プロ家庭菜園家のやさい畑日記 ~相模原 清水農園~

相模原で野菜作りをしています。家族に食べさせたい、健康で生き生きした野菜作りを心掛けています☆

瞑想は世界でどんな受け入れられ方をしているのか?「マインドフル・ワーク」

2016年02月07日 | 最近読んだ本
「マインドフル・ワーク」 デイヴィッド・ゲレス著 岩下慶一訳 NHK出版


デイヴィッド・ゲレスさんはアメリカのファイナンシャルタイムズに勤務した後、ニューヨークタイムズの記者をしています。これは自ら20年間実践し続けてきた「マインドフルネス」について、多くの取材をし、一冊にまとめたものです。


「マインドフルネス」っていったいなんだ?と思うんですけど、これはアメリカで西洋人にも受け入れやすいように開発された、瞑想法です。宗教に関してはデリケートなところがあるのでしょうか、宗教色を極力そぎ落としていると言う風に書いてありました。
今日教えられているマインドフルネス瞑想では、何らかの信仰を持つ必要はまったくない。それは他の信念体系を補いはするが、それらとぶつかることはない。”  P16


本書ではまず、あの有名なスティーブ・ジョブズが熱心な瞑想の実践者だった話から始まります。そして、アメリカの多くの名だたる企業がこのマインドフルネスを取り入れて、職場のストレスを軽減し、業務の効率を良くしたり、営業成績を上げるのに役立てていると言うのです。
そして、最近行われた調査で、回答者の9.4%が日々の生活にマインドフルネスを取り入れて、ストレスを軽減しているそうなのです。(ゲレスさんはこれを瞑想の民主化と呼んでいる)

世界最高峰と呼ばれる研究大学の優秀な頭脳が、マインドフルネスについて研究しているのだ。スタンフォード大学、カリフォルニア大学ロサンゼルス校、マサチューセッツ大学といった大学が次々とセンターを立ち上げ、科学者や心理学者たちが長期間の瞑想実践者を研究していた。ついこのまえまでせいぜい似非科学の自己啓発程度にしか思われていなかった瞑想は、一気に学会の一般的な研究対象になったのだ。” P78

これはマインドフルネス(瞑想)が科学的に、ストレスを軽減し、集中力を高め、意識を安定させ、感情をコントロールする力を鍛えるのにうってつけであると、証明されてきたからでしょう。
さらにマインドフルネス(瞑想)には他の人々との結びつきがより強く感じられ、もっと思いやりのある人間になる。静かに座って瞑想することが、人を優しくするという副作用もあるようです。
表紙にある“全米が大注目するエクササイズ”という文句も、まんざら嘘でもなさそうな気がしてきます。

マインドフルネス認知療法(MBCT)が、不安症や鬱の薬物治療に代わる代替治療として注目されている。イギリスの心理学者ジョン・ティーズデールによって開発されたMBCTは、スタンダードなMBSR(瞑想によるストレス逓減法)の要素と、患者の特定の問題に対する認知のあり方を探り、それを改善することで鬱を治療する認知行動療法が結びつくことで生れた。この二つのアプローチを合わせることで、MBCTは人々を頭の中の思考から引き離す有効なテクニックとなった。

以前禅の僧侶:小池龍之介さんの書いた本を読んだ時も、瞑想と認知行動療法がとても近い関係にあることに気が付きましたが、欧米ではすでにこの二つが結びついて、実際に治療法として確立していることに驚きました。
ストレスや鬱鬱とした気分の原因である、自動思考を観察し、これをうまくコントロールできるようにする。僕もこの一カ月くらい瞑想を実践していますが、実感としてストレスが軽減していることを強く感じます。


ゲレスさんはマインドフルネスの有用性を語る一方で、物質主義、資本主義のなかで、マインドフルネスがたどろうとしている運命に懸念を示しています。
マインドフルネスが社会的に注目を集め、そのイメージに商品としての価値が出てきた為、企業の利益追求の道具に使われ始めているのです。これはマクマインドフル(マクドナルド・マインドフルの略。マインドフルネスをファーストフードのようにお手軽な商品として捉えた商業主義的な傾向を批判する用語)と呼ばれています。

今や、「マインドフルネス」と言うラベルを付ければありふれた商品やサービスにもスピリチュアルで高尚な雰囲気が漂い、マーケティングが有利になる。ウェイトウォッチャーズ(ダイエット専門の冷凍食品ブランド)はマインドフルな食生活というキャンペーンを行っている。150億ドルの食品サービス企業、ソデクソは「マインドフル」という健康サービスを立ち上げた。「マインドフルミント」というキャンディのメーカーは、それがストレスを軽減すると主張している。製品やサービスにマインドフルネスとつけるだけでファッショナブルな響きを持つ一方で、こうした企業は言葉の力そのものを弱めてしまっている。「マインドフルネス」は「オーガニック」と同じ運命をたどろうとしているのだ。”

僕も日本版のオーガニックである有機農業をしているので、この問題にはずっと悩まされていました。オーガニックや日本の有機農業はもともと、商業主義、物質主義に対するカウンターカルチャーとして生まれてきたにもかかわらず、その健康的でエコであると言うイメージに商品価値が付いたとたん、企業のお金儲けの道具として、そのイメージを消費されつくしてしまったのです。
オーガニックも有機農業も、昔からある「良きもの」を大事にしようと言う精神をもち、小規模で人と人との関わりを大事にする農を推進して句ことが本来の意義でした。その副産物として醸成される健康的で、エコで、トレーサブルであると言うイメージに商品価値が付いてしまったのが運のつきです。またたく間にイメージを消費されて、喰いつくされ、有機農業は企業として大規模化し、本来の意味は失われました。有機JASという制度まで作って、小規模な有機農家は、有機野菜を名乗ることもできなくなりました。本来型の「良きもの」を大事にしようとしている有機農家は駆逐されようとしています。
「うちの野菜は有機野菜なんですよ!」なんてうっかり言うと、
何にも知らない人から「有機JASのシールがないんですね・・・。」なんて残念がられたりして、なんとも笑えない状態です。
有機JASなんて金銭的な条件が厳しすぎて、小規模な有機農家なんてとても入れません。毎年、多額のJAS会員費を払わなければならないうえ、定期的に畑を調査しにくる、調査費、調査員の滞在費、調査員の旅費も全部農家が払わなければなりません。意味分かんないでしょ?
マインドフルネスもこんな末路をたどるのかと思うと、ちょっと哀しいですね。



