「やめ蚊」さんからトラックバックを頂いた。「営業」でないものは初めてなので嬉しい。
「ブログを揶揄する前に」の中で、池田信夫さんの投稿を引用したが、私は(ロースクールはともかく)裁判員制度は無意味とは考えないし、裁判員は御免だ、とも思わない。
南野法相の元の発言は読んでいないが、確かに「日常の正義感」と言われても意味不明だ。「テレビの前の正義感」というなら何となく分る。
ただ、裁判員に任命された人には何らかのアティテュードを持って臨むことが要求されるとは思う。それは「分らないことは分らないと言う事」だったり「被告人と自分との立場を交換してみること」だったり「予断と先入観の違いを認識すること」だったり、その他いろいろだ。それは(たぶん南野発言の文脈とは異なる意味で)日常の中で形成されていくもので、手続を学習・理解する際の基礎となる。私は、手続に則ることで安心感を得ることよりも、手続の正当性を疑問視し続ける方を選ぶ。
表題は1957年製作のアメリカ映画で名画の範疇にはいるが娯楽映画でもある。観た当時は、素顔のヘンリー・フォンダが家庭を顧みない女たらしだなんて知らなかった。
日本の裁判員制度のことを学ぶことには役立たないが、犯罪を裁くことに対するアティテュードを考えるきっかけにはなるはずだ。
映画の内容についてはこちら
「ブログを揶揄する前に」の中で、池田信夫さんの投稿を引用したが、私は(ロースクールはともかく)裁判員制度は無意味とは考えないし、裁判員は御免だ、とも思わない。
南野法相の元の発言は読んでいないが、確かに「日常の正義感」と言われても意味不明だ。「テレビの前の正義感」というなら何となく分る。
ただ、裁判員に任命された人には何らかのアティテュードを持って臨むことが要求されるとは思う。それは「分らないことは分らないと言う事」だったり「被告人と自分との立場を交換してみること」だったり「予断と先入観の違いを認識すること」だったり、その他いろいろだ。それは(たぶん南野発言の文脈とは異なる意味で)日常の中で形成されていくもので、手続を学習・理解する際の基礎となる。私は、手続に則ることで安心感を得ることよりも、手続の正当性を疑問視し続ける方を選ぶ。
表題は1957年製作のアメリカ映画で名画の範疇にはいるが娯楽映画でもある。観た当時は、素顔のヘンリー・フォンダが家庭を顧みない女たらしだなんて知らなかった。
日本の裁判員制度のことを学ぶことには役立たないが、犯罪を裁くことに対するアティテュードを考えるきっかけにはなるはずだ。
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