世界変動展望

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横綱の品格と降格について

2009-07-18 21:51:24 | スポーツ・芸能・文芸
現在の規定では横綱に降格はない。現在まで69人の横綱が誕生したが、横綱になってから横綱でなくなった力士はいない[1]。いったん横綱になると引退しない限りその地位を保障される。

地位が保障される代わり横綱は常に品格・力量抜群でなければならず、常に横綱にふさわしい相撲、日頃の行動をとらねばならない。横綱は品格・力量抜群だからこそ横綱なのだ。

だから、品格・力量抜群でないのに横綱であるのは、その前提を欠き妥当でない。大関力士の横綱昇進の際は、品格・力量抜群であることが条件となる。

現在の相撲界では成績不振の場合は横綱の引退を勧告できるし、世間も比較的容易に横綱に引退を促す意見をいえるし、賛同が得られやすい。横綱は強くなければならないのだから、強いといえない実績しか残せない以上引退を勧められても仕方ないというわけだ。

では、品格に基づく引退の勧めはどうだろうか。私見だが、成績不振ほど容易に引退を勧められないのではないかと思う。実力は抜群だけど、品格がないから引退せよというのは、実力がないのに引退を勧められない人がいることを考えると著しく横綱にとって酷だと思えるからだ。

しかし、先にも述べたとおり横綱は品格と力量が両方抜群だからこそ横綱なのであり、どちらが欠けても横綱の地位にはふさわしくない。横綱は単に相撲で勝てばよいというのではない。力量が抜群でも品格がない横綱は横綱の地位から離れるべきである

先に述べたとおり、横綱になってからその地位や横綱免許を奪われた力士はいないので、長い伝統を考えれば横綱降格には抵抗があるかもしれないが、いったん横綱に昇進させたからといって品格のない横綱をいつまでも在位させておく方が醜態である。

そもそも横綱昇進の条件として、どれほど品格が考慮されているのか疑問だ。第60代横綱・双羽黒の失踪・廃業事件以降、横綱への昇進条件は厳しくなったが、その後の横綱昇進時を見ていると、連続優勝とかもっぱら成績面での基準ばかりがきびしくなって品格の面はまるで厳しくなっていないように思う。

確かに、双羽黒は優勝経験が1回もないまま引退した不名誉な横綱だったし、そういうキャリアの横綱を誕生させた横綱審議委員会や相撲協会への批判は大きかったので、横綱昇進条件として優勝の条件を少し厳しくするのは合理的だ。

しかし、双羽黒の失踪・廃業事件で最も反省しなければならないのは優勝なしという成績不十分で横綱推挙したことではなく、ささいなことで親方とケンカし、後援会長やおかみさんに怪我をさせ失踪したような品格のない力士を横綱に推挙したことである

そもそも双羽黒は品格が悪い力士だった。Wikipediaの人物評によれば、『稽古が少しでも厳しいと「故郷へ帰らせてもらいます」が口癖で、また師匠も本人ではなく兄弟子に厳しい稽古を注意した。ひどい時は稽古をサボって喫茶店に行ったりもしたが、師匠が注意をしない為、誰も見て見ぬふりをしていた。さらに弟弟子に対するイジメまがいの行動(付き人をエアガンで撃って遊ぶなど)で、付き人が集団脱走・廃業した等と報道されたこともある。[3]』

このような人物はお世辞にも「品格がある」とはいえないし、まして「品格抜群」とは程遠い。「品格が著しく劣悪」といった方が正鵠を射ている。

相撲協会や横審は品格の基準こそ、より厳格に審査すべきである。しかし、朝青龍のように稽古で相手にケガをさせたり、ケガで巡業への休場届けを出しておきながらモンゴルでサッカーをやっていたりと地位や社会的な責任感に欠ける行動を何回も繰り返す品格のない横綱の誕生をみると、とても品格をきちんと審査しているとは思えない。

相撲協会や横審の態度を見ていると「成績がよければ横綱に推挙する。」と思わざるを得ないし、横綱昇進の条件である「品格抜群」は空文化しているといわざるを得ない

相撲協会や横審は双羽黒の失踪・廃業事件での反省すべき事項の範囲が不十分であり、一番本質的な反省が欠落している。

きちんと品格を判断すべきというのは疑いないが、判断基準が難しい。品格があるかどうかは主観的な判断だし、成績のように客観的に判断できないからだ。品格の判断基準は人によって異なるし、品格の性質も違う[4]。多くの人が意見を出し議論することで、ある程度統一的な品格判断は可能だとしても、客観的とまではいかない。

しかし、品格に対する審査基準を厳しくしてこなかったからこそ双羽黒や朝青龍のような横綱が誕生してきたのだし、今のように成績さえよければ横綱になれるというのは見直さなければならない。基準としてはある程度まちまちにならざるをえないが、多くの人で議論し、ある程度統一的な品格判断の基準を設置すべきだ

そして、万が一横綱昇進後に品格がない言動が起きたら横綱の地位を剥奪すべきである。横綱の地位の前提となる品格が欠落したのだから仕方ない。つまり、横綱の陥落も認めるべきだ。

しかし、一方で昇進基準がまちまちだと横審や相撲協会の恣意的な判断を招くし、外国人差別などによる不当な昇進妨害が行われる危険も否定できない。

そこで、品格判断の必要性と客観的な判断基準の必要の調和をとる手段として、横綱と同格、又は横綱の下、大関の上の別の地位(例えば「名誉大関」といった呼称の地位)を設け、品格は抜群ではないが、力量は抜群という力士を名誉大関にすればよい。

名誉大関の地位を設け、横綱を含む全ての地位に降格を認めれば、力量はあるけど品格がない横綱が引退せずにすみ、力量がない力士が引退を勧められないこととの不公平感が解消される。また、力量抜群だが品格がなくて横綱昇進できなかったり、品格抜群にあらずとして横綱の地位を剥奪された力士にとっても、名誉大関が横綱と同格又はそれに近い地位ならそれほど不公平感はないはずだ。

以上は私の勝手な意見にすぎないし、大相撲界がこのように変わる可能性は乏しいが、横綱の品格についてだけは今の相撲界にもっと考えてほしいと思う。

参考
[1]横綱が正式の地位となってから、横綱から降格した力士はいない。また、横綱免許制度時代(1890年以前)の横綱の番付は通常大関だったが、横綱免許を受けてから番付上の地位から降格した力士は第8代横綱・不知火諾右衛門のみ[2]。不知火諾右衛門は横綱免許を受けてから大関から関脇に降格したが、横綱免許を取り消されたわけではないので、横綱でなくなったわけではない。その意味で、横綱になってから横綱でなくなった力士は一人もいない。

[2]横綱が地位となったのは番付上に横綱が始めて登場した1890年、又は横綱が正式の地位として成文化された1909年以降で、それ以前は吉田司家から横綱を締めることを許された力量抜群の大関力士を称し、横綱は一種の名誉称号だった。

[3]双羽黒 Wikipedia 2009.7.17

[4]世界変動展望 著者:"品格のある横綱とは?" 世界変動展望 2009.7.17