マインドフル・ワーク 「瞑想の脳科学」があなたの働き方を変える
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NHK出版
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こだわり捨てて楽になる 「こだわらない練習「それどうでもいい」と言う過ごし方」

2016年02月01日 | 最近読んだ本


「こだわらない練習「それどうでもいい」と言う過ごし方」
小池龍之介著 小学館


著者の小池龍之介さんは鎌倉の月読寺などの住職をしている僧侶の方で、仏教や座禅を通じて、心を安らがせる方法を多くの人に広めています。

数多くの著書があり、禅の考え方を中心に、心の安定の方法を解いたり、時には世相を切ったりしています。今回の本は世相を切る系と言う感じでした。

「あとがき」にも書いてあるのですが、なにやら命にかかわる感染症にかかってしまい、死線をさまよったとか。そのためか、これまで呼んできた彼の著書よりもエッジが立っていると言うか、座禅を始める前のやんちゃだったころの彼が見え隠れするような、そんな文章もいくつか見受けられます。なかなか、楽しいです。

この本の帯文に“他人のルール違反が許せない人へ”と言う言葉がありました。
ちょうど最近観た映画に、この言葉にぴったり合った題材を取り扱っているものがあります。(ネタばれ入りますのでご注意)

「フレンチアルプスで起きたこと」と言うカンヌ国際映画祭である視点部門という作品賞と取った映画です。
ざっくりストーリーを説明すると、スウェーデン人の夫婦が小学生くらいの子ども二人を連れて、フランスのアルプスにあるスキーリゾートで5日間の休暇を過ごします。旦那さんは仕事人間で普段ほとんど休みも取らないため、たまには!と言うことで、思い切ったわけですね。

はじめのうちはキャッキャ、キャッキャ、スキーをしたり、おいしいもの食べたりして楽しく過ごしていました。
ある時、家族は昼食を、アルプスの美しく雪で覆われた山肌が間近に見られるホテルのテラス席のようなところで食べています。アルプスのスキー場では雪がたくさん積もりすぎて大きな雪崩が起こるといけないので、定期的に空砲のようなもので衝撃を与え、小さな雪崩を起こします。このテラス席では、その小さな雪崩の様子を見ながらランチが食べられると言う趣向になっているようなのです。
家族がランチを食べているときにも砲撃音がして、小さな雪崩が起こります。しかし、この雪崩、小さな雪崩にとどまらず、大きくなってテラス席の方に迫ってきます。
もう、ホテルをおおいつくさんばかりに雪崩が迫ってきますから、テラス席でランチを食べていた人たちは慌てふためくわけです。最初のうちは、まさかここまでは来ないよな、といった風に、ざわざわしてるんですけど、いよいよ目の前が真っ白になってくると、大パニックになります。この時、旦那(トマス)はパニックにまぎれて、奥さん(エバ)と子供を置いて一人で逃げてしまいます。エバは子どもたちをかばって踏ん張ります。

でも実はこれ、雪煙りが大きくなって降りかかっただけなので、全員無事でした。
慌てて逃げた人も、戻ってきて、何事もなかったかのようにご飯を食べ始めます。トマスも何食わぬ顔で戻ってきます。
トマスが家族を捨てて逃げてしまった事実をどう扱っていいのかわからなくなり、エバは混乱します。
このことがきっかけとなり、皮肉にも家族サービスの休暇の間、夫婦の関係が徐々に崩壊していく、というお話です。

映画では一見、トマスのほうに力点が置かれているように見えます。とにかく、色々派手にやらかしてくれるんです。最初は、ショック性の健忘症で、一人で逃げたことを完全に忘れてしまい、エバをイラつかせます。今度は一人で逃げた場面のスマホ動画が見つかり、「許してくれ!」と泣きわめきます。とにかくトマスはやらかしまくり、この旦那ひでぇな、みたいな展開が続くので、旦那中心に物語が展開しているように見えるんですけども、実はこのトマスは狂言回し的な役回りのように見えました。

物語の中心で、ズシーンと悩み苦しむのは、むしろエバの方です。
これは、どういうことでしょうか。

エバは人の行為を許すことができない人です。
エバはトマスが一人で逃げたことを、どうにかして理解しようと努力をしますが、それができずに苦しみ、ついには激しい喧嘩をしてしまいます。
エバはリゾートに一人でバカンスに来ていた夫人と仲良くなります。しかし、夫人がリゾートで知り合った男と不倫していることを知ります。夫人はバに対し、夫との間でお互いが不倫することに合意していると説明するのですが、エバはこれも許すことができず、喧嘩になってしまいます。
最後には帰りのバスの運転手の技術が未熟すぎる、と怒ってバスを降りてしまいます。(バスの運転がどの程度未熟かどうかはよくわからない。)

人の行為が許せないと言う出来事が三度も繰り返されるのですが、これはエバの地獄めぐりと言ってもいいでしょう。
なぜ、エバはこんなに苦しんでいるのかと言いますと、人を許すことができないと言うことは、自分も許すことができないからです。

身近にもいると思うんですけど、常に人の行動にイライラしていたり、怒っていたり、あるいは対抗心を燃やしている人、いますよね?周りにいる人間は、当然疲れるんですけど、一番つらいのは、実は本人ですよ。他人を許せないばかりに、常に心を怒りで燃えたぎらせて、安らぐ時間もないんですから。

