いくらおにぎりブログ

邦画中心の映画感想ブログです。ネタバレがありますのでお気をつけ下さい。

【映画】一番美しく

2006-09-11 | 邦画 あ行

【「一番美しく」黒澤明 1944】を見ました。



おはなし
東亜光学平塚製作所では大増産計画を実施することにします。増産割り当ては男子が100パーセント、女子は50パーセントです。それに不満なのが、女子挺身隊の面々。隊長の渡辺ツル(矢口陽子)は、せめて男子の3分の2をやらせてください、と工場幹部に懇願し、認められます。
しかし、疲労や、そこからくる軋轢。それに、病気や怪我で人が減っていく中で、生産量は思うように上がらず、苦悩するツル。そんな時、ツルは未検査のレンズを検査済みにしてしまうミスを犯し……。


黒澤監督は、この映画をセミ・ドキュメンタリーの手法で撮りたかったということで、実際に俳優たちをニコンの平塚工場、および寮に張り付け、工場への行き来の際は、映画で描かれているように鼓笛隊を編成、行進させていったようです。

冒頭には「撃ちてし 止まむ」のスローガンが出る戦意高揚映画ですが、そこは黒澤監督。少女たちを、ホンモノの環境に入れてしまい、そこに生まれる葛藤を、ドラマとしてのダイナミズムにまで昇華させた手腕は見事です……と、建前上は言っておきますが実際は、他の戦意高揚映画とどこが違うのかさっぱり分かりません。というより、正直言って面白くないです。

絶叫調で増産を叫ぶ所長(志村喬)、どこまでも優しく少女たちを見守る寮母(入江たか子)を始めとする大人たち。渡辺ツルに代表される、軍国の鑑とでもいうべき健気な少女たち。こんな類型的なキャラクターのうえに、テーマが工場労働ではどこを楽しめばいいのか分かりません。

それに、日本ではもともと勤勉っていう美徳は「観念上」はともかく、実際上はあまり浸透していませんでした。明治時代のお役人なんかは、7・8月は8時から12時の午前勤務で、その上に20日間の夏休みがあったくらいです。
さらに、仕事をサボるのは、ある意味当たり前の行為で、内務省警保局の調査によれば、この映画の作られた1944年頃、それも重要軍需工場ですら、欠勤率は20パーセントを越えていました。もちろん空襲が始まってからは、欠勤率は急上昇。49パーセントまで上がったそうです。

つまり、まなじりを決してお国のために働く戦時下の日本人っていうイメージは、有給休暇の取得はもちろん代休の消化すらママならない現在の日本人の状況を投影した、ある意味ファンタジーでしかありません。

きっと少なくない数の徴用工員たちが、工場をサボってこの映画を見たかと思うと皮肉なものですね。

 

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5 コメント

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はじめまして (モカ次郎)
2006-09-25 23:19:58
こんばんは。黒澤明 ~日本映画 監督篇~」ブログのモカ次郎と申します。

TB&コメントどうもありがとうございました。

こちらの映画紹介、わかりやすいですね。

私はどうも読みやすい文章が書けません(^^;)。

今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
出来はよくないかもしれないけど (シャケ)
2006-09-30 04:33:10
タイトルからして美学的視点というか、増産週間=戦争翼賛という一元的視点が、映画から躍動感を奪ってる感じがしますね。いろいろな対立とか複数の視点とかが、全て増産週間に集約されてなんかこじんまりしちゃってるというか。特に黒澤明って複数の視点(『羅生門』)とか対立軸の設定が上手くいったとき(『用心棒』)に傑作が生まれている気がするので、こういう戦争翼賛映画とかはあまり向かなそうです。脚本が黒澤一人なのもいけないのかな。

それでも、最後徹夜明けの渡辺ツルを皆待っていたシーンとかはぐっときたんですけどね。出来はよくないかもしれないけど、そんなに嫌いになれない映画の1本です。
まあ戦意高揚映画だし (いくらおにぎり)
2006-09-30 17:21:08
黒澤明と戦意高揚映画は相性が悪かったようですね。毎度毎度の木下恵介との比較で申し訳ないですが、木下が戦後一時期の「左翼」的な世界観をうまく咀嚼できていなかったのと対照的だと思います。

黒澤明だと、もちろん「七人の侍」とか定番系を除けば「素晴らしき日曜日」の出来がダントツのような気がするんですけど。

ああ、また見たいな「素晴らしき日曜日」。

国策映画の限界の中で (やまひで)
2006-11-30 21:19:36
プロパガンダ映画のいやらしさは、それが右からであれ、左からであれ、見ている者にその論理を強要するところにある。そのプロパガンダの目的がさらに戦争遂行ということであれば、その映画の監督としての倫理的責任はより大きくなる。その意味で黒澤のこの責任は問われなければならない。同様に、一見恋愛映画に見えるM.カーティスの『カサブランカ』も反ファシズムの政治宣伝と戦意高揚という点では、同様の責任の地平にあるといえる。さらに非政治的であるということ自体が政治的態度の一つであるということからすれば、芸術と政治性とは、かくして切っても切れない問題であるが、この問題は、全体主義の時代にはその問題性が頂点に登りつめたと言っていいであろう。全体主義体制の中に身を置いたものは、このような時代では、自分の芸術家としての潔癖性を守るためには,少なくともプロパガンに関わるような活動は控えるべきであったのである。「内的亡命」という言葉が思い出される。
 では、話をこんなに割り切れるであろうか。心情的には、国が危機にあり、その国を守る(もはや攻めるためではなく)ために兵隊達が戦っている。その兵隊達のために銃後で女子として何が出来るか。そのような意識で、皆が自己を捨てて全体のために献身する自己犠牲の美しさ、英雄死の、ある種の美学を銃後の日常性の中に描いてみること、これがこの黒澤映画のテーマではないか。題名の『一番美しく』とは、何がそうなのかを考えると、私にはこう考えざるを得ない。とすると、現代の、自分の小さい世界の中で自分のことだけしか考えない人間が多いなかで、あの頃の高揚した自己犠牲の純粋性に、今見てみると、憧れさえ生まれてくるのは私だけであろうか。
映画芸術手法的に最後に二、三述べさせてください。ドキュメンタリー性ということであれば、この映画はイタリアのネオ・レアリズモの美学に通じてはいないかということ、編集を良く使って流れに緊張感がうまく出されていること(女工員の工場内での作業の場面、映画中盤の渡邉ツルを等間隔から色々な視点でショットしたものを立て続けに見せる点)、そして、人間集団を動かしてそれを画面として構成する美意識
(映画の最初の方で、女工達が寮に帰ってきた時玄関で寮母先生を狭い空間でありながら、ぐるぐる巻きにしてしまう女工たちの集団としての動き)、この点さすがは、将来の巨匠黒澤の力量が国策映画の限界の中にも出ているなと思った。
コメントありがとうございます (いくらおにぎり)
2006-11-30 22:57:03
やまひでさま、コメントありがとうございます。
同じコメントが3つ、入っていましたので、2つは消させていただきました。ご容赦ください。
やまひでさんのおっしゃることは理解できるのですが、国策映画というフレームを換骨奪胎して美学という地平に脱出するというのは、かなり危険なことですね。ある意味、「普通の」(という言い方もヘンですが)国策映画より、より毒が強いかも知れません。それも、監督が、その点に無自覚だった場合、最悪のデマゴーグになる可能性を持ってしまうと思いました。

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