甘い生活 since2013

俳句や短歌などを書きます! 詩が書けたらいいんですけど……。

写真や絵などを貼り付けて、二次元の旅をしています。

ヨーグルトからひょうたん島へ

2017年03月21日 21時44分24秒 | 賢治さんを探して

 近ごろずっと柑橘ヨーグルトに凝っています。パイナップルが三百円(ニッキュッパー)で売っているときは、ぜんぶ細かく切って、それにヨーグルトをかけて1週間くらいずっとパインヨーグルトなんですけど、なかなか安いパイナップルに出会えないので、仕方なく(家に夏みかんを二十個ほど放置していたので)あまなつ・夏みかん・ハッサク、なんでもいいから果肉をちぎって、それにヨーグルトをかけて食べます。

 最近は、これがないと、食事の締めくくりができません。今はこれがあるから、「うん満足した!」と、幸せな気分でお風呂に入れます。お酒もヨーグルトで吹っ飛ばす作戦かな?

 何がおいしいのかな……? パインヨーグルトは、パインが主人で、ヨーグルトは家来みたいな感じです。パイン支持者の私は、それはもうパインに従って、それで幸せなんだけど、一方の柑橘ヨーグルトはそんなことはなくて、みかんの果肉とヨーグルトがなんともいえないハーモニーを出します。この調和した味を求めて、夜と朝、柑橘ヨーグルトを食べています。パインヨーグルトにはない調和で、おだやかな気持ちになれます。腹持ちもいいし、いつまでもサクサクした感じです。

 こうした幸せも、あと何日つづけられるんでしょう。はっさくも、夏みかんも、あまなつも、もうすぐなくなってしまうかもしれない。

 ああ、それを思うと悲しいです。そうしたら、また新しい救世主が出てくるかな。たとえばイチゴ。まあ立派だけれど、高いですね。そんなに毎日食べられない。どうしたらいいんだろう。せいぜい今を楽しむしかないですね。柑橘ヨーグルトがある日々をありがたく味わいましょう。

 それで、お風呂に入りました。ツメにみかんのにおいがします。ふと見ると、私のツメはズダズタになっています。切るのを忘れていたし、この前の旅の準備でバタバタしている時、あちらの壁やこちらの戸、そちらの床とぶつけて、たくさん欠けてしまいました。それくらい簡単に私のツメは割れてしまいます。どこか体が悪いからツメが割れるのか。

 それもあるのかもしれないけど、単なる老化だと、高をくくっています。

 ぶつけるから割れるのか、それとも、もろくなっているから割れるのか、たぶん、どっちもあると思うのです。つまらないことであちらこちらにぶつかり、つんのめるのです。それくらい私は、自分の手足を持てあましている。上手くコントロールできていないのです。

 そうか、だんだん私の体は、私の思いから遠ざかっているのか……。

 いや、この体というのは、私の魂がたまたま借りているもので、いつか返さなきゃいけない時が来るのでしょう。体を神様に返したら、魂の入れ物はもうなくなるから、私の魂も、どこか落ち着くところにフワフワと飛んでいくんでしょう。そして、お盆に帰ってきたり、お彼岸だからとワイワイ騒いだり、魂としての活動に励むのかな、そんなことをお風呂で考えました。そうか、借り物なのだと。

 だれしも体は借り物なのである。だんだん返さなくちゃいけないから、少しずつ返していく作業の中で、お年寄りになると、ブレーキとアクセルを間違えたり、高速道路を逆走したり、時々魂が体を離れてる間に体が勝手に動いたり、いろいろなトラブルが起きるんでしょうね。

 そういうものなのだと、世の中の人も理解して、借り物の体を利用するときのきまりみたいなのを、もう少し体系的に教えてくれたら、みんなミスがなくなるのだと思います。口で何を言っていたとしても、それは怪しいと科学的に判断してくれなきゃいけないですね。

 口からのことばだって、魂が借りた体から出しているモノで、魂のことばではないですね。魂は平気でウソだってつけるでしよう。はたして魂にほんとうのことが言えるかどうか……。

 私の体は借り物で、少しずつ神様に返している真っ最中なのかぁ。改めて知りました。


 まだ他人事として考えていますけど、「死」のことですね。着実にみんなにやってくることです。哲学者も文学の人も、みんな「死」について考え、悩み、答えを探していた。そして、みんなそれらしい何かをことばにしてみたけれど、それでもまだわからなくて、モヤモヤしたまま、ずっと「死」に向き合ってきたことでしょう。

 何を書きたいのかというと、賢治さんのことでした。この週末、それを考えたくて、三重県から岩手県の盛岡まで行ったんでした。たったの2時間のフォーラムのために、呼ばれもしない岩手大学まで行かせてもらいました。

 そこで何を聞いてきたのか、というと、バラバラで、これはというものは手に入れられませんでした。大学の先生たちとも、自ら進んでお話ししようともせず、さっさと帰ってきました。だから、何にもならなかったような気もします。でも、研究のタネはいくつかもらってきたのかなと、不安ながら思うので、どこかについてるタネを探して、ぜひ伸ばしてあげなくてはと思うのです。

 賢治さんと井上ひさしさんのことを学芸大の先生はお話ししてくださいました。井上ひさしさんは、賢治さんを考えるうちに、お芝居やら、小説のようなものを書き上げておられます。賢治さんは井上さんの創作意欲をかきたてる刺激というか、大切なテーマになった。

 ここから啄木・一葉・漱石と私の好きな先生たちをテーマにする作品も書いておられます。何かそこにあるような気がしておられたから、一心に掘り起こそうとした。啄木・賢治さんは同じ東北出身の作家としての敬意もあったことでしょう。


 それで今日、賢治さんのことを井上ひさしさんの目を通して見るという方法もあるのだなと、あれこれ調べていたら、2006年の新聞記事に、「ひょっこりひょうたん島の子どもたちはみんな死んでいた」というのを見つけました。

 それ、どういうこと? と思ったら、そのころ山形で講座か何かをされていて、井上さんが観客に、ひょうたん島の子どもたちは、岬に遠足に来たときに火山の噴火で死んでしまい、そこから岬が海を漂流していく物語が始まるのだけれど、島にいる陽気な人たちはみんな幽霊・亡霊で、その魂たちが漂流する島と一緒に冒険していく設定だったのだと語ったそうです。

 聞いた人たちはビックリしたことでしょう。数十年前に見たあのドラマの主人公たちは、みんな亡霊で、その魂たちがさまよう物語だったのかと、自分がワクワクしていた足下が吹っ飛ぶというのか、影も形もなくなると言うのか、気づいたら自分たちも雲の上だったというのか、とにかくビックリの話でした。


 そうか、そういうところを原点・原動力にして井上さんは物語を作っていった。あっ、そうか、これは井上さんのオリジナルの手法ではなくて、東北生まれの宮沢賢治という人が物語を書いていくときによく使った手法なのかなと、ふと気づいたのです。

 そういう目で、そういう心構えで、私は賢治さんの文学に触れていかなくてはならないのだと今さらながら気づいたところです。そうして見直せば、何か違う世界が見えてきそうな、そういう気がしたのです。

 というわけで、今から読書して、すぐに寝てしまうと思うけど、本を開いてみます。


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