この苦しみから解放される方法は一つしかありません。こだわりを捨てて、人を許すことです。もう、思い切って許すしかありません。
あるいは放っておくとかですね。ベッキ―のことは放っておいたらいいのに・・・。


こういう状況に陥ってしまったとき、この「こだわらない練習「それどうでもいい」と言う過ごし方」を読んでみると、ホロっと心が楽になるかもしれません。






こだわらない練習: 「それ、どうでもいい」という過ごしかた
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小学館
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脳の錯覚を知ると生活の効率が良くなるかも「脳はどこまでコントロールできるのか?」

2016年01月31日 | 最近読んだ本


「脳はどこまでコントロールできるのか?」 中野信子著 ベスト新書



中野信子さんは脳科学者、医学博士。現在、脳や心理学をテーマに研究や執筆の活動を積極的に行っています。

本な内容を簡単に言うと、最先端の脳科学をテーマにした、生活のヒント手帳です。
暮らしのヒント手帳というのは「いつも食べているお味噌を替えてみましょう。
お味噌汁の味がいつもと変わって、みんなが喜ぶかもしれません。」と言うようなことがヒント集としてまとまっている本です。ちょっとした気の持ちようとか、見る角度を変えることで、いつもの生活が少し楽しくなるよと言うヒントがたくさん載っています。

「脳はどこまでコントロールできるのか?」では脳が日常的に遭遇してしまう錯覚を理解し、自分の脳が錯覚していることに気が付くことによって、いつもの生活がより豊かに、時には危機に遭遇した時も、錯覚の仕組みを知っていれば回避できるよ、と言う内容になっています。

章別のタイトルに「成功者は妄想する」とか「成功する人は脳に騙されない」とか「成功する人が使っている心理効果」と言う文句が並んでいるんですけど、本の内容と比べるとちょっと大げさな気がしました。たぶん、これ編集の人が考えたんじゃないですかね。こういうタイトルをつけると、本が売れるんじゃないか、と言うふうに。
しかし、なんでも成功しよう!成功しなきゃだめ!成功するべき!みたいな考え方って、いくらなんでも前時代的すぎてかっこ悪い感じがしました。みんなが単純な意味の成功者になりたいわけじゃない、と言う時代になっていますからね。

脳の錯覚についてひとつ例を上げます。
電車や新幹線に乗っているときに何らかの事故で緊急のアナウンスや警報があっても、人々はすぐには避難を始めない事が時々問題になります。これはつい周りを見てしまい「みんなが普通にしている」とか「一人だけ慌てたらかっこ悪い」などと考えて、すぐに行動に移れないためです。
これは「同調性バイアス」と呼ばれる心理的な圧力です。元東京女子大学名誉教授の広瀬弘忠氏によると、こういった同調性バイアス、認知バイアスが強くかかってしまうため、日本では避難警報が出ても、避難率はゼロから数パーセントになってしまうのだそうです。

もうひとつ例を上げます。
ものすごい値段の高いワインを買って、飲んでみると、これがあまりおいしくない。
こんな時、頭の中ではこんな二つの思い(認知)がせめぎ合います。

A 「高いお金を出して買ったワインなのだから、良いものに違いない」
B 「しかし、どうにも、おいしくない」

こういうせめぎ合いを「認知不協和」と言います。
脳はこの不協和状態を好みませんから、不協和を解消しようとします。
この例の場合だと「いや、おいしくないのは自分のワインに対する味覚が発達していないからだ。このワインはうまいんだ」と、自分を納得させるんじゃないでしょうか。

この他にも「ゲシュタルト知覚」「クラスター錯覚」「ヒューリスティック」「リスキーシフト」「バンドワゴン効果」「アンダードッグ効果」「スノッブ効果」「サンクコスト錯覚」「ハロー効果」などなど、脳が日常的に直面してしまう錯覚が沢山あり、世界は罠だらけなんだな、と改めて認識しました。

こういった知識を頭に入れておくと役に立つと言うのは、実際に錯覚が起った時に、それを認識して言語化できることだと思います。言語化することによってその錯覚現象を観察したり、回避することができます。
最初の例のように、新幹線の中で警報が鳴った時、周りが避難を始めなくても「今、僕の脳には、同調性バイアスがかかっていて、避難することに抵抗を感じているんだ。でも、今は避難を始めるべきだ」という考え方もできるようになるわけです。

読んで損のない本です。




脳はどこまでコントロールできるか? (ベスト新書)
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人間を支配する物質ドーパミンとは?「脳内麻薬」

2016年01月28日 | 最近読んだ本



「脳内麻薬」 中野信子著 幻冬舎新書

中野信子さんは脳科学者、医学博士。現在、脳や心理学をテーマに研究や執筆の活動を積極的に行っています。

この本では主に「ドーパミン」と呼ばれている、脳の中で分泌される物質について書かれています。ドーパミンは「快楽物質」と呼ばれていて、脳の中でこのドーパミンが分泌されているとき、快楽を感じます。

それも、特殊な場合ではなくて、天気の良い時に散歩して気分が良くなっているときとか、他人にほめられたときとか、やる気が出ているとき、恋愛しているとき、何かに好奇心を持っているとき、ゲームして興奮したり、映画観て感動したり、新しいものを買ったり、おいしいものを食べたり、お酒飲んだり、セックスしたり、とにかく楽しい気分や気持ちよさの元は全部ドーパミンが関わっているようなのです。

僕の行動は、楽しいことや気持ちいいことのために行っていることがほとんど、というかほぼ全部なので、僕の人生のほとんどはこのドーパミンに支配されていると言うことになっちゃいますね。複雑な気分です。

極端な話だと、ヘロインやコカインなど強力な麻薬も、麻薬それ自体が快楽をもたらすのではなくて、このドーパミンの分泌を促したり、ドーパミンの減少を抑制したりするだけのものらしいのです。ということは、散歩して気分が良くなるもの、薬物をキメて陶酔するのも、同じ物質が作用しているってことですね。

