弓道修行日記

このブログに、弓道修行する中で、学んだこと、考えたこと、試行したこと等を書き残し弓道修行の友とする。

在るべき弓道を考えるー3.離れを考えるー1

2010-03-09 | Weblog
離れは弓道一番の難しいところで、良い射と悪い射が決まる重要なポイントと考えます。

このブログでもいろいろな先生の離れ論を勉強していますが、離れはこうだというのは難しいと思っています。いろいろ勉強したら却って分からなくなるという原則があるのです。

 私は弓道の真理を探求したいと考えています。理想の離れをなんとか研究したいと思います。

その方法として、離れの文献を調べ、学説を調べ、真理を見いだす方法は考えられる方法ですが、弓道書を書かれた先生方の弓道は弓芸(弓道の芸術と言う意味で弓芸と言うことにしました)を考えて書かれたものではなく主に日置流が多くてそれは弓術論と言えます。

昔の弓術時代の離れ、実利の射の離れでと言えるのです。
ですから、「弓道書は読むなーそれは弓術書である」と言うようなこともこのブログで書いています。
(本屋さんには印西派の弓道書や日置流の弓道書が多く発行されています。これらは私は弓術書と見なします。弓芸を考えるなら小笠原流と本多流、大射道を勉強すべきと思います。)

私は弓道は弓術と弓芸の二つの部門に分けるべきと前稿で書いています。弓術書は沢山ありますが弓芸書はどうなんでしょう。

大射道教は弓芸を述べていたと思われますが阿波先生も弓術と弓芸があり我々が目指すのは弓芸であると言われたら二高弓道部員も反対をしなかったと思いますが、大射道教と言うことには反対をしました。

私が目指すのは弓道の弓芸の部門の射です。その離れは弓術派の離れとは全く180度くらい違います。

弓芸について書かれていると思われる本では離れを学ぶのは難しいのです。それは弓芸の本は射の精神を重視しているので個々の射技はうまく説明できていないと私は思っています。

阿波先生も個々の弓技は分からないと言われていました。

元々技を伝えると言うことが自体が難しいと言われています。どうやっても正確には伝わらないのです。
そこで口伝ということになりますが、それでも伝わらないのです。
結局は先生の射を見て、試行錯誤をして、自得するしかないのです。

印西派の離れは押し手は角見を利かせ、離れで手首を後ろに曲げるように、妻手は内に捻って捻り切るように、また弽は弽ほどきをして親指を弾く離れをし、小離れで両手は肩より下と言うようになっていますが、こうすると的中は良く、矢勢も言いと言うことです。
斜面で打起すのも手の内を取りかけでしっかり作りますので手の内が作りやすいと言われています。その分正面打起しより的中に有利だと言うことです。

しかし、弓芸ではこういうことはしません。そこに大いなる違いがあります。百発百中に意義を見いださないのです。精神の内容を重視するのです。

阿波先生は「在来の弓術は斗争裡における強者の道のみ
 ②自分は多年、弓を学んで何ら得るところがなかった。在来の所謂弓術なるなるものをことごとく窮め尽くして見たが、ただ斗争裡における強者の途より外に得る処がなかった。
されば、今人の弓道なるものは、的中を本能として道なれりとするもの。
これ即ち指導者が、時代の変遷と、道の大なるを識らず、唯、小なる技巧の修練にとどまって、大綱を失せる為なるが故である。」と弓術の弓道を批判し大射道教を提案したのです。

阿波先生は禅とか道とか礼とか儒教とか孔子の徳とかを重視され、私の弓の芸術論とは少し違うかも知れませんが、弓道の芸術性の追求では離れはどうするんだと言うことになりますが、私がこれに無謀にも挑戦しようとしているのです。

「離れ」の始まりは会の終わりから、離れの終わりは「残身」の始まりまでそれを如何にするかと言うことです。

会の終わりでは、弽を内に捻って下筋(上腕三頭筋のみ)を横一文字に伸ばし、胸の開きが無ければなりません。それがないと大きな反った星形の残身にはなりません。
(勿論会の始まりで縦線の伸びをします、そのところは会で述べます。)

その会から、
①花がパッと開くように(花の蕾が膨らんで膨らんでポーンと開くそんな感じです。花の開きを一瞬で見る離れです。)ですから「残身は開花に似たり」と宇野先生は言われましたが、開いた花が残身なら、開く過程、花の開き、花開が離れなのです。「離れは花開に似たり」なのです。

②傘が開くように(傘開の離れと言います。傘を開いて一杯に開いてもうこれ以上開けない状態が会の状態です。そこに突風が吹いたら傘は返ってしまいます。よく風が強い日に傘が反対側ひっくり返りますがそのひっくり返りが離れと同じと考えています。)

③風船の表面に張った身体がさらに風船を膨らませて爆発する感じです。
ですから、離れは何も考えられません。一瞬の出来事なのです。修正も細工も何もできない一瞬芸なのです。

