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邦画中心の映画感想ブログです。ネタバレがありますのでお気をつけ下さい。

【映画】歌行燈 (’60)

2006-06-16 | 邦画 あ行

【「歌行燈」衣笠貞之助 1960】を見ました。

おはなし
泉鏡花原作。謡曲の家元の後取り、恩地喜多八(市川雷蔵)は父と地方公演に行った際、父の芸を馬鹿にする宗山という男の噂を聞きます。奢り高ぶった宗山を懲らしめよう思った喜多八は、謡を披露する宗山に絶妙の鼓を打ち、宗山の高慢を打ち砕きます。己の不明を恥じた宗山は憤死。喜多八は父に破門のうえ勘当させられます。一方、宗山の娘、お袖も継母に財産を取られ、芸妓に売られます。
やがて、喜多八とお袖は再会するのですが。

成瀬巳喜男の1943年の傑作を衣笠貞之助がどう料理するのか。ここに焦点が集まると思います。
核となるシーンは次の3つ。

まず、喜多八が宗山のもとに赴き、先生の芸を見せていただきたいと下手に出た上で、囃子でどんどん宗山を追い込んでいくところ。この畳み掛けるような展開は、成瀬版、衣笠版双方ともに迫力の名シーンでした。ここでは引き分けとしておきます。

次は、「芸のできない」芸妓のお袖に再会した喜多八が、せめて身の立つ芸を一つでもと舞を教える場面。ここは成瀬版では屈指の名場面です。山田五十鈴の神がかりな美しさも含めて、森の中で木漏れ日を浴びて舞うさまは、まさに夢幻の境地を示していました。衣笠版はどうか。オール室内セットで、美術は完璧に近い。スモーク等もうまく使い、やはり夢幻の境地の演出に成功しかけています。しかし、山本富士子の動きが硬い。どうしても、見てて乗れないのです。もちろん、山田五十鈴と比べるのが悪いと言われれば、それまでですが、どうにかならなかったのでしょうか。

最後は、喜多八の父がたまたま座敷に呼んだ芸妓がお袖であったラストシーン。余興でさせたお袖の舞を見て、これは喜多八が教えたに違いないと思ったところ、「偶然」、喜多八も現れハッピーエンドになります。ここは、成瀬版と衣笠版では決定的に解釈のことなるところです。
成瀬版では、あくまで父と子の再会がメインです。他人の高慢を打ち砕こうという喜多八自身の高慢。それを苦難の放浪の中で捨て去り、さらにお袖に芸を教えることによって自分の芸も一段深化させた喜多八を、父は認め和解します。ここで、この映画のテーマとしての「芸道」を観客は理解します。
ところが衣笠版では、喜多八とお袖の再会がメインとなります。他人の妾として売られる寸前のお袖を(乞食同然の身から、名門の御曹司に返り咲いた)喜多八がすんでのところで見つけ、抱き合う形でのエンディング。これはまさにシンデレラ・ストーリーです。

同じ原作から作られ、同じタイトルの映画が、一方は喜多八が主人公の厳しい芸道モノ。他方はお袖が主人公のメロドラマになってしまうのが面白いです。

 

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