母の膵臓癌日記

膵臓癌を宣告された母の毎日を綴る

母の病気経過帳より (5)

2009年12月26日 01時26分41秒 | 日記
「9月19日(土)
便が出ないため朝からお腹が張りどおしだ
昼食後カラオケにS子・Kちゃん・パパでいったが 私は力を入れて歌ったら
いつもの時々痛む食道が痛くなったのであわててやめ水を飲んだらおさまった
後は歌わずに帰って来た 夜は腹の張りがおさまらずオキノーム赤(註・10mm入りの包)を初めて飲みスイミン薬半分飲んで寝るが思うように眠れなかった

9月20日(日)
やはり便が出ない 出ても兎の便のようにころころしたのがほんの少ししか出ない。
午後はS・C(註・女性演歌歌手)の歌を1時間30分位聞きに行き帰って来て1時間ほどねた
それでもまだ眠い

9月21日(月)
今日朝から腹が張って食欲がない 牛乳ものみたくない
裏(註・裏庭)のかたづけをして少々つかれた 昼も食べたくない
3時頃少したべなくてはと思い食べたら吐いてしまった 初めての嘔吐。
夜は眠いのに眠れないで10分・15分おきに目がさめて へんな夢ばかり見ていた
前の方にもシッシンが出て来た 薬の副作用か?

21年9月22日(火)
昨夜眠れなかったわりには今日は気分がよい
朝食も半分位は食べられた T也が皆で来てくれた
Rさん(註・母の弟)からも電話あり 
夜は眠れたような眠れていないような感じだ 座るとすぐ眠くなる

21年9月23日(水)
朝のうち気分が良いので今日初めて(註・病気が発覚してから初めて)ダンスに行った
踊っている時は疲れは感じなかったが帰って来てから食事が取れず気持ちが沈んでしまい、抗癌剤をやりたくないと泣いてしまった
あの気分の悪さは口では言い表せない。
少し休んだら気分が良くなった 少し食事をして薬を飲む
ダンスはほんの少ししかやっていないのだけれど やはり体力がなくなっている」




最初の抗癌剤は母にそれほどの副作用をもたらさなかった。
しかし、2度目からは徐々に出始める。
便秘から始まり眠け、睡眠障害、吐き気、食欲不振…どれがオキシコンチンの副作用でどれが抗癌剤の副作用かわからないのだが
次々と増してくる今までに経験のない不快な症状は確実に母の精神状態に影を落とす。

「9月21日(月)
今日朝から腹が張って食欲がない 牛乳ものみたくない」

と母の経過帳には書いてあるが、私のブログの「9月21日」を見ると

「朝の母は今までになく気分の良さそうな笑顔だった。
『浣腸のおかげでね、今日はスッキリしてご飯も食べられたのよ。』」

この違いはなんだろう。
病気になってから極端な早寝早起きになっていた母は
早朝腹が張っていたがその後浣腸をしてスッキリし、私が起きる頃には食欲も出たということなのだと思うが、
それにしても私は母の表面的な事しか見ていなくて母の本当の辛さや苦しさに気づいていなかったのだと思う。

「どんなことにも、がまんして元気になろう!」
という決心をこの経過帳にも書いていた母は、予想以上の副作用に必死で耐え笑顔を作る努力をしていたのだろう。
しかし9月23日にはとうとう限界に達する。

長年の趣味である社交ダンスは病気が発覚してから休んでいたのだが
この日の朝体調が良かったので出て行って何回か踊り、帰ってから疲れが出て食欲がなくなってしまう。
このことで精神的にひどく落ち込み「抗癌剤をやめたい」と父の前で泣きじゃくる。

いつも前向きで、小さなことでくよくよすることもなく明るくタフだった母。
反面、気が強くて負けず嫌いでもあった。
そんな母が完全に打ちのめされて小さな女の子のように泣いているのを見て父も驚き動揺した。

今となってみれば抗癌剤は何の効果もなかったどころか母を苦しめ、体力を奪い、むしろ死期を早めたようにさえ思う。
しかしそれは結果であって、その時は本人も家族も抗癌剤で少しでも癌の進行が遅くなることに希望を託していた。
私はこんなに苦しみに耐えている母に、さらに我慢して抗癌剤を続けるように励ましたのだ。
思い出すと母に本当に可哀そうなことをしてしまったと胸が痛くなる。