ドーパミンが過剰になると、アルコールやたばこ、薬物の依存症、過食、ギャンブル中毒、になってしまいます。逆に不足すると意欲や興味、好奇心が減衰して、うつ病になってしまいます。
このドーパミンが仕組みで働く者なのかを知って、コントロールできるようになろう、と言うのがこの本の趣旨です。

本の内容の半分以上は薬物依存とその他の過食、セックス、恋愛、ゲーム、ギャンブル依存などの、人が何らかの依存症になっていく仕組みについて書いてあります。
結局、全部ドーパミンが関わっています。薬物に依存するのも、ギャンブル、ネトゲ中毒になって廃人になるのも、ドーパミンが過剰になってしまっているせいです。ネトゲなどは賭博でも、薬物でもないので、全く規制されていませんが、原理的には薬物中毒と同じことって言うのが怖い~。
ドーパミンについてとても詳しく書かれていて、知っていれば役に立つことは多いと思います。お勧めの本です。



話は変わってしまいますが、薬物中毒について書いてある項は、なんとなく中島らもの「アマニタ・パンセリナ」を彷彿とさせました。

ドラッグに目がない!?中島らもさんがドラックについて語りつくしているエッセイです。幻覚サボテンを喰って、一時的に目が開かなくなった話とか、一番印象的だったのは、コデイン中毒の話ですかね。

コデインと言うのは麻薬物質で、咳止めシロップに入っていました(今も入っているのかな?)。昔、このコデインの入ったシロップを、用方・用量を守らずがぶ飲みしてコデイン中毒になる人が稀にいたのですが、この中島らもさんもコデイン中毒でした。ある日、コデイン中毒であることがロックミュージシャンの忌野清志郎さんにバレてしまい、鼻で笑われるって言う・・・。

一日に何本も咳止めシロップ飲んでたと言うことでしたが、そんなに飲んで不安にならないのかなぁ。普通の人なら不安になって飲むのやめるから、ドーパミンによる中毒の力は強力なんですね。

同じ中島らもさんの本で「今夜すべてのバーで」と言うのがあります。
10年以上前に読んだので、うろ覚え何ですが、たしか、17年間ウイスキーのボトルを一本、毎日飲み続けたアル中の主人公小島容(いるる)が末期的な状態になりつつも、病院で治療生活に入り、退院するまでの話です。
ウイスキー毎日一本と言うのは、うろ覚えなんで、正確じゃないかもしれないんですが、当たらずとも遠からずだと思います。
そんなに飲んでるの!って言う驚きより、そんなに飲んで、17年間も生きていられるものなのか!と言う驚きの方が大きかったです。

この話自体、中島らもさんの自伝とまでは行かなくても、かなりの部分実体験が入っているのでしょう。アル中の描写とか、治療の様子がものすごくリアルで、体験している人じゃなきゃこれは書けないな、って感じなんです。
本物のアル中の世界ってすごいな!と驚愕したのを覚えています。
なんだか、またあの不思議な世界観に触れたくて、読み返してみたくなりました。。。




脳内麻薬 人間を支配する快楽物質ドーパミンの正体 (幻冬舎新書)
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幻冬舎
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気軽に瞑想して気分すっきり!「楽しもう。瞑想」

2016年01月25日 | 最近読んだ本



「楽しもう。瞑想」 宝彩有菜著 光文社知恵の森文庫



「楽しもう。瞑想」は2011年初版発行。
前作の「始めよう。瞑想」が2007年発行なんで、4年間を経てからの、同じテーマを扱った本ということですね。
前作が宝彩流瞑想の概論とするなら、今度は実践編というところでしょうか。より深い瞑想に入って、瞑想の醍醐味を味わうための方法を、かなり細かく示しています。


“瞑想というと、山に籠って苦行をしなければならないものだと思ったり、専門的に何年も修業しなければならない神秘的なものだと思っている方も多いかと思いますが、そうではないのです。
瞑想は、苦行することはありませんし、何かを我慢することでもありません。誰にでも簡単にできて、しかも、やってみるとすぐにわかりますが、とても楽しいものです。


宝彩さんが本の中で繰り返し伝えてることは、瞑想は一部の修行僧のする苦行とかそういうものではなくて、誰でも気軽にできるポップなものなんだと言うことでしょうか。たとえば、ヨガをやりに行くとか、足つぼマッサージを受けるとか、瞑想をそう言った気軽にできるエクササイズのようなものだと、とらえてもらいたいようです。

瞑想というと座禅をイメージします。
禅宗の座禅の勉強をしていると、なかなか厳しいな、と感じることが多いんですよ。
たとえば、禅を深めるために、お酒など中毒性のあるものは摂らないとか、音楽を聴かない、嘘をつかない、批判したりケチをつけない、ネガティブなうわさ話をしない、無駄話を他人に押し付けない等など、みたいな戒めを自分に対して持ちます。
いきなり全部守らなくてもよくて、自分にできそうなところから少しずつこなしていくことになるのですが、それでも、こういった戒めを守れるようにならないと、瞑想って上達しないんだ・・・って、くじけそうになります。

そこへ行くと、宝彩さんの瞑想方法は瞑想することに特化していて、思想とか戒めのようなものは入ってきません。瞑想は心のしこりやこわばりと取り除くための、万人向けのエクササイズなんだな、ということが本を読んでいるとわかります。
純粋に「瞑想」って言うスポーツを楽しむって言えば伝わりやすいでしょうか。

それに、まず瞑想することの楽しさを体感することが、瞑想を続けていくうえで一番重要だと思います。あんまり、厳しくし過ぎると何だって続かないじゃないですか。
禅の考え方や世界のとらえ方って言うのは、とても素晴らしくて、ぜひ自分の生活にも取り入れていきたいのですが、それは楽しさを十分知ったのち、徐々にという形にしたいです。
瞑想というものに興味があって、やってみたいなって思っている人にはお勧めの本です。



楽しもう。瞑想:心に青空が広がる (光文社知恵の森文庫)
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光文社
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「平常心のレッスン」を読んでみたYO☆

