甘い生活 since2013

俳句や短歌などを書きます! 詩が書けたらいいんですけど……。

写真や絵などを貼り付けて、二次元の旅をしています。

2893・76→3839・17 つづき

2017年08月21日 05時06分00秒 | 空を見上げて

 ジミー・キーというピッチャーがヤンキースにいました。ヤンキース生え抜きではなくて、トロント・ブルージェイズからやってきた選手でした。1992年にワールドチャンピオンになり、1993年からヤンキースで活躍したそうです。

 そんなにボールの速度は速くはなくて、ゆったりとしたモーションから、長い手足を利用した感じで、安定したフォームで着実に相手チームを抑えてしまうピッチャーでした。

 少しずつヤンキースでも勝ち続け、1996年にまたもワールドチャンピオンになる人でした。それだけ栄光のそばで輝くことのできた人でした。

 やはり安定したフォームで、ゆったりと投げて、なんとなく抑えて、着実に勝ち星を重ねる人というのは、優勝チームには必要な要素なのだと思われます。

 あの憎らしいほど相手を抑えてしまう力って、サウスポーの人はたまに持っていたりする。

 日本では、そんな人がだれかいなかったかな……。思い出せないけど、私の印象の中にジミー・キーさんの投げる後ろ姿は焼き付けられていました。それを思い出させてくれた人が、広陵高校の平元投手で、細かいところをいうと違うんだろうけど、ゆったりとしたフォームからまっすぐと変化球を投げ分けていた。剛速球ではないのだけれど、バッターはなんとなくねじふせられてしまう。

 そういう印象を受けました。それは17日の午前中、たまたま外まわりをしていて、テレビ画面を見る機会がありました。「あのジミー・キーさんによく似た投手が出てきたんだ。きっといつかプロの世界に入り、いつかはMLBで活躍してくれたら、ジミー・キーの再来とアメリカのスポーツ界は言ってくれないかな」と思えるような、そんなピッチャーでした。

 ところが、平元投手は、3回戦も準々決勝も、本来の力を出せていない様子で、次の準決勝こそ、本来の力を出して、淡々と抑えてくれたらと思うのです、私は。



 長々と書きました。このジミー・キーさんは、てっきり年上なのかなと思っていたら、調べてみると年下で、私はやっぱりオッチャンなんだ、とびっくりしました。

 仙台育英の佐々木順一朗監督さんは、年下なのかなと思っていたら、なんと同い年みたいで、同い年の佐々木さんがこうして頑張っておられるのを見ると、私はどうした、何をしているんだという気にさせられます。

 まあ、こういうトップクラスの人と同じになろうとするから無理があるわけで、私は私の道を行かなきゃいけないのは、いつものことでした。

 佐々木さんは、東北高校のピッチャーで、スリークォーターから投げてくる感じの人でした。1976年にベストエイトまで進出します。彼は2年生のエースでした。すいすいと勝ち上がり、いよいよ東北のチームも優勝するのか、という機運が生まれたのもこの時でした。

 いや、もう少し前に、青森の三沢高校の太田選手がいましたけど、その人の活躍は私は覚えていなかった。はるかに昔の歴史としてしか知らなかってんです。

 だから、この時の活躍が東北勢の活躍を印象づけられた最初の頃でした。

 しぶといチームだったけれど、ここを退けたのは、海星高校の剛速球投手の酒井圭一さんで、彼がこの1976年の夏に甲子園に出てきたときには、強烈な印象がありました。まっすぐが主体で、変化球を投げたのかどうか。とにかくまっすぐだけでやりきれるすごい人でした。

 この酒井投手の海星は、準決勝で大阪のPL学園に2-3で敗れてしまいます。ああ、この時に勝ち上がっていれば、長崎勢初の優勝だったのに、あれから長崎はナツでは勝ち上がれていないようです。春は青峰高校が頑張ってたような……、どうだったかな。



 酒井選手は私より1つ上になるのかな、とにかくほぼ同年代ということにしましょう。ジミー・キーさんといい、佐々木さんといい、酒井さんといい、同年代は輝いた時期をそれぞれに持ち、今はまたそれぞれの人生を歩いている。

 たまたま私は、テレビで、佐々木さんを見て、名将・竹田監督のあとを継いで仙台育英でお仕事されているのを見ることができた。早大から社会人を経て、高校の教員になられたんでしょうか。このまま65歳までは監督としてお仕事をされて、それまでに東北に優勝旗をもたらしてくれるかもしれないし、それを期待したいなと思った次第です。

 酒井選手は、ヤクルトのスカウトとしてお仕事をされているみたいです。プロでは大成しなかった。ジミー・キーさんは、MLBで186勝くらいされていて、今も野球に関わっておられるのだと思われます。

 私は? ただの思い出マニアだから、昔のことを思い出しただけなんだけど、あんなにワクワクさせてくれた仙台育英も、盛岡大学付属高校も敗れてしまい、こうなれば広陵高校にがんばってもらおうと気持ちを切り替えて応援するんでしょうか。

 どうも、昔からピッチャーにあこがれていたので、今も、きれいな投げ方をする人にはただたただあこがれてしまいます。そういうのができる人がうらやましい。



 1976年に地方大会の参加校が2893校あったそうです。それだけしかなかったのかという印象ですが、たぶん都会のチームも少なかったんでしょう。

 それが毎年少しずつ増えて、2003年には4163校が予選に参加した。私学の参加が増え、男女別学がどんどん共学化し、私学の女子高だったところに高校野球が導入され、神村学園とか、済美高校のようなところも現れるようになった。

 けれども、2003年をピークにして参加校は減り続け、今年は3839校になったという。もう高校野球に参入しようというチームはこれから出てこないような気がします。年々減り続けることでしょう。

 若い力はどんどん出てくるけれど、全体数は減っている。野球だけがすべてではなくなって、バスケットやサッカーその他の競技もそれぞれに注目されている。世界を相手にするため、日本の選手たちはがんばらねばならなくなったのであります。野球はそんなに世界を見ていなくて、国内ばかり目がいっていたけれど、世界を見ながらプレーする人が出てくれないことには、日本としても困ってしまうわけですね。

 まあ、きっと今の若い人たちは、世界を意識して競技をしているトップの人たちもいるだろうから、今年の選手たちも、そういう世界に飛び込んでくれるでしょうか。期待しようと思います。



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