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母の病気経過帳より (4)

2009年12月23日 20時28分15秒 | 日記
「21年9月14日(月)
今日は朝から調子が悪く8時にオキノームをのんで10時にまたのむように痛くてT也に電話する
病院に来るように言われS教授に診て頂き薬を3倍のむようになった どうなる事か
夜9時に薬 8時間おきの薬のむ

追加
痛みはひきつれのような痛みとゲップ、シャックリをすると激痛になる ひどい痛みだ

21年9月15日(火)
今日はオキシコンチン錠が3倍になって初めての日 眠けはあるが気分はとても良い
T也も電話くれた 主人は今日H病院で色々検査することにした 18日はCTを撮る
夜9時の薬をのんで眠ってもなかなか寝つけなくて12時~1時頃胸が苦しくなってきた
薬の副作用だと思う 主人を起こし少し様子を見た 1時30分くらいに眠りについて4時30分頃目がさめ気分は良かった

21年9月16日(水)
ゆうべは12~1時まで息が少し苦しくて眠れなかった 1時から4時頃まで眠った
日中は全然痛まず良い一日でした。

21年9月17日(木)
今日はお腹が張った感じが午前中あったが痛くはならなかった。
夜は時々目がさめてなかなか寝つかれなかった

21年9月18日(金)
今日は病院に行き抗癌剤の投与をした
白血球がへると抗癌剤ができないという話を病院の友達から聞く なかなか大変だ
その友達は4年・2年も抗癌剤をしているそう。(註・二人の友達のうち一人が4年、もう一人が2年という意味)
1人のひとは白血球がへってしまって抗癌剤が2回も出来なかったそう 大変だ
帰りはヒガン花をみんなで見て帰った。」



母が最初に処方されたオキシコンチンは朝夕1錠ずつ、1日2錠だったがこの量では痛みが抑えきれないのか疼痛にさいなまされた。
急遽S大の教授に予約を入れ診てもらうと今度は1日3回2錠づつを処方され
痛みはあまり出なくなったかわりに眠け、息苦しさ、夜熟睡できないなどの副作用に悩まされる。

9月18日のことを母はさらりと書いているが私にとっては色々な思いが交錯した長い一日だった。
このブログでは1回で書ききれず、この日の午前午後を分けて2回にわたって長い日記を書いた。

特に父母と夫、次女のF子の5人で見に行った彼岸花の群生地は一生忘れられない思い出になった。
毒々しいほどの赤が一面に咲き乱れている中に佇む母が急に老け込んで見え、命の炎はいかにも弱弱しく揺れているように思えた。
目をつぶると舗装されていない遊歩道をつまずかないように足元を見ながらゆっくり歩を進める母の姿が切なく浮かぶ。

だからこのブログの携帯用のテンプレートは夕陽の中の赤とんぼと彼岸花の絵を選んでいるが
季節はずれになってしまった絵でも変えられずにいる。

出来れば来年もその次も、これからずっと毎年そこの彼岸花を見にいきたいと思う。


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母の病気経過帳より (3)

2009年12月21日 09時51分31秒 | 日記


母の「病気経過帳」 (ティッシュ箱はサイズ比較のため)


「9月10日(木) 
S子と二人で行く(註・病院へ) 3時45分なので1時30分家を出る
2時30分頃着き4時ごろまで待たさM先生という女性の感じの良い先生、色々これからのことを説明してくれた
明日は10時までに行き検査を色々としてから抗癌剤の点滴を始めるようである
どんなことにも、がまんして元気になろう!
        
