峡中禅窟

犀角洞の徒然
哲学、宗教、芸術...

ヒトラーの聖地?...ヨーロッパを覆う黒い影...

2016-10-18 11:04:55 | 日記・エッセイ・コラム
なぜ、いま、なのか...というところが、ポイントです。

写真は、もと記事のものですが、これが、問題となったヒトラー生誕の家...オーストリア北西部 ブラウナウ・アム・イン(Braunau am Inn)の、「ザルツブルガー・フォアシュタット(Salzburger Vorstadt)通り15番地の交差点」の角に立つ「黄色い3階建ての住宅」です。
この家の取り壊しの理由は、この記事では2つの観点から説明されています。

まずは、大きな問題として、記事の中で「ネオナチ(Neo-Nazi)の聖地になるのを阻止するため...」とあるとおり、移民問題に大きく揺れるヨーロッパの苦悩が背景に存在します。ヒトラーは生後五週間しかこの家にいなかったというのですが、この建物が、
「世界中のナチス共感者が集まり建物の前でヒトラー式敬礼をする場となっている...」というのです。
記事では、オーストリアの日刊紙『プレッセ(Presse)』掲載されたウォルフガング・ソボトカ(Wolfgang Sobotka)内相のコメント、

「いずれにせよ、今後アドルフ・ヒトラーとの関係はなくなる。そうでなければ、生家の神話が残ってしまうからだ...」

を紹介しています。

そしてもう一つ、
記事では、「地元住民はこのような形で注目されることに憤慨すると同時に、自分たちの町がゴシック様式の建築物や美しい川のある土地としてではなく、世界で最も忌み嫌われる政治家の一人が生まれた場所として有名になっていることに失望を隠せない...」とあるように、地域の人々が、いわれのない悪評を被らないため...

二つの理由は、それとしてみれば、もちろん、理由としてはもっともなのですが、同時に、歴史的事実、それも、ヒットラーとナチズムに熱狂してしまったという歴史的事実から目をそらさない、という意味からは、取り壊すべきではない、という意見が当然出てくるはずです。

実際、記事にもあるとおり、

「...建物の前には、『平和と自由、民主主義のために。ファシズムを二度と繰り返してはならない。数百万人の死者が警告する』という言葉が刻まれた石碑が立っている...」

というのです。いうまでもありませんが、悪夢の記憶を残す建物を解体してなくしてしまえば、問題は永遠に解決される、というわけではありません。そして、ヨーロッパ諸国はそのことをよく知っているし、場所がオーストリアともなれば、そのようなことは住民たちには言わずもがなのことなのです。
しかし、改めていま、それでもこうした問題が浮上してくるのは、移民問題で揺れるオーストリアでは、ネオナチ運動が危険なまでに高まってきているから...ネオナチに代表されるような、暴力的で不寛容な精神が恐るべき早さで蔓延してきているから...
深刻な政治的、経済的、社会的不安がヨーロッパ全体を覆っています。
 
かつて哲学者、フリードリッヒ・ニーチェは、「ニヒリズム」の到来を告知しながら、それを「最も不気味な客」と呼びました。
しかし、そうはいっても、その「ニヒリズム」の正体とは、いったいいかなるものか、と問うたとしても、実は簡単に言い当てることはできません。
ニーチェは膨大な量になる「遺稿」の中で繰り返し「ニヒリズム」の問題に言及し、思想家として格闘を続けています。不幸なことに、ニーチェの先駆的なこの格闘は、二つの世界大戦の後、死後半世紀以上が経過してから、初めて公にされました...

それがどうした...

と言う人がいるかもしれませんが、たとえばここで、ヨーロッパあるいはEU諸国を覆う不安を「移民問題」「テロリズム」「経済格差」「文化摩擦」...様々な言葉でくくることで理解しようとしても、ことはそれほど単純ではない、ということを忘れてはなりません。
たとえば、そもそもネオナチの問題でいえば、ネオナチが台頭してきているから、社会不安が生起してきているのか、社会不安が、ネオナチの台頭をもたらしてきているのか...いったいどちらなのでしょうか...
原因と結果の取り違えがあるのではないか...あるいは、そもそも、因果関係を用いて理解しようとすることがふさわしい事柄であるのかどうか...まずはそこから吟味されなければなりません。ものを考えるということは、そういうことなのです。

鋭く事象の論理的な連関を見抜き、原因を突き止めて「正しい」対策を指示する...
現代において求められているのは、そういうものです。しかし、私たち人間の生きる社会において、これまで、そのような目も覚めるような解決が提示され、実現されたことは果たしてあっただろうか...時折見られるほんのわずかな進歩と、幾度となく繰り広げられる巨大な愚行と悲劇の連鎖が、私たちの歴史の正体ではないのか...それならば、私たちの英知、私たちの進歩はいったいどこにあるのか...

一見クリアーな解釈を安易に提示することなく、晦渋な言葉を重ねていくニーチェの格闘は、まさにそのことが、ニーチェが本物の思想家であったことの証になっています。
切れ味よく、機知に富んでいて、ぐさりと心に響く...
そこがニーチェの本領ではありません。ニーチェは、自ら考え、また考えることを通じて、私たちに対して、自らの身をもって私たち自身で考えることを要求しています。奔放華麗な文体ゆえに、しばしば哲学者ではなく「詩人」であると評価される人ですが、論理的な思想体系のあるなしではなく、徹底的に、根本的に考え抜くことこそが哲学者の条件です。私たちの時代を覆う、この不安...それは何に由来するのか、その正体は、いかなるものなのか...それを簡単に言い当てるような単純な言葉がない場所で、ひたすら孤独に考え続ける...
ニーチェの取り組んだ「ニヒリズム」という課題は、まだまだ私たちの頭上にぶら下がったままです...


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