伊真田孝司の自由研究室(出張所)

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呪われた都・平城京。権力闘争の果てに―3― 平城京跡地 奈良

2009年11月23日 | Weblog
平城京遷都、710年に完了したのでした。
それが、来年2010年から数えて1300年前の出来事でした。

「あをによし

 奈良の都は 咲く花のにおうがごとく 

 今盛りなり」

美しい都、平城京



ところが、720年、藤原不比等が亡くなると、「長屋王の変」が起こります。
藤原不比等の死後、息子である藤原四兄弟が政治の主権をとります。
天皇の後継ぎ問題で、長屋王と対立。
結果、長屋王の一族もろとも滅亡に追いやります。
しかし、長屋王のタタリか、天然痘が流行します。
藤原四兄弟をはじめ、聖武天皇を支えていた大勢の高級官僚たちが倒れてゆきます。
藤原氏は一時衰退の様相をみせます。

しかし・・・

不満を抱いたのが藤原四兄弟の一人、藤原広嗣(ひろつぐ)。
地位を落とされ、批判するが、九州は大宰府に左遷されます。
そこで、乱をおこします。

740年(天平12年)。「藤原広嗣の乱」です。

母、そして皇后と藤原の血をひく聖武天皇のとって、同族である広嗣の反乱は、衝撃であったのです。
乱は鎮圧され、広嗣は逃亡の末、捕縛、斬首となったのでした。

・・・ようやく授かった子を失い、

  長屋王の変、

  天然痘の流行、そして、
     政治の主導者を失い、

  同族の反乱、

          飢饉・・・

都は、タタリか、長屋王の呪いかと、噂でもちきりになります。
暗い時代がつづきます。

ある日、聖武天皇は、平城京を離れ、伊勢行幸へ出かけました。

>つづきは、こちら
ジャンル:
奈良県
キーワード
藤原四兄弟 長屋王の変 藤原不比等 藤原広嗣の乱
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