T也とMさん(註・T也の嫁)も来てくれた
Mさんは缶詰を持ってきてくれた 夕食のおかずに、と。
でも回転寿司ですませてしまった。

9月11日(金) 
抗癌剤の初めての日
朝8時に家を出 9時10分頃に着き
①採血 ②腹と胸部のレントゲン ③採尿をして先生のお話を聞いて

点滴に入る 今日はベッドでやる
血圧を測り左手にしてもらう

①吐き気止め15分 ②抗癌剤30分 ③水15分
丁度1時間 帰りはモールに寄り買い物

気分は全然悪くならない。
Tさん(註・踊りの会の友達)に水をもらいに行き みんなに梨をくばる
夜になってN也・J子(註・母の妹)・Mさん電話来る
J子にはガンの話をした

21年9月12日(土)
今日朝のうち調子が良かったので動きすぎて
昼食後お腹が痛くなり出し、3回もオキノームをのんで眠ってしまった
夜はよく眠れた
歯医者にも行った

21年9月13日(日) 
今日は朝のうちはお腹が張るような、つるような痛みがあったが我慢できない痛さではなかったが
昼食後腹がつるような引き裂かれるような痛さが出、横になるとよけいに痛くなりオキノームを1時間おきに2回のんだ
T也も来てくれて、オキノームは30分位はきいてこないので痛みだしたらすぐのむように言われ、
それでだめならもう1回のむように言われた
2回のんだら痛みがおさまり少し眠ったら気分が元にもどった
T也もすぐに来てくれてうれしい 子供達が心配してくれるのでうれしいです。」







抗癌剤を始めた頃。
時々痛みが出るもののそれ以外、母は普通に生活できていた。
普段あまりものを書くということがなく、字もうまいとは言えない母が
誤字脱字だらけながらも毎日ノートに病気の経過を書き込んでいる姿を想像すると
目頭が熱くなってくる。

「どんなことにも、がまんして元気になろう!」と決心していたが
このあと予想をはるかに超える、きびしい抗癌剤の副作用の嵐に見舞われるのである。



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母の病気経過帳より (2)

2009年12月17日 20時07分33秒 | 日記
「21年8月25日 M病院にてPET検査
 21年9月1日 H病院にてMRIの検査
 21年9月2日 夜痛む(腹)
 21年9月3日 T也の勤めるS大医療センターに行き
         助教授S先生に診て頂き

         オキシコンチン錠
         オキノーム錠
         ノバミン錠
         マグラックス錠  を頂く

 21年9月4日朝より飲み始める
         オキノーム散2回のむ
         この薬をのんでいると痛み全然なし
 21年9月7日 S大医療センターのS教授にお話を聞き9月9日に造影剤を入れて
         CTを撮ることになった
 21年9月9日 S大にてCTを撮り造影剤を入れたが造影剤での異状は出なかったが(※註1)
         CTの結果は同じで膵臓の尾の方にガンが有り肝臓の方にも3,4個の
         転移したガンが見えた。

         明日はM先生という女性の方が抗癌剤の注射(※註2)をしてくれるそうだ
         S子も毎日で大変だと思う
         主人もいつもついて来てくれるので疲れている様だ」

         ※註1 母は薬のアレルギーが少しあるのでそれまでは念のために
             造影剤を入れたことはなかった。
         ※註2 実際は「注射」でなく点滴。


弟は、最初に母からの電話を受けたときにはそれほど大変な状態とは受け取らなかったようだ。
母自体、楽観的だったし説明もあいまいだったのだろう。
「ガンじゃなくて『のう胞』(良性)なんじゃないか?」と弟は思っていたそうだが
直接担当の医師に電話し説明を受けると予想外の深刻な状況に驚いた。

一度弟の勤めるS大医療センターのほうでも診察を受けてから 
今後の方針ーどの病院で治療を受けるかなどーを決めることになったが
2日の夜にまた強い痛みが来たので翌3日、急遽S大に予約を入れてもらい
H病院から全ての資料を受け取って車で1時間強のS大へ初めて向かう。

7日に診察を予約していた教授の先生はこの日休みで、助教授の先生に診てもらう。
手術は不可能なので今後化学療法と薬で対応する、という説明を受ける。
H病院ですでに手術は不可能という説明を受けていて、さらにここでも同じ説明を受けたわけだが
母は「どうしても手術は出来ないのですか?」と食い下がり、できないと言われる。
しかし、帰りの車の中で母は
「助教授の先生はああ言ったけれど教授の先生はどう言うかしらね」
と、まだ手術への希望を捨てきれていなかった。

