ラブが行く!

家族と自分自身のための、愛犬ラブの平凡な日々の記録
2代目ララとの日々

お彼岸に

2017-09-20 14:13:45 | Weblog
なかなか実家へ行けず、お墓参りもままならず、、ですが、

お彼岸なので、久しぶりに母のことを想い、

書いてみようと思います。




突然ですが、

皆様は食に対する欲が強い方ですか?  そうでもありませんか?

つまり、、美味しいモノ食べたい!という食いしん坊さんですか?

これって育った環境で変わるものでしょうかね?


我が家でいうと、、

夫は常に美味しいものへの欲があり、

お高い外食には興味ありませんが、家で、いかに美味しく食べるかへの追求があります。

だから料理センスは私よりもずっと上!

そして、自らキッチンに立ちます。

私は、、あまり食に対する欲求がないんですよね~

まあまあでお腹が満たされればいい、、派なのです。

美味しいの基準、味覚は人それぞれでしょうから、

まあ、自分の口に合えば充分です。

もちろん、時には外で美味しいプロの味が食べたいなあ、、とも思いますが。


育った環境といえば、父は食いしん坊、母は家族に食べさせるという義務感で作っていた感はありました。

こうしてみると、一般的にお酒を飲む人のほうが食いしん坊なのかな~?

ただ、母については考えられる理由がありました。


まだ私が4歳の頃で、ほんの一部しか記憶がないのですが、

まだ昭和30年代のことですが、

母は交通事故に遭いました。

朝、田舎の最寄り駅前の県道をバイクで走行中、

電車に乗り遅れそうという若者の、脇道から一旦停止せずに猛スピードで出てきたオートバイと衝突。

母は大きく投げ出されました。そして、顔面から道路に叩きつけられたそうです。

当時はまだ、救急車も無かったのか、

駅前のタクシー会社に頼んで、

父の膝に抱かれた母は、隣町の病院へ運ばれました。

県道とはいえまだ砂利道で、車が揺れるたびに顔面、頭部からシャワーのように血が噴き出し、

父は、なるべくゆっくり走ってほしいとお願いしたそうですが

運転手さんにしたら、自分の車の中で死なれたらたまらない、、との思いが強かったんだろうな~

と、父は話していました。

かなりのスピードで砂利道を走ったそうです。

昭和30年代、当然今の医学とはかけ離れ、

ただ、外傷を覆い、光の入らない黒いカーテンの病室に寝かされ、

自力での回復力に期待するしかなかったようです。

当時母は30か31歳。

私の記憶は、しばらく経ってからお見舞いに行った暗い病室、

母の側に立っていたことぐらいで、

この記憶さえももしかしたら、後に父母から聞かされた話で出来上がったのかもしれません。


意識不明の日々が続いた母。

この時の母は、、

自分がどこの病院に居るっていうのがわかっていて、

そして、その町にある自分が知っているお寺の鐘の音が、耳のすぐそばで大音響で鳴り響いていたそうです。

そして、なぜこんなにお寺の鐘の音が大きく鳴り響いているんだろう、、と思っていたそうです。

回復とともにだんだんとその鐘の音が小さくなっていった、と話していました。

2、3ヶ月入院していたと思います。

母は奇跡的に助かったのです。

半分以上、あちらの世界に足を踏み入れていたのでしょうね。

この話を母に聞いた時、間違いなくあちらの世界があるんだ、と思ったことを覚えています。

顔面から落ちたから助かった、後頭部からだったら間違いなく命を落としていただろう、、ということでした。

命拾いをした代わりに、色々なものを失いました。

2歳年上の兄は、あの事故で母の顔は変わった、、と言っていました。

前歯はほとんで折れて、私が物心ついた時にはもう部分入れ歯の母でした。

そして、鼻の骨も折れて、

母は嗅覚を失いました。

私が小学生のころは、冷蔵庫のお肉を取り出しては、

必ず私に臭いチェックを頼んでいました。


嗅覚が無くて食欲がわくはずありませんよね。。。

大人になってから初めて気付きました。


あの時母が亡くなっていたら、私や兄弟の人生は全然違うものだったとも思います。

何十年も経ち、晩年には少しは臭いがわかったようでしたが、

そういう弱みを一切表に出さない人だったなあ。





今は、時々父母に神頼みしちゃってます。

自分は今まで、大病も大怪我もなくきたけど、

兄弟は歳の順に順番でね。

お願いします。


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