読書おぶろぐ

読んだ本の感想を書いてます

特捜検事の「証拠と真実」

2010年04月30日 10時38分02秒 | 司法・法曹
 
清水 勇男氏の著書。
清水氏は元東京地検特捜部検事であられ、1995年検事正を最後に退官され現在は蒲田公証役場の公証人としてご活躍されてをります。
 
清水氏の検事任官時代手がけられた事件は数多くありますが、本書では代表的な事件として
「ロッキード事件」「千葉大チフス菌事件」が取り上げられてをります。
 
本書は、清水氏が東京法令出版「捜査研究」に連載されてゐたものを元にされてゐます。
第一章では、犯罪の数々がざつと紹介されてゐますが、興味深く読んだのは
第二章「調書の切れ端から」でせうか。
 
被疑者を取り調べ、供述調書を作成するのですが近年「検察の暴走」「証言の強要」等横暴と
される「自供」の取り方がマスコミに取り上げられてゐます。実際、強要され自白してしまひ冤罪が判明した事件もありますので、不適切な取り調べを行なふ検察官がゐることは事実なのでせう。
 
しかし、検察官全員がさのやうな不適切な取り調べを行なつてゐるわけではなく。。。
清水氏の著書からは、「検察の暴走」を否定する「本来の検察」の姿も見えます。
また、「基本的人権」「適法手段」をいふ言葉を持ち出して検察の捜査のあり方を批判する立場にも言及されてゐますが(P75、またマスコミは好んでこのやうな発言を取り上げ繰り返し放送する)この一文も国民が考えるべきところです。
 
上記に関連して、「裁判に時間が掛かりすぎる」ことに弁護側の態度の問題も記述されてゐます。(P303-304) 
かういふ問題もあるのか・・・ と思ひました。
何度か書いてゐますが、やはりマスコミの「一辺倒放送(報道とは言へないであらう)」は参考程度にしておかふと思ひました。
 
本書のなかで「上司と衝突」した場面が出てくる。(P157-166)
どこの職場にも、立場に関係なく「変な人」がゐるがさういふのが上司の立場であると大変仕事に支障が出る。
特に「検察庁」や「裁判所」「警察」など人の運命を左右する立場の仕事で「現場に浮かび上がつた事柄」に基づいて導かれた意見・考察を自分の範囲内の感覚だけで否定されたら、冤罪を生んだり有罪を見逃すことになる。
起きた事に対し、批判するのは簡単だが・・・・・  
 
P203以降 「証拠の最大の復讐」に書かれてゐることは、検察や警察だけに当てはまることではなくすべての人に当てはまることだと思ふ。
「まっすぐの心で正しく物事を見ること、加えてひたむきに努力すること、それが検事でも誰でも、一番必要なことであるように思われる」(P205-206)

官僚とメディア

2010年04月28日 23時49分07秒 | 社会・報道・警察・教育
 
魚住 昭氏の著書。
 
魚住氏は共同通信社を退社後、フリージャーナリストとしてご活躍されてをります。
本書のテーマは「官僚の暴走と、すり寄るメディアの深い闇」(本書裏表紙より)
 
興味深いな、と思ひました。
 
その昔、新聞やテレビのおにゅーすを疑つたことなどありませんでした。
新聞・テレビのおにゅーすといふものは「真実」を報道するもの、と信じてゐたからです。
 
しかし、
ネットが出てきて、
ネットおにゅーす
2ちゃんねる
掲示板の投稿コメント
などなど・・・ テレビや新聞では書かれてゐないことが多くある。(ちなみに週刊誌は読んでません。週刊誌も読んだはうが面白いのかな?)
 
そして、新聞・テレビの報道の様相。
各社、同ぢネタを取り上げ、おなぢコメンテーターが出演し、おなぢ映像が流れます。
そして、時には「容疑者」とされた人が冤罪だつたとわかると、それまでの「容疑者」扱いを
すべて忘れたかのやうに「++さん」とさんづけにし、報道態度を変へる(としか思へない)態度の白々しさ・・・・
 
これらに、呆れました。
なので、
 
テレビと新聞は、信用できないもの
 
といふ認識に変はりました。 信用できないものなら見るなと言はれさうですが、参考程度に見ます。
「だういふ報道してるのかな~」 と。
 
話がそれましたが、魚住氏は共同通信社にゐらしたときのご経験・フリージャーナリストになつてからのご経験を元に、現在のメディアの問題点とメディアを巧みに利用する官僚の姿を本書で描いてをられます。
 
