19【采薇(さいび)の歌】……自分の意志を通すためにはどんなやせ我慢もするということ。
★ 19「薇」とは、どんな山菜ですか? 筍(たけのこ)? わらび? つくし?
今から三千年以上前のことです。中国はまだ殷の時代です。伯夷(はくい)さんと叔斉(しゅくせい)さんという兄弟がいました。兄弟は孤竹という小さな国の領主の子どもでした。父親は末っ子の叔斉さんを跡継ぎにしようと考えていました。当時は末子相続というパターンがあったそうです。
その父が亡くなると、弟の叔斉さんは、自分が父の跡を継ぐのは礼にそむくと考え、兄の伯夷さんに譲ろうとしました。一方、兄の伯夷さんは、父の遺志にそむくことは子としてできないと考え、自分さえここにいなければよいのだと、密かに国を出て行きます。叔斉さんもすぐに兄のあとを追って国を捨ててしまいます。
二人は、仁徳があると評判の西伯(せいはく)さんを慕(した)って周の国に向かいます。周の国に着きますと、西伯さんはすでに亡くなっていました。けれども、折角来たのだから、息子の太子・発(後の武王)さんに会いますと、発さんは広く諸侯の軍をあつめ、大軍を発して、東(先進地域)の殷の紂王(ちゅうおう)さんを討とうとしています。
二人は軍事行動を思いとどまるよう説得します。その理由が、「お父様が亡くなられて、そのお葬式をしっかり行っておらず、しっかり喪に服さなければならないのに、戦争を始めようとするなんて、そういう行為は親孝行でしょうか。家臣の身であるあなたが、主君を殺そうとするのは、思いやりのある仁という行為でしょうか。それは反逆ですよ。」というものでした。
王の左右の者は、王の馬を止めて頑固に食い下がる二人を殺そうとしました。それを見ていた太公望は、「二人は義人なのだ」と、まわりを押しとどめて、二人を救い出しました。
二人は解放されましたが、どこへも行くところがなくなりました。周の武王さんが殷を滅ぼしてからは、二人は周という国が関係する穀物を食べるのを嫌い、首陽山(しゅようざん)という所に隠れ、薇をとって食べる生活に入ります。けれども、やがて餓死してしまいます。その二人が亡くなる時に作った歌が「采薇の歌」なのでした。
われ今かの西山に登って、その薇をとる。
武王は暴をもって暴にかえ、その非を知らず。
そのかみの神農・虞・夏、忽焉として今は没(な)し。
われいずくにかゆかん。ああ往かん、命の衰えたるかな。
勝手に訳してみます。
首陽山で山菜を採って生きながらえています。
武王は、暴力で暴力をふるう紂王に変わろうとしていて、まちがいに気づいていません。
この国に、昔は秩序ある国の交代が行われてましたが、今はもうなくなってしまいました。
私たちはどこへ行ったらいいのでしょう。ああ、命が尽きようとしています。
司馬遷さんは、2人は本来なら歴史に残るような人物ではなかったと述べます。確かに、彼らは何もしていない、ただの文句言いでしかありません。ヤセガマン野郎です。大バカモノです。でも、孔子さんが、2人の人物の精神を取り上げ、残してくれたおかげで、我々も知ることができる。だから、だれか立派な先生(青雲の士)につけたら、私たちも歴史に名を残すことができると語っています。それくらい人との出会いって、大切なんですね。そんな人と出会いたいです。
答え 19・ぜんまい
★ 19「薇」とは、どんな山菜ですか? 筍(たけのこ)? わらび? つくし?
今から三千年以上前のことです。中国はまだ殷の時代です。伯夷(はくい)さんと叔斉(しゅくせい)さんという兄弟がいました。兄弟は孤竹という小さな国の領主の子どもでした。父親は末っ子の叔斉さんを跡継ぎにしようと考えていました。当時は末子相続というパターンがあったそうです。
その父が亡くなると、弟の叔斉さんは、自分が父の跡を継ぐのは礼にそむくと考え、兄の伯夷さんに譲ろうとしました。一方、兄の伯夷さんは、父の遺志にそむくことは子としてできないと考え、自分さえここにいなければよいのだと、密かに国を出て行きます。叔斉さんもすぐに兄のあとを追って国を捨ててしまいます。
二人は、仁徳があると評判の西伯(せいはく)さんを慕(した)って周の国に向かいます。周の国に着きますと、西伯さんはすでに亡くなっていました。けれども、折角来たのだから、息子の太子・発(後の武王)さんに会いますと、発さんは広く諸侯の軍をあつめ、大軍を発して、東(先進地域)の殷の紂王(ちゅうおう)さんを討とうとしています。
二人は軍事行動を思いとどまるよう説得します。その理由が、「お父様が亡くなられて、そのお葬式をしっかり行っておらず、しっかり喪に服さなければならないのに、戦争を始めようとするなんて、そういう行為は親孝行でしょうか。家臣の身であるあなたが、主君を殺そうとするのは、思いやりのある仁という行為でしょうか。それは反逆ですよ。」というものでした。
王の左右の者は、王の馬を止めて頑固に食い下がる二人を殺そうとしました。それを見ていた太公望は、「二人は義人なのだ」と、まわりを押しとどめて、二人を救い出しました。
二人は解放されましたが、どこへも行くところがなくなりました。周の武王さんが殷を滅ぼしてからは、二人は周という国が関係する穀物を食べるのを嫌い、首陽山(しゅようざん)という所に隠れ、薇をとって食べる生活に入ります。けれども、やがて餓死してしまいます。その二人が亡くなる時に作った歌が「采薇の歌」なのでした。
われ今かの西山に登って、その薇をとる。
武王は暴をもって暴にかえ、その非を知らず。
そのかみの神農・虞・夏、忽焉として今は没(な)し。
われいずくにかゆかん。ああ往かん、命の衰えたるかな。
勝手に訳してみます。
首陽山で山菜を採って生きながらえています。
武王は、暴力で暴力をふるう紂王に変わろうとしていて、まちがいに気づいていません。
この国に、昔は秩序ある国の交代が行われてましたが、今はもうなくなってしまいました。
私たちはどこへ行ったらいいのでしょう。ああ、命が尽きようとしています。
司馬遷さんは、2人は本来なら歴史に残るような人物ではなかったと述べます。確かに、彼らは何もしていない、ただの文句言いでしかありません。ヤセガマン野郎です。大バカモノです。でも、孔子さんが、2人の人物の精神を取り上げ、残してくれたおかげで、我々も知ることができる。だから、だれか立派な先生(青雲の士)につけたら、私たちも歴史に名を残すことができると語っています。それくらい人との出会いって、大切なんですね。そんな人と出会いたいです。
答え 19・ぜんまい