私はこの日、先生が走り書きした病気の説明書きに「モルヒネ」の文字を見つけてショックを受ける。
私の中では麻薬で痛みをとるのは最終段階というイメージが強かったので
改めて母は「末期癌」なのだという実感が湧いたのだ。

9月7日にはもともと予約を入れてあった教授の先生の診察があり、
「手術はできないか」と3度目の質問をし「抗癌剤で治るんですか」とも訊く。
先生はできない、治らないとはっきり言うことはしなかったがもちろん肯定もせず
母は恐らくこの日に初めて大きな絶望感を味わったのだと思う。
帰りの車の中ではずっと虚ろな表情でぼーっとしていた。


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母の病気経過帳より

2009年12月11日 09時54分04秒 | 日記
母は弟の勤める大学病院で治療を受け始めるときに「患者日誌」という冊子を手渡され
毎日几帳面に体温、体重、食事量などを表に細かく書き込んでいました。
それとは別に小さなノートに「病気=経過帳」と題して日記をつけていました。
最初の方は書き始める以前のことを記録として書いているようです。
一番初めに「21年」と書いてあります。
これを書き始めたとき母はまさか平成21年のうちに日記が終わってしまうなんて
想像もしていなかったに違いありません。


「21年
年に2度は胃の内視鏡検査を受ける
3ヶ月に一度は血液検査を受ける(コレステロール薬のため)

21年7月13日にT医院にて胃の内視鏡検査を受ける
2週間前よりピロリ菌の除菌の薬をのみ、それも調べた
ピロリ菌除菌に成功

21年8月15日にT医院にてエコーの検査する 異状なし

胃が少しただれているとのことで胃酸をおさえる薬をのむが痛みが続くので
H病院に紹介状を持って21年8月17日(月)H病院にてCT検査

21年8月19日から21日まで入院して大腸の検査 大腸は異状なし」


以前にも書いたと思いますが母は自分の健康にはとても注意して気を使うほうでした。
年に2回胃カメラ検査、年に4回血液検査を受ける。
母の年では珍しくはないのかもしれませんがその他でもT医院にはよく通っていたようです。
いま、税金の申告のために母の医療関係の領収証を整理していますが
T医院と付設の薬局の領収証の数の多さを見るとため息が出ます。

膵臓癌という病気の性質上、医師が気づかなかったことを責められないことはわかっています。
けれども、前々から胃の不調を訴えていた母に精密検査を勧めていてくれたらもう少し早く発見できたのでは、と思わずにいられません。

T医院でのエコーは母からお願いしてやってもらったのですが
すでに肝臓にいくつも転移した癌があったにもかかわらず「異状なし」
それでは大腸の検査をしたいから、と総合病院への紹介状を書くように頼んだのも母からでした。
大腸の内視鏡の入院検査の事前に撮った腹部CTで膵臓の尾部、肝臓に癌を発見されたのです。


「21年8月23日 南口流し踊りに出た夜お腹が痛む
 21年8月24日 CT検査の結果 膵臓と肝臓にガンが見つかる」

日本舞踊を習っていた母は、その日盆踊りの流しに参加してその後仲間と外で夕食を摂りました。
夕食を食べている頃からお腹が痛くなり、仲間は
「帯がきついんじゃない?早く帰って帯を解いたほうがいいわよ。」と心配してくれたそうです。
しかし家に帰って浴衣を脱いでも腹痛はさらに増すばかりで一晩中痛みに耐えていました。

翌日はちょうどH病院で検査結果を聞く予約をいれていましたが、予約の時間より早く緊急で診察を入れてもらったそうです。

その日、私はパートの仕事から帰っった時に庭先にいた母に検査結果を知らされました。
そのときの情景、母の姿は忘れることが出来ません。
「転移」の二文字に慄く私に、母は笑顔で
「大丈夫よ、今どきガンくらいでは死なないから。」と屈託なく言い放ったのです。
そのときの母は、ガンなんて手術で取ってしまえばどうってことないと極めて楽観的でした。(続く)



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