例として挙げられてゐるのが、「耐震偽装事件」(国土交通省の問題点)、「ライヴドア・村上ファンド事件」(検察の問題点)、最高裁と裁判員制度のPR等。
上記の例も、「かういふ事だつたのか」と思ひましたが更に驚いたのは「情報幕僚」(P126)。
魚住氏がご自身の著書「沈黙のファイル」の取材で太平洋戦争開戦前夜の参謀本部作戦課の内情を取材したときに、
「勝ち目がないと分かっていながら、なぜ対米戦争を始めたのか」との問いに対しある参謀から
「あなたがたは我々の戦争責任を言ふけれど、新聞の責任はだうなんだ。あのとき新聞の論調は我々が弱腰になることを許さなかつた。我々だつて新聞に叩かれたくないから強気に出る。すると新聞はさらに強気になつて戦争を煽る。その繰り返しで戦争に突き進んだんだ」と返答されます。
この返答に魚住氏はかなりの衝撃を受けるのだが。
 
このエピソードを読んで、「南京事件」のことを記述した稲田朋美さんの著書「百人斬りから南京へ」を思ひだした。
南京で大虐殺をしたとされるM少尉は、某新聞社の記者に「景気づけの記事がほしい」と請はれニセの記事である「百人斬り」の掲載を了解するのである。これが後に、「何十万人虐殺」となり少尉は中国人虐殺の罪で中国で裁判にかけられ、死刑判決を受けて死することとなる。
(この請ふた記者は、裁判での証言をしなかつた)
 
そんな前から、新聞といふものは「そんな事」やつてたんだ・・・・ そんな事といふのは、
「虚実の配信」である。
 
現在、戦争といふ状況にはありませんが
同じことを新聞はしてゐます。新聞だけでなく、「テレビ」といふものが出てきたので余計
やつかいです。
 
例えば
先の衆院選挙。
これなど、マスゴミらが自民党の対メディア政策が気に入らないから、時のA総理を再三攻撃して民主党への投票を導いたやうなものでせう。 
マスゴミの皆さんが、待ちわびた政権が「同盟国」から「ルーピー」と気違い扱いされてゐるわけです。
 
本題に戻つて、「客観報道主義」(P116-120)、「ノーブレス・オブリージュ幻想」(P171-172)は、現在のマスゴミの問題点を的確に書かれてゐると思ひます。
「あとがきにかえて」で「メディアは誰のものか」と記述されてをりますが、「確かにな~」と思ひました。
 
個人的な意見では、現在のやうなマスゴミの様相では「メディア」といふ媒体は複数要りません。
一社が警察・検察他が発表したことだけを伝えてくだされば十分です。
 
ある新聞社が、某事件に関して魚住氏のコメントを求めてきたことも驚きました。
フリージャーナリストの魚住氏と、新聞記者の立場がだう違ふのかよくわかりませんが
よほどの専門分野でないかぎり、新聞社の論説委員がコメントを書けるのではないか?それを
わざわざ外部のフリージャーナリストにコメントを求める意味は何か?
新聞の意味をこの記者はわかつてゐるのか? 新聞の「社説」は何か? 色々考えてしまひました・・・
 
とりあえづ、これからは色々な本を数多く読んで、新聞とテレビは「情報媒体」としてみなすこととゐたします。

自壊する国家

2010年04月28日 13時37分05秒 | 政治関連・評論・歴史・外交

佐藤 優(まさる)氏の著書。
佐藤氏の他の著書「国家の罠」を以前読みまして、感想を投稿ゐたしました。

「国家の罠」は「国策捜査」により、佐藤氏、鈴木宗男氏が逮捕されていく「国策」を
描いてをり、「こんなことがあつたのか」と思ふと同時に、佐藤氏の在ソ連の大使館員としての活動も記述されてをり、ロシア人に関し興味深い内容でもありました。

本書「自壊する国家」は、佐藤氏が駐在してゐた期間に起きた「クーデター」を取り上げ「クーデター」が起きるまでの、ロシア・沿バルト三国・ロシア少数民族・ユダヤと様々な民族に関する諸処のことを佐藤氏の築いた人間関係とともに描かれます。