④書道の字を書くのと同じです。勢い、早さ、大きさ、均整、調和、中心線、美、そう言うものが一瞬で表現されなければならないのです。
会の右拳が、一瞬に、最速、最短距離で残身の位置に弾けるように飛ぶのです。それが理想の離れです。
有るのは、会では理想の残身への思い、元の形に戻ろうとする意識、それによる伸びだけで、離れたらパーンと理想の残身が出来上がるだけです。

⑤弦を張った弓、それを肩の上に置いて弦を頬につけた状態が会で有るとします。これが会の状態の肩と両腕の状態と同じです。この張ってある弦を切ったら弓はどうなります。パッと開いて元の状態に原始体形に戻ります。そういう離れをすべきなのです。早く、大きく、鋭く、一文字で後ろに反って・・
右腕について肘から曲がっていますが、曲がっているだけで折れてはいないのです。一本のバネが曲がっている状態で曲げている力が取れると腕はバネの力で真っ直ぐに伸びるのです。

⑥細長く伸びる風船がありますがこれをふくらませて、一本の棒になっているのを途中で曲げて糸で引っ張った状態と同じです。そのひっぱっている糸を切ると風船は弾けて真っ直ぐ伸びた状態に戻ります。それが離れです。

⑦竹の枝先を糸で引いて曲げている、その糸を切ると、竹の枝先はどうなるでしょう。その枝先の動きが離れです。

⑧竹の枝先の糸を切る代わりに枝先の露が落ちて葉っぱが元の位置に戻りますが、これを雨露利の離れと言いますがこの離れです。

以上、自然から学んだ離れの事例を書きました、私はこの離れを自然の離れと言います。意識しないで離れるのを自然の離れと言う人もいますが、それは何時離れるか分からないので危険な気ががします。

私たちはいろんなものを自然から学ぶのが一番いいのです。飛行機が良い例です。鳥がいなかったら飛行機は出来なかったのでは無いでしょうか。鳥から学んだのです。

自然の離れがどうして出来るのかと言えば、元々上腕と前腕は一本のバネなのです。横一文字に伸びたバネが肘から曲げられているのが会の状態です。離れたら元の状態に飛ぶ、戻るのです。

この離れに大きさ、早さ、強さ、一線、反り、勢い、が無ければなりません。それは強いバネにする必要があります。その方法は、縦に伸び、所の無限に伸ばし開くことによって可能になります。

しかし、その離れ、弦枕と弦の離れはどの様にして起きるのでしょうか?

この点について、高段者は何も考えません。ただ一文字に伸びるだけと思います。
そうなったとき真の自然の離れと言えるのかも知れません。
高段者は何度も何度も練習して無意識でもできるようにして、巧緻化しているのです。

初心者はそれまでは離す離れを志向します。
弦枕からどうやって弦を放すのでしょうか、と書きましたが正しくは弦からどうやって弦枕を離すのかと言う意識が正しいのです。ですから離れと言うのです。放すのではないのです。

離れを科学的に考察してみようと思います。科学とは原理原則を見い出し、それによって誰もが何時でも何処ででも再現させられることです。

私の分析は
離れは①弦から弦枕をどの様に離すのか、②右拳の離れの方向、回飛の方向、③離れの軌道、④離れの早さ、迫力、⑤離れの終わり・残身、の5点から考えなくてはならないと考えています。

⑤の残身については前稿で書いています。縦長の星形で、やや前傾し反っている感じです。

①の弦はどの様にして弦枕から離すのでしょう。(離れも細かく言うと、放す、離れる、別れる、分かれる、とあり、両方が離れる分かれる感じがいいのかも知れませんが、矢や弦は関係ない懸口が飛ぶだけだと言う意識でもいいと思います。)

弽で見ましょう。(弽は三つ弽で考えます)
会では内に捻って弽の甲は上を向いています。これを親指で見れば親指の腹は脇正面を向きやや上向きでしょう。この親指は大きく引くことによって前腕、それと一体化した親指先は的正面から脇正面に向きが変わり懸口は弦に45度ほどの方向でかけられることになり親指がしっかりしていたら、決して弦は抜けない状態になります。

また、弦と弦枕の関係は弦がねじの山、弦枕がねじの溝の関係にあると考えます。このねじは弽を内に捻ればしまり、外に捻れば外れると言うような関係になっています。
つまり、引分けでは暴発しないようにするためには弽は内に捻って一杯に引いておかなければならないのです。捻りと引きが足りないと平付けと言う状態になり時には暴発する事もあるのです。

また、親指は真っ直ぐ伸ばし爪の方向に反らせるようにしますが、その状態から親指の爪の右方向、会での状態で言えば上の方向に向けて押し上げる働きをさせます。

その上に押し上げる親指を中指の第二関節で曲げて、第一関節の先辺りで親指をしっかり上から押えます。弓道では屈筋を使ってはいけませんが唯一ここではしっかり使って暴発を防がなければなりません。掛金をかけるようにしっかりかけます。

