廃盤蒐集をやめるための甘美な方法

一度やめると、その後は楽になります。

対話の謎解き

2016年11月12日 | Free Jazz

Cecil Taylor & Derek Bailey / Pleistozaen Mit Wasser  ( 西独 FMP CD 16 )


巨匠同士の競演は1988年になってこうしてここに実現した。 インプロヴィゼ-ションに対する考え方が(おそらくは)違うであろう2人は一体何を語るのか。

音を「鳴らす」ベイリーと音を「弾く」テイラーでは各々の演奏論からしてそもそも違う訳だから、これは単なるフリージャズ奏者の競演というような
単純な話ではない。 演奏論が違うのはインプロヴィゼーションに対する考え方が違うからであって、だからこそ2人が世に放つ音がこうも違ってくるのだ。
一方は音の実存を希求し、もう一方は平均律からの逃走を夢見る、という感じだけど、それにしてもベイリーの音は猥雑で世俗的だし、テイラーの音は
澄み切っていて清らかだ。 

ただ2人に共通するのは、自らが考えるインプロヴィゼーションを実現するために生み出したはずの演奏論が、いつの間にかインプロヴィゼーションそのものを
追い越してしまい、演奏論が産み落とす音たちが勝手に一人歩きを始めてしまっていることにある。 それはまるで人間が作り出したコンピューターが
いつの間にか自我に目覚めて産みの親である人間を駆逐し出す、というSF的グロテスクイメージによる悪夢のように聴くものを脅かし始める。 だからこそ、
聴き手は音そのものの確かな手応えに魅了されながらも、内面に沸き起こる不安定な想いを解決することができない。

1曲目ではテイラーは奇声を発しながらピアノの弦を擦ったりはじいたりしながらベイリーに呼応し、2曲目になって初めて鍵盤に向かう。 ベイリーの音は
道端に佇んで旅人をだまくらかして取り込もうと待ち構える悪魔が手に持つ杖であり、テイラーの音はそこへやって来る旅人の傷んだ靴である。
両者は出会い、何事かを語り出す。 でも、その声はよく聞き取れない。 2人は長々と話し込んでいる。 そして、何かを合意し密約を交わしたのか、
それとも対話は決裂したのか、突然、ぷつりと演奏は終わる。 いつか、謎は解けるだろうか。



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