ソ連
ロシア
沿バルト三国
東欧諸国
の様々な民族、宗教はあまりにも複雑で日本人には容易に理解できない部分があります。
また、民族・宗教の話に必ず「ユダヤ」が登場するのも興味深い。

しかし、

人間といふものは、根本的に「善悪」はどこの民族でも同じらしく、佐藤氏は「人間の根本」の部分で、見事な人脈を築いてをられます。 (ロシア人の「狡猾」と表す言葉に「中国人百人分くらい狡い」といふ表現があるのは、大変面白く納得ゐたします)

外務省が何を考えて、佐藤氏を「有罪」とするやうにしたのか知りませんが、外務省は大変貴重な人材を手放したと言ひざるをえません。

佐藤氏の著書は今後も読んでいかふと思ひます。

特捜検察の闇

2010年04月21日 22時34分34秒 | 司法・法曹

魚住 昭氏の著書。
魚住氏は75年一橋大学法学部ご卒業後、共同通信社に入社され87年から司法記者クラブに
在籍されリクルート事件などの取材にあたられてきました。96年に退社後「特捜検察」を著されその後司法の変質を鮮やかに浮き彫りにする著書を出版し続けられてをります。

先日、「死刑」といふ本を読み感想を投稿ゐたしました。
この本の中で、裁判官らが「ほんたうに死刑が適当なのか、冤罪ではないか」といふことを
確かめるために、自ら事件現場とされた雪山を歩くところがあります。

結果2人の被告人がゐましたが、一人は犯行を否認し、無罪を主張してゐました。
裁判官らが事件現場を被告人らの供述調書に従つて歩いてみたところ、無罪を主張してゐる
被告人の犯行は物理的に不可能といふ結論に達します。
もふ一人の被告人は終始発言が二転三転し、裁判では供述の信憑性が疑問視されてゐました。

この事件では、警察・検察の捜査が正しくなく冤罪を生むところだつたのですが、裁判官らの行動により、免れました。
本来なら、かうした「供述に基づく事実確認」は警察・検察の仕事のはづです。

なぜ、裁判官らがかのやうな事実確認を行なはなければならないのか?

そこで読んだのが、本書です。
本書は90年代に起きたある特捜検事の事件を取り上げます。
特捜検事として、辣腕をふるつてゐたある検事が退官後弁護士に転身しますが
所謂「闇の世界」の人たちの弁護士になります。
その結果、検察の「国策捜査」の標的となつてしまふ・・・・・・

もふ一例は、オウム主任弁護人のY弁護士に対する国策捜査。
Y弁護士を有罪にするために、検察・警察がいかなる手段を用いてくるのかが克明に記述されてゐます。
ただ、このY弁護士。
死刑廃止論者で最近では某裁判で一審と全く違ふ「ドラえもんが出てきて云々。だから無罪」といふ供述を被告人にさせ、敗訴してゐます。
それを念頭に置いてY弁護士の会社に対する対応を見ると、なんか胡散臭い気がしないでもない。
しかし、検察の捜査がかなり杜撰です。これは悲しい。

悪を暴き、世を正すための「検察」「警察」
なぜ、嘘に嘘を固めて冤罪を作り出し、最後にバレてゐるのか?

最近でも17年も冤罪で収監されてゐた方が無罪であることがわかり、裁判のやり直しがありました。
この裁判では、裁判官は「被告とされた人」に謝罪をしたのに、当の起訴した検察官は謝罪をしませんでした。

「謝つてください。御願いします」
これは無罪が明らかになつた方の言葉です。
なぜ、この人が「御願い」しなければならないのでせうか?