(こうした形の親指は内に捻ると親指先は脇正面の方を向き弦に45度掛かり、外に捻るとだんだん弦に掛かる角度が無くなり的正面に向きます。そうしたら弦枕からひとりでに弦が転がり出てきます。これが離れになります。)

弽は内に捻るとねじが締まり外に捻り戻すとねじが解ける関係に有り、捻ることが二重の離れ防止になり、捻りを戻すこと(外に捻ること)が二重の離れ作業になって軽妙な離れになるのです。(軽妙な離れはよく教士論文の課題になっています)

(そう言う離れの仕組みの中で印西派は内に捻りつつ肘を突く離れを指導しています。これはねじを締めて親指も弦に掛かって離れにくい中、親指を弾いて弦を放す離れをするのです。無理がありぶった切りと思います。理にあった離れ離れでは無く不自然な離れと言えます。
自然の離れとはいえ無いのですが、印西派も自然の離れを言います。それは時期的な問題で会で詰め合い、伸び合いをして、次に”やごろ”があって放すことを言っています。私は無理があると考えます。)

私が言う離れは親指は爪の方には弾きません。前腕と一本筋のままです。会でやや上を向いている親指の腹が捻りを戻すことによって前腕と一体でぐるりと回転しつつ残身に飛ぶのです。
この場合、会の終わりで①内に捻るとその反動で外に開く力がでる、その反動を生かして返すとそれこそスパッと切れ味の良い離れになると考えます。

会の終わりで、横に開いて、内に捻って、スパッと返す、ことによって切れ味の良い軽妙な離れになると考えます。

残身では親指の向きは下を向いています。会から言えば約90度回転しているのです。

つまり、右手は捻ると親指で弦を遮るようになると共にねじを締めるようになり、絶対に弦枕から弦は出てゆきません。捻りを戻すと親指は的正面を向きねじの溝が無くなり弦が弦枕から抜けるのです。

もう一つ親指をしっかり中指で押さえていますが、親指は上に弾くように、中指はそれに負けないようにしっかり押さえることが大切ですが、一番弱いところは親指と中指が接しているところです。どんなにしっかり頑張っても弦が来たらここを通ってしまいます。親指をことさら弾かなくても、弦枕から弦は転げ出てつまんだ形の指の間をすり抜けてゆきます。

親指を爪の方向に弾くという教えもありますが、そんなことは出来ません。それは小離れの離れの場合でしょう。

親指は何もしないで親指を中心に回転させる感じです。その時親指は上に中指は下に指パッチンするように双方の指を交差させます。

②の離れ方向は下、水平、斜め、上といろんな方向が考えられます。下というのは印西派の離れです、これは格好がわるく美的ではありません。水平は普通、上の離れも上段の離れとあり水平と上の中間、いろんな角度の離れがあるということになります。

しかし、その中でどういう離れが良いのかと言うことになりますが、それはバネの離れを案が得れば口の高さから肩の高さへの一直線と言うことです。

ここに来て残身での両手の高さは口割れの高さから肩の高さまであると考えられます。何処が良いのか、多分その範囲であればいいと思います。それは両方が同じ高さで無ければなりませんが、美しく、迫力があって、バランスが取れて、一言で言えばより芸術的で有ればいいのです。

もし、口割りの高さを目指すならその高さに会の円を意識しその方向に下筋をやや斜め上に押し開けばいいのです。基本的には下筋は横一文字に開くと考えていますのでこの場合は肩の高さの線に一文字ということになります。(今後の検討事項としておきます)

目指す残身像によって変わってきますが横水平にと言うことでしょう。上段の離れは鋭さに欠けます。

③の離れの軌道ですが、理想の残身をどう設定するかがありますが、会の親指の位置からその残身に向かって最短距離と言うことになります。

④離れの早さについては、バネの如くと言うことは意識して運ぶ離れではなく、強いバネを弾くが如く鋭く早く、迫力の表現をすべきです。

以上が私が考えた弓芸の離れです。

参考に大射道の安沢範士が離れでどう書いておられるか見てみますと
「会・離れは一貫性をもつもので、これを区分して考うべきものでない。会の円成無発(えんようむはつ)延長の中に真の離れが出現するのである。離れを求めて強き発を見せるのは脱兎離れ申し、取るべきものでない。すなわち合理的骨法に即し、丹魂に全生命を打ち込み、粉骨砕身もって円成無発の境地において霊箭を現出することこそ、我らの理想である。」
具体的な技術は言われていません。
しかし、上記の離れをちょっと練習すると簡単に出来ますので、離れは考えなくなるのです。ただただ会の円成を考えてういると爆発が起きるのです。風船の爆発のような、そして気宇壮大な凛とした余韻のある残身が顕現するのです。

そう考えています。




































































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