盲目であることと神の愛

 「イエスが彼らの目の前でこのように多くのしるしを行なわれたのに、彼らはイエスを信じなかった。
 それは、「主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか。また主の御腕はだれに現わされましたか。」と言った預言者イザヤのことばが成就するためであった。
 彼らが信じることができなかったのは、イザヤがまた次のように言ったからである。
 「主は彼らの目を盲目にされた。また、彼らの心をかたくなにされた。それは、彼らが目で見、心で理解し、回心し、そしてわたしが彼らをいやす、ということがないためである。」
 イザヤがこう言ったのは、イザヤがイエスの栄光を見たからで、イエスをさして言ったのである。」(ヨハネ12:37-41)

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 「彼ら」は、イエスを信じなかったのではない、信じようがなかったのである。
 「主は彼らの目を盲目にされた」からであり、その盲目の彼らには、イエス自体を見聞きできない。

 では、御父は私たち全員を盲目にし続けるであろうか。かたくなな心のままにし続けるのであろうか。
 このことこそ、神は愛なのである。
 救いを求める私たち、憐れみを乞う私たちに、神は大いに恵んでくださる。

 「目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。」(黙3:18)

 この目薬は、どこで手に入るのか分からない。
 しかし、狭い門の向こう側には確かにあって、しかも無償で与えられる。
 この狭い門もまた、自ら見いだして入るものではなく、うめきつつも気付くと、その狭い門の中に入っていた、そういう類のものである。
 人は神に対して、どこまでも受け身なのである。
 その受け身の中での神からの愛が恵みであり、盲目の者が見えるようになる。
 そのとき私たちは、御父を「父」と呼べるほどに、この御父と和解するのである。

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[一版]2014年 9月 6日
[二版]2017年 5月19日(本日)

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