2016年01月22日 | 最近読んだ本

「平常心のレッスン」 小池龍之介著 朝日新書



人の脳の構造上、「平常心」を保っているのって難しいそうで。
脳は何かって言うと、心配事や、他人への恨みつらみを探し出しては、それをこねくり回すのが気持ち良いと感じる性分なんだそうです。
脳は気持ちがいいかもしれないけど、僕たちの心の方は、その性分によって日々苦しめられているわけです。
心を苦しめる脳を静かにさせる、実践的な方法って言うのを教えてくれる、そんな本になっています。

人は自分が執着していることについて、人から褒められたり、けなされたりすると、それを捨てておくことができないのです。裏返して申せば、自分が執着していないことであれば、「人の評価」はさほどきになりません。”  P18

大人になると自分の職業とか得意なこととかに、自分の存在価値をついつい重ね合わせてしまいますが、これがそもそも心を波立たせる原因になっていると言うことです。
僕なんかは農家なので自分の栽培した野菜に対してはそれなりに自信があります。当然のように自分では野菜作りがうまいなんて思っているんですけど、これが、もし「この野菜まずいね~」なんて言われたら、ムキ―っ!ですよ。怒らないまでも、かなり落ち込むでしょうね。
逆に野菜をほめられると、有頂天になってもっと褒めてもっと褒めてと欲が出てきてしまう。前にほめられた程度の褒められ方では物足りなくなり、もっともっと欲しくなる。褒められたら褒められた分だけ執着心も強くなり、逆にけなされた時の怒りや落ち込みも強くなる。表裏一体という関係になっています。
この欲にしても怒りにしても、心を波立たせて平常心を奪っていることに変わりはなく、平穏に暮らしていくためには、要注意しておくべき感情と言えるでしょう。

これは、大人になって自分の職業や得意なことにプライド(執着心)を持つことが「良きこと」だと言われ続けてきたこともあるんでしょうか、プライドを持つことが当たり前で、正しいことと言う先入観があるんです。
ところが、このプライドを持つと言うこと自体が罠で、このプライドのために心がアホみたいに乱れてしまいます。
自分の職業にプライドを持たない。結構、難しいことだけど、何か目からうろこと言う感じがしましたね。


現代は気持ちいいことはよいことだ、といった快楽肯定の時代ですから、ドーパミンの罠にはまって、かえって苦しんでいる人は大勢いると思います。”  P106

酒、たばこ、に始まってお笑い番組や映画、音楽といった快楽。小池さんはこれらを完全に否定しているのではないのですが、快楽には罠があると言うことに無自覚のままではいけないと言っています。
快楽は強い刺激をともないますので、無自覚のまま快楽を求めると、結局、快楽ばかりを追う人生になってしまいます。
アレン・カーさんと言う人が書いた「禁煙セラピー」という本には“たばこを吸う人は全ての時間が一服一服の「間の出来事」であり、なにごとも本当には味わえないし、楽しめない”ということです。
これはたばこだけの話ではなくて、僕なんか食いしん坊なので、昼ごはんを食べるか食べ終わらないかの時点で、夕ご飯は何を食べようかと考え始めますからね。つまり、全ての時間がご飯とご飯の「間の出来事」で、何事も本当には「味わえていない」のかもしれません。でも、その「間の出来事」も大切な人生の時間だし、じっくり味わい尽くしたいですからね。それには、多少努力が必要なのでしょう。


座禅瞑想するときは、「呼吸」に意識を集中します。なぜ「呼吸」かと言いますと、「無意識に行っていると言うことがポイントです。” P135

禅僧の座禅瞑想は、今この瞬間、過去でも未来でもなく、まさにこの瞬間を感じ取ることに意識を集中します。無心に「いま」の行為に意識を密着させることで、安らぎや幸福感に関わる神経伝達物質の分泌量の高まった状態が自然に訪れるそうです。
確かに、言われてみると、今この瞬間を感じ取るって結構難しいと言いますか。
ほとんどの時間を過去や未来の出来事を考えることに使っていると気が付きます。
未来のことを考えたりの過去のことを考えたりしていると、なんだかそわそわして落ち着かなくなってきます。結局は今を十分に「味わえていない」し「楽しめない」のでしょう。
だから、禅僧は今を感じ取るために座禅の修業をしているわけですね。

この訓練には、畑の土を鍬で耕すと言った単純農作業なども向いています。” P144

畑作業をしながら、禅の心に触れると言うのも、良いことですね。
やはり、農は禅と相性がいいのかもしれません。






平常心のレッスン (朝日新書)
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瞑想とは宗教的なものではなく心の科学 「始めよう瞑想」

2016年01月18日 | 最近読んだ本

「始めよう瞑想」 宝彩有菜著 光文社


小池竜之介さんの著書「自分を浄化する座禅入門」を読んで、座禅瞑想というものに関心を持っています。
瞑想の方法を勉強するのに、一人のやり方を参考にするよりも、複数の人のやり方を参考にする方が、理解が深まりやすいのかな、と思いまして、この宝彩有菜さんの本を読んでみました。
小池さんは僧侶と言うこともあって、禅宗の方法論から瞑想にアプローチしているのに対し、宝彩さんは一般人として、瞑想の方法を勉強し、瞑想家という立場でアプローチしています。
立場が違う、瞑想の方法を学ぶ環境も違った二人ですが、瞑想に対して共通した認識をいくつも持っていて、二人の本を読むことで瞑想に対する理解がとても深まりました。

瞑想がどう言ったものか大ざっぱに説明すると、まず、瞑想状態という強く集中した精神状態をつくり、普段は気がつかない心のしこりや歪みを観察し、それを改善して行こうと言う、行ってみれば心のストレッチ体操のようなものです。
その第一歩として、思考や感情から意識を区別するという作業をやります。
僕はずっと、思考や感情は意識の中にあるもので、消して切り離せないと思っていたのですが、小池さんも宝彩さんもまず、意識にべったりとくっついている思考と感情を区別し、これを観察したり、放っておくように言っています。
こうして、思考と感情が意識になるべく入り込まない状態になると、意識は瞑想状態に入っていくという事のようです。

