年寄りの冷や水

定年退職者が感じることを書き残す

火災保険料は自分で見直してみましょう。

2006-12-22 03:50:38 | Weblog
・損害保険会社の火災保険金取り過ぎについて業界で詳細調査を始めているが、私達も自分で保険対象物件の現在価値と保険料率を見直してみるべきと考える。

・火災保険料の取り過ぎ事例としては、①燃えにくいツーバイフォー(2×4)住宅等の割引制度がきちんと適用されていない事例、②軽量コンクリート等を使った建物で保険料を誤って設定された事例、③被災時に実際支払われる保険金よりも多額の保険金を設定している「超過保険」となっている事例等がある。

・損害保険会社とその営業担当者は、多額の保険金契約の実績をあげるのが仕事である。その手段として保険料率を間違えるのは故意の操作としか思えない。しかし、保険対象物件の価値評価の間違いについては、これは損害会社や営業担当者の悪意や契約ミスだけではないかも知れない。損害保険会社としては、契約者が被災した時に十分に保険金を支払えるように十分な保険金をかけてもらうのがサービスと考えているかも知れない。

・家屋等の建物や設備は常にその評価は変化するものである。経年で評価額は低下して行くとともに、改造工事等では評価額は向上して行くものである。その評価額に見合った保険金を支払って、被災時にはその評価額に見合った補償を受けるものである。評価額以上の保険金を支払っていても、被災時にそれだけの補償を受けることは出来ないのだ。

・工場等では大型設備の新設、改造で評価額が向上し固定資産税も火災保険金も高くなることはよくある。しかし、私達の個人家屋では滅多に評価額が向上することはない。家屋を新設し、家屋内の設備や備品の評価額を加えて家屋全体の火災保険対象物評価額とするが、毎年家屋の評価額が低下し、保険対象物全体の評価額も低下するのが普通である。しかし、私達は毎年見直しはしなく、自動契約更新で保険金も銀行からの自動引落としてしまっている。自動契約更新の方法で昔の高額の評価に対する高額の保険金を支払っているケースが多い。高額保険金を支払っても被災時にそれだけの補償を受けられるわけではないのだ。

・評価額の見直しによって支払い保険金の減少をアドバイスしてくれる営業担当者はいない。わざわざ保険金を減らして自分の営業成績を悪くする営業担当者はいないだろう。出来るだけ契約者訪問もしないだろう。「契約者が契約を自動更新して保険金を支払ってくれているのだから自分達には責任はない」と考えているだろうと思われる。一度、損害保険会社に電話してみて現在の保険対象物件の評価額と保険料率の説明を受けてみてはどうだろうか。自分のことは自分で守る以外に方策はないと思われる。


自殺は改善策でも解決策でもない!!もちろん美徳でもない!!

2006-12-20 05:33:21 | Weblog
・いじめられての自殺、不祥事に関係して責任を感じての自殺、あるいは本当は不祥事に関係していないが誰かの身代わりで責任を取って決着させようとしての自殺等と思われる報道が多い。これらの自殺は問題の改善策にもならないし、解決策にもならないし、同情を集める事があっても決して美徳でもない。そのうちに皆にすっかり忘れられてしまう事となる。自殺された人達や家族の人達のことを考えると、いくらブログと言えどもこのようなメモを書く事には非常に長い間悩んだが、やはり今の自分の考えとしてメモする事とした。

・決して「いじめ」を認めるものではない。学校でのいじめ、職場でのいじめ、考えたくはないが地域や家庭でもいじめはある。その人が憎らしいからいじめると言うよりは、皆でその人をいじめる事で仲間を作ったり、自分がいじめられることから逃れようとする気持ちの弱い人達の手段であり、非常に悲しいことである。私の経験では、その様な気持ちの弱い人達の周囲にいじめが発生するものと思われる。周囲の人達はそれを考えて注意を払い、いじめが一人に集中しないように配慮すべきであるのだ。「いじめはありません。いじめがあった事は報告を受けていませんでした。いじめがあったとは思われません」等の言訳をして自分の責任を逃れようとする人達も惨めな人達でもある。

・しかし「いじめによる自殺」で周囲の人達が同情し、改善すべきとは考えるものの本当に自殺者の思惑が達成されるものだろうか、決してそうではない。自殺で自分に対するいじめはなくなっても新しいいじめ相手が探しだされてしまうだろう。周囲の人達のいじめ改善対策もすぐに忘れられてしまうだろう。自殺してもなんにもならないだろう。それならば一人でも信頼できる友達なり家族なりと話し合ってみたり、あるいは自分ひとりででも決意あらたにして抵抗し、自分ひとりででも毅然として生活してみようと思って欲しいものだ。難しい事かもしれないが、「死ぬ気になれば何も怖い事はない、出来ない事はない」と思われるのだ。

・官製談合とか裏金とか決算偽装とかでも自殺者があるが、同情はしても自殺者が出たからと言って改善策にも解決策にもならない。立派に責任を取って自殺したのだとも思われない。悲しい事に自分の責任が少なくなるのではと勘違いして、裏で笑っている人達もいるかも知れない位である。そんな事を考えると自殺しても何にもならないではないか。自殺するよりは自分達仲間や上司の不正、不祥事内容を世間に明らかにし、それなりの責任を取るとともに、他の場所での同様な事が発生しないようにと努力すべきではなかろうかと思われる。その人は周囲から非常な非難を受けるかも知れないが、「死ぬ気ならば何でも出来る」ものと思われる。このように考える事は他人の無責任な考え方だろうか。しかし、自殺しても何も残らないではないか。

・私も今までに「死にたい」と思った事は何度もある。その時には、両親の事、兄弟の事を考えて「親や兄弟、友達達に悲しい思いをさせてはいけない!!死ぬ事は何時で出来る、もうちょっと頑張ってみよう」と考えたものだ。また時には自分の子供達の事を考えて「ここで死んで誰が子供達の面倒を見るのだ!!死ぬ気になって子供達のために頑張ろう!!」と思った事もある。原因は自分の勉強の成績のこと、自分の家庭の経済的なこと、自分の昇格・昇進のこと、自分の健康のこと等もあったが、自殺しなかったから全て解決したとは思えないが、「自殺していたら解決されただろう」とは決して思われない。自殺しないで皆の応援を貰いながら63歳まで何とか生きてきた事は大成功であったものと自慢している。

・「失敗と分かっていて行うこと」を「自殺的な行為」とか、略して「自殺行為」と言われているのだ。「自殺は自ら失敗を選択する」事だと思われる。誰にでも他人には分って貰えない苦しいことも悲しいことも多くあるものだ。それでも「死ぬ気になって頑張ってみよう」ではないか。