間違つたら謝る
そんな人として当然のことも出来ない人が、人を起訴する立場に居たとは。

魚住氏は、本書で「司法」が変遷してゐることに危惧を抱く。

少し司法に関する本を読み進めてみやうと思ひます。

死刑

2010年04月20日 15時22分46秒 | 司法・法曹

読売新聞社会部編集。

死刑が存続する日本。
死刑判決が下されても、被告の控訴、再審請求と「被告が死を逃れる機会」が用意されてゐます。
また、死刑が確定しても「執行」がなされなければ被告は生きてゐます。

死刑は必要なのかだうか
さういふ議論もなされたり、「国が人の命を奪うことが許されるのか」といふ意見もあるやうです。

本書は、
第一章 執行の現実
第二章 かえらぬ命
第三章 選択の重さ
第四章 償いの意味
の4章で構成されてをり、日本国内だけでなく、海外の死刑の現状も取り上げられてゐます。
加害者、被害者、裁判官、弁護士とそれぞれの立場の視点も取り上げられてゐます。

それぞれの立場の視点を知ることができたのはよかつたです。

読みはじめから終始思つてゐたのは・・・
「被害者の命が既にない。人の命を奪つておいて、自分が生きたいといふのは勝手」
これが常にありました。(この際、冤罪は除きます)

控訴、再審請求と「自分は生きたい」 でも人の命は奪つた 

これを平然と主張できるのが、だうしても理解できません。
また、犯行を見ても
「金(自分の欲求)のために人の命を奪つて、自身の犯行を隠蔽するために遺体を隠す・遺棄・放火する」
といふ行為は「自己中心の最もたる表れ」であり、「人の命を奪つておきながら自分が生きたい」との主張に繋がつている気がしてなりません。

「生きて償いたい」
この言葉の意味がよくわからない。第四章「償いの意味」と取り上げられてゐるけれど、遺族の大半の望みは「死んでほしい」「自分の手で殺したい」といふものであり、加害者に「生きて償つて」と望む人は少ないやうだ。

「償い」
これは大変難しい行動で、自分の気持ちよりも相手の気持ちを満たすことが優先されるべきである。
自分で償つたつもりでも、「償なはれた」はづの相手が満足しなければ、ただの自己満足になるだけでなんの償いにもならない。
「自己中心」の気持ちで人の命を奪つた人が、それをわかつてゐるのか・・・・ と疑問だつた。
「生きて償いたい」と遺族に伝えて遺族から「あなたの償いは死ぬことです」と言はれたら、死ぬのか?
それを聞きたい。それを取材して明らかにしてほしかつた。

死刑を言い渡す裁判官。
ほんたうに「死刑」でいいのか、判事で打ち合わせをすると言ふ。死刑執行のニュースが流れたときには冥福を祈ると言ふ。
誰だつて「人の命を奪う」ことにいい気分はしない。

死刑囚(実質人を殺した人たち)となつた人たちは、
被害者を苦しめた
被害者の遺族・交友関係にあつた人を苦しめた
裁判官(今後は含裁判員)といふ事件を裁く人たちを苦しめた
執行に関かはるすべての人たちを苦しめた
ことを自覚すべきであらう。 
では、無期懲役はだうなのか?
「真面目に務めてゐれば、10-20年で仮出所できる」さうである。(実際、仮出所してその間に犯罪を犯し再度刑務所に入つたのもゐる。)

無期懲役 
建前では、「刑務所の中で一生を終へる」
しかし、その間「生きてゐる」のである。 被害者の遺族がそれを許せるのか。ここが疑問。まして、仮出所してきて、その後再び犯罪(とくに殺人)をされたら・・・・・

本書では、加害者の両親の一例も出てくる。
加害者の両親は獄中の息子に毎月仕送りをしてゐるが、被害者の遺族に謝罪してゐない。
人それぞれの感じ方だらうが、「この親にしてこの子あり」か・・・と思つた。
別の加害者の親は刑が確定したあとに、謝罪の手紙を送つたが宛先不明で戻つてきた。

被害者の遺族の中には、加害者の裁判のやうすを見て「期待をしない」方もゐるし、死刑が執行されても被害者本人が帰つてくるわけでもない、ただ許せないといふ方もゐる。

「人を殺す」といふことは、大変なことなのだなと思ふ。

最後に
「冤罪」事件で加害者とされてしまつた方々のことについて
「冤罪」が判明して、死刑から逃れられたのはよかつたと思ふ。

「冤罪」があるから、死刑制度そのものの継続が疑問視されるが、冤罪と死刑制度は分けて考へるべきである。
「死刑判決」が下されるまでの、証拠・証言・犯罪立証に問題があるから、「冤罪」になるのであり、「事実」に基づいた「死刑判決」なら問題はないはずである。

個人的な意見では、死刑制度は存続してほしい。