思考がなくなってしーんと静かな意識の状態になることを宝彩さんは「境地瞑想」とよんでいます。禅では「禅定」と呼ぶ状態でしょうか。とにかく、宝彩さんも、小池さんも瞑想の状態には境地瞑想や禅定と呼ばれる段階に至ることを目的としており、この状態になると小さい頃に体験したようなとても古い記憶も、そのときに感じていた感触やにおいまでいきいきと思い出されるようになるそうです。こうした過去の記憶をいきいきと感じ取ることによって、心が穏やかにゆったりとしてくる。場合によっては過去のつらい経験によってできた心の歪みのようなものを見つけ、それを正すことも出来るようになるのだそうです。

実は小池さんの本を読んだ時点ではちょっと半信半疑だったのですが、宝彩さんの本でも同じ事が書いてあったので、これは本当なんじゃないか!って思えてきました。全く無関係な二人が同じことを言っているんだから、、、、興味深くないですか?

実際にこの一週間くらい、独学で学んだ座禅瞑想を実践しているのですが、結構気分がシャキッとして、効果を実感しています。
まだ、さすがに過去の記憶などには出会えていませんが、今後も続けていく中で、どういう体験が出来るか楽しみであります。





始めよう。瞑想:15分でできるココロとアタマのストレッチ (光文社知恵の森文庫)
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光文社
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な・・・ッ、なんだってーッ!「偽善入門」

2016年01月16日 | 最近読んだ本

な・・・ッ、なんだってーッ!と言うのはこの本にたびたび登場するフレーズです。これまで、小池竜之介さんの本を何冊か読んできて、このような砕けたフレーズが出てこなかったことから、今までの本とはどうも趣が違うようだと感じました。
読んでみるとその通りで、話の内容も、文章もエッジが立っていると言いますか、もっと言うととても荒削りな感じです。著者の新しい一面が見られたと言うところでしょうか。

今回は偽善がテーマです。
一応意味ですが、「善良であることを偽ることをいう。外面的には良い行為に見えても、それが本心や良心ではなかったり、虚栄心や利己心などから行われる事を指している。」

直感的に「この人の言っていること、なんか偽善だな」と感じ取って、イラッときてしまうことって結構あります。「良きこと」を言っているけど、なんか本心ではないなって感じると、「なにいってんだか・・・」と、つい思ってしまう。偽善って言うものがすごく悪いものだというイメージが頭からあるものですから、ついイラッとしてしまいます。
しかし、小池さんはこう言った風潮が日本中に蔓延しているとし、このことに警鐘を鳴らしています。偽善であっても、それは善が少しでも入っている以上、善なのであると。

この小池さんも青年の頃、座禅の修行を始める前までは、偽善というものを蛇蝎のごとく嫌っていたそうです。
当時結婚していた小池さんは、偽善を憎むあまり、通常では考えられないような、ある理不尽な理由で、奥さんにたいして暴力をふるってしまったのだそうです。本当にすごく理不尽な理由です。
まさしく、アンチ偽善の権化だったと言うエピソード。

小池さんはこう言った苦痛に満ちた体験を通過し、偽善に対していたずらに腹を立てると言うことが、いかに不毛かと考えるようになったのだと思います。
小池さんは本の中で偽善にも偽と善が両方含まれていて、それには比率があり、“一口に偽善と申しましても、「その中に含まれる純粋な善の心の割合と、汚れた欲望と欺瞞の心の比率はさまざまだ」ということ、そして「その違いに応じて別々なものとして扱う必要がある」と考えてみれば、見え方もずいぶん変わってくるはずです”と言っています。
さらに、“私たちの心が不完全である以上、どんなにがんばりましても最初のうちは偽善にしかなり得ないでしょう。そうであっても、それをわかった上であえて偽善の中に必ず数パーセント含まれる善が自らの心に染み付き、作用することによりまして、自らの心が良い方向へと組み変わっていく効果があるのです”としています。

人間は底の底では自己中心的でしかありえない、自分ではどうしようもなく変えられない「自己愛」を持ち、その自己愛によって行動する。人がみなナルシスト(自己愛者)であるという荒涼たる真実を前提とするなら、人がする他者への行動の99.9パーセントは偽善と言うことになります。
でも、この偽善の中にわずかに含まれる善を集中力を持って注意深く観察し続けるなら、やがて嘘みたいな、奇跡のような人間の良い面が現れてくる。そして、これは特別なことでもなんでもなく、僕たちの日々の生活の中にある。
・・・とこういうことでしょうか。

偽善と上手く付き合えるようになると、人生もだいぶ楽になるかもしれません。




偽善入門 (小学館文庫)
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日常の心のケアに読んでおきたい一冊「「自分」を浄化する座禅入門」

2016年01月12日 | 最近読んだ本



「自分」を浄化する座禅入門

著者の小池龍之介さんは鎌倉の月読寺などの住職をしている僧侶の方で、仏教や座禅を通じて、心の安らぎを得る方法を多くの人に広めています。
今まで小池龍之介さんの本を「苦しまない練習」や「考えない練習」など何冊か読んできまして、いろいろと興味深く勉強になりました。全ての著書に通じているのは、仏教の観点から煩悩(人の心に常にうごめく欲望)を見出し、仏教的メソッドに従って、煩悩を鎮めていこうと言う点でしょうか。
上記の著書の中では「煩悩を鎮めるには座禅瞑想のお稽古が一番なのですけどね・・」とはほのめかしつつも、具体的な座禅の方法などは触れられていませんでした。
そこで、具体的な座禅の方法が書いてある本はないかな、とこの本を探し出したと言う訳です。
今まで一般人には謎だった、そもそも禅って何なんだ?禅を深めるってどういう意味なんだ?と言う疑問も、この本を読んで解決です。


