかったので、荒れ放題もいいところ。樹はジャングル化していて、電線まで脅かす始末。
電柱スペースを貸しているので、電線に接触する部分は中電さんに刈り取ってもらっていた。

シルバーさんなら安い費用でしてくれると聞き、下見に来てもらった。
とりあえず10万円で収まる範囲でお願いします、ということに。
廃棄料もバカにならず、2トントラック一杯で5千円だという。もちろんそれも含めて10万で。

当日、6人の男性が朝早くから来られた。シルバーさんと言っても皆さんまだ若く屈強。
夫にお茶出しを頼んで、わたしは仕事へ。
剪定は半日ほどで終わるはずだった。でなければ10万円で収まらなくなる。
ところが、夕方6時過ぎに戻ると、まだみなさん作業中ではないか。しかも明日も来るという。
えええ? 打ち合わせと違うんじゃ? とは思うものの、留守中、夫が何か指示したのかもしれない。
結局、2日がかりで、庭はこの通りに(笑)

娘が「爆弾、落とされたみたいだね」と。
廃棄物は2トントラックに16杯あったそうだ。
当然10万では収まらない。

きっと夫があれこれ指示して全部やらせたに違いない。
まあ、そこまで回復したと喜ぶべきなのか。
シルバーさんとの打ち合わせのことは当然話しておいたのに、記憶が5分と持たないのだから仕方ないか。
まあ、これで一生剪定はしなくて済むと思えば安いものだ(笑)

こんな禿げ庭になってしまったせいか、春の芽吹きが待ち遠しかった。
これから少しずつ新緑を楽しめる。それがうれしい。


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