「伊集院静」という作家の名を、ゴシップ週刊誌で初めて知ったという人は、われわれの世代には多いのではないだろうか。
その結婚にまつわる三角関係?と、妻となった夏目雅子さんの早逝。
きっと名うてのプレイボーイなのだろう。
妻子持ちの身で、寄りにもよって二人の女優と浮名を流すなんて。
児童文学研究会の友人は「あんな女たらしの小説なんて絶対読むものかと思っていたのよ」という。
ところが、読んでみたら「これがよかったのよ」と。
わたしは友人ほど頭が柔らかくなかったので、知名度を利用して小説を売っている人なのだと、勝手に思っていた。
その思い込みが崩れるのはずいぶん経ってからだ。
わたし自身も人生の壁のようなものに当たり、ふと『美の旅人』を手にしたとき。
その書き出しは美術書にふさわしくない、人生の迷いと苦悩に満ちていた。
ところが『大人の流儀』を拾い読みし、また思いが変わる。
繊細な苦悩の人と思っていたのはとんだ勘違いで、やっぱり彼は「女たらしの遊び人」なのだ。
祇園の舞妓さんに「手切れ金はいか程か」と尋ねたところ「家一軒でよろしおす」と言われ、原稿料を前借しまくったこと。
現在の妻である篠ひろ子さんに、別れるなら慰謝料はけた外れと言われ、やむなく?結婚したことなど、嘘とも実ともつかぬ語り口でぬらりと言ってのける。
ただ者ではないな。
『星月夜』を読んでみた。
ミステリーにしては文章が淡泊すぎると感じた。
犯罪にまつわる人間性は、もっとドロドロネチネチしたものではないのか。
十割蕎麦のような氏の文章は、基本的に犯罪にも捜査にも向かないと思った。
そしてやっと『いねむり先生』に。
ゴシップ週刊誌をにぎわしていた「伊集院静」が、作家「伊集院静」として再びマスコミに現れるまでの、谷間の数年間がそこには描かれていた。
愛妻に死なれ、精神のバランスを崩し、アルコールに溺れ、分裂症の発作が再発し、人間としてのギリギリのところで這うように生きていたサブロー(若き日の伊集院氏)は、Kさんに紹介され「先生」に出会う。
名は明かされていないが、先生とは色川武大、Kさんは黒鉄ヒロシ、歌手のIさんは井上陽水であることは、おのずとわかる仕掛けになっている。
なのに、有名人との交友録では全くない。
「頭がこわれている」と自覚する人たちの、愛と思いやりに満ちた交流が描かれている。
小説を書く才能とは何か。
ある人が言っていた。
才能とは普通「ある」と表現するけれど、小説に関しては「ない」ことが才能なのだと。
一般市民ならだれもが持つコモンセンスのようなもの、平衡感覚、リズムなどがすっぽりと欠落し、それを書くことで補っているのが作家なのだと。
泣ける小説だった。
幻覚、幻聴に悩まされながら、それでも締め切りに追われ「小説書き」という仕事をまっとうした「先生」。
その先生を支え、支えられて旅打ちを続ける「サブロー」の、ほのぼのとして張りつめた綱渡り行脚は、十割蕎麦のような粘りのない伊集院静の文体を得て、独特の味と香りを放った。
これが伊集院静なのかと納得した。
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