仏道とは本来、宗教でも儀式でもなく、お稽古して歩むべき「道」でした。あたかも茶道や弓道のお稽古をするかのごとく、心のお稽古をすることといたしましょう。”  P3

僕自身のスタンスとしては、宗教に入るのは敷居が高すぎるので、気軽にできるリラクゼーション的な意味合いの座禅瞑想って言うものはないかなって探していたんですよ。本全体を読んだ感想ですが、我が意を得たり、と言う感じでした。別段、宗教を啓蒙するようなことは書いておらず、本当にシステマティックな座禅瞑想の方法が書かれています。

たまに、座禅をしている人の写真とか映像を見るたびに、座禅をしている人の内面では何が起こっているんだろうか?と、いつも疑問を持っていたのですが、この本を読んで氷解しました。


“そもそも禅とは元々、禅那(ジャーナ)を略したもので、瞑想の境地を指すものでした。ですから古い時代では、単に瞑想のことを禅と呼んでいたものです。”  P215

瞑想を深めるのに必要なのが、集中力と観察力、それと平常心。それらがシステマティックに成長するにはどうすれば合理的か、どうすれば手っ取り早いのか。ブッダがそれを探求した結果が、この本のトレーニング法になっていると言うことです。
ステップを踏んで、簡単なところから瞑想へ入っていく過程が細かく示してあるので、禅瞑想の経験・知識が全くない人でも理解できると思います。



「自分」を浄化する坐禅入門 (PHP文庫)
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心を苦しませないためには日々の準備が大事「苦しまない練習」

2016年01月07日 | 最近読んだ本



「苦しまない練習」

小池龍之介さんの本を読むのは3冊目です。
興味深い、生きていくための良い智恵をもらえるようで、つい続けて読んでしまいました。


いわゆる自己啓発と言われるものや、世の中で一般的に良いと言われているものは、現実を認識することではなく、おおむね夢物語を描くことではないでしょうか。立派な自分になるイメージを思い描きましょうとか、自分は素敵なのだと言うイメージを思い描きましょうと言うのは、今の現実から目をそむけ、未来の茫漠としたイメージに心を迷わせましょうと言っているようなものです。
つまり、この瞬間が充足しなくなるようなことを勧めているとも申せるでしょう
。” P204

現実でない、未来のことを考えることで、今この瞬間はうつろになり、心が枯渇してしまう。過去や未来でなく、今この瞬間やっていることに集中することで、心が満たされ、充足考えられる。これが基本的な座禅瞑想の原理と言うことです。

将来の夢とか大げさな話ではなくても、身近なところで「この瞬間が充足しなくなるようなこと」をしてしまっていますよ、僕は。
昼ごはんを食べ終わるかどうかってところから、晩飯は何食べようかと夢想し始めたり、何かの作業中は、この作業が終わったら少し休憩を取ろうかなと考えていたり。そんな時、「今この瞬間」のことは完全無視を決め込んでます。
このことはずっと良くない事をしているな、っていう意識は持っていました。結局未来のことを考えることで、焦りが常に心にできてしまう感覚を持っていて、どうもそれが払拭できないでいたんです。
しかし、この本にこのことが明文化されていて、解決方法もはっきり書いてあったわけですから、ちょっと感動しました。座禅瞑想と言う物に、ますます興味が出てきました。
毎日毎日、大切に生きるためには、この瞬間に集中するトレーニングは必要なのかなと。。。


人々はこざかしくも損得勘定のそろばんをはじいてばかりで、君を食い物にしようとしている。ゆえに真の友が見つからないときは、いっそのことただ一人歩むのが潔い。”P30

ブッダの言葉を著者が理解しやすく訳したと言う感じなのですが。
この本の初めの方に出てくる話です。のっけから厳しいことを言いますね。

小池龍之介さんの本に繰り返し出てくる話ですが、他人が親切にしてくれている場合でも、そこには必ずその人にとって得になることがあるから親切をしているにすぎない。
ちょっとドライすぎる考え方かもしれないけど、まあ、残念ながら事実でしょうね・・・。お金が絡むことなら、まだわかりやすいのですけど、精神的な搾取って言うのも身近によくあることで、表面的には親切心が出ているだけに厄介ですね。

人の悩み相談に乗っているときでも、つい自分の優越感に浸って気持ち良くなっていたり、かえって自分の言いたいことだけ言って、余計落ち込ませてしまったり。それって、ただでさえ弱っている人の元気を吸い取っていると言うことになりますからね。
親切な振り、と言うか当人も親切をしていると本気で思っているんですけど、実は心の奥底で、人の元気を吸い取りたいと言う欲が知らぬうちに働いている。
人間は常に打算的で、意識しているのか無意識なのかにかかわらず、自分にとって損か得かで動いてしまう。ボランティア活動や自然保護活動など慈善的な行動も、結局は「そういうことをしている自分が好き」とか「自分の精神的な価値が高まる」とか、一番底には自己愛しかない。それが間違っているとか間違ってないとかではなく、人間の性質がそうなのだから、と言う事実。

色々突き詰めていくと、「ただ一人歩む」と言うことになってしまうんでしょうか!?
まあ、いろいろ言いたいことが出てくるでしょうが、詳しいことは本を読んでいただくとして。


業(カルマ)とは、「心の中に蓄えられて次の感情を作りだすエネルギー」程度に理解知ればいいでしょう。業は過去からずっと原因と結果の連鎖を織りなしつつ、新たな感情を生み出しています。” P141
“業とは心のエネルギーですから、何か思うことによって、自分の心に植え付けられたエネルギーの余波がたとえば10分後、1時間後、1週間後、1年後に、必ずらそれにふさわしい喜びや悲しみの感情を反復します。
”  P142

この業(カルマ)と言うのが、認知行動療法の「信念」と言う概念にとても近いことに驚きました。以前の記事にも小池さんの言う「思考病」が、認知行動療法の「自動思考」の考え方に似ていると言うことを書いたのですが(こちらです)、やはり仏教の教えと、認知行動療法にはどこか共通点が感じられます。
「業」も「信念」も、過去の経験からその人がおこした行動、思考、などが積み重なって心に蓄積されて行き、その人の性格や思考パターンをかたち作っていきます。
悪い業(信念)の蓄積により、人は悪い考えに支配され、心を乱して良くない方向へ進んでいきます。ですので、良い業(信念)を修業(トレーニング)で積み重ねて、人の心に良い考えが浮かんでくるようにする、と言う点で仏教も認知行動療法も同じことを言っています。
人の心を良い方へ治していくと言うのは、仏教や医学を超えて、共通するものがあるようですね。



苦しまない練習 (小学館文庫)
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考えること自体が苦痛ならこれは必要「考えない練習」

2016年01月03日 | 最近読んだ本




「考えない練習」

このごろ、小池龍之介さんの本をよく読んでいます。
ベストセラーになるだけあって、とても興味を引きます。ワールドに引き込まれると言うか。
この本を読んで、自分のなかで、いろんな「気付き」に巡り合えたことも、嬉しく思います。


心はひたすら「より強い刺激を求めて暴走する」と言う特徴を持っていると言うことです。淡くて穏やかな幸福感よりもネガティブな考えごとの方がはるかに強い刺激の電気ショックを脳に与えてくれますから、なかなかストップできません。” P6

脳はそれが本人にとって良い影響なのか、悪い影響なのかにかかわらず、より強い刺激を求めてしまう。心の中で、誰かのことを批判していたり、過去の嫌な思い出を巡らせては腹を立てたり、そういった考えが頭の中をグルグルと回ってはなれないと言うのは、脳が刺激を求めているからなんだと気が付きました。ハッとするとついやってしまっていて、無駄に機嫌が悪くなっていることってありますからね。
それが、脳の刺激を求める習性によるものだったと言われると、脳って厄介なものだなって思いますね。


考えるせいで、人の集中力が低下したり、イライラしたり、迷ったりしているのではないかと思っています。いわば「思考病」とでも申せましょうか。” P18

以前、認知行動療法と言う臨床心理学の一部を勉強したことがありますが、この本で言われる思考病というのは認知行動療法で言う「自動思考」に近いのではないでしょうか。

この自動思考と言うのは、僕たちの頭の中に絶えず浮かんでくる断片的な考えやイメージです。たとえば嫌いなタレントがテレビに映っているのを見たとして、「うわ!こいつ嫌いなんだよ。チャンネル変えろよ」とか、車の運転中に自分の前で赤信号になってしまったとき「今日はあんまりついてないなぁ」とか、そう言う勝手に浮かんでくる考えです。
そして大事なのは、人間がよい気分になったり悪い気分になったりするのは、その時の状況がそうさせるのではなく、その時の状況を受けてどのような思考が浮かんだかによって左右されていると言うことです。ようは気分が良くなるのも、悪くなるのも自動思考次第。
しかし、自動思考はその名の通り自動的に浮かんできてしまう物なのでコントロールが難しいのです。

認知行動療法は普段のトレーニングによって、この自動思考を認識し、嫌な気分のもとになる自動思考を変える技術を磨いたり、さらに自動思考の奥に潜んでいる根本のものを改善しようとします。

仏教や座禅瞑想は、瞑想などの修行によって、思考と言うものに働きかけ、やはり心の状態を改善していくもののようです。
アプローチの仕方は違いますが、なにか同じ方向性思っているようにも思います。興味深いです。


感覚に能動的になることで心は充足する”  P34
「聞こている」を「聞く」に変え、「見えている」を「見る」に変えるように五感を研ぎ澄ます練習をしていきますと、一見つまらなそうに見えるものにも充実を感じてきます。現実がつまらないからと言って、脳をバリバリ刺激するような娯楽に逃避しなくても、いつもの日常を繊細な味わいを持って楽しめるようになるのです。” P37

子どもの頃は、どんなことも新鮮に感じて毎日が楽しいのですが、大人になり年を取るにつれて、楽しむ能力っていうんでしょうか、それが確実になくなっていくじゃないですか。
でも、子どもの頃の新鮮な楽しい感覚っていうのはよく覚えていて、もう一度その感覚が欲しいものだから、色々 馬鹿なことしちゃうって言う。
座禅や瞑想をすることが、そう言った感覚を取り戻す旅のようなものだとしたら、これはやってみる価値のあるものなのかもしれません。


野菜は、無農薬野菜や化学肥料を使っていないもののほうが体に良いことに加えて、薄めの味付けでも十分に食材の味が引き出されます。
農薬を使って大量に安く売っているような野菜は、虫の殺生をしながら環境破壊に加担するという側面もありますから、あまりお勧めできません
。”  P154

・・・ここですよ。ここ。
この本で一番注目すべきところはここです。
全くほんとにその通りです。さすが和尚さん。わかっていらっしゃる。
この人の大ファンになっちゃいそうです。
当方、無農薬・無化学肥料で野菜を育てております。経済効率が悪くて、なかなか厳しいですが、頑張っております。

冗談はさておき、僕のような自然農の人間には禅の考え方とか、生活感は相性がいいのかもしれませんね。そもそも仏僧のような生活をすでにしてますからね・・・。


私はいわゆる日本仏教ではなく、原始仏教系の瞑想をしていますが、日本に伝わっている禅宗系の瞑想は中国で老子思想と混ざり、実質的には道教の影響を強く受けたものです。
そうして変質する前の原始仏教の座禅瞑想は極めて科学的かシステマティックなものだったんですけど
”   p251

科学的かシステマティックということは、思想や宗教を省いたより純粋な座禅瞑想と言うことなんでしょうか。僕みたいに仏教徒ではないけど、座禅瞑想に興味が出てきたという人間には興味深い話です。座禅瞑想をするにしても、宗教観とか思想に染まらずにやってみたいと思うので・・。









考えない練習 (小学館文庫)
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自分の煩悩を見つめてみる「しない生活 煩悩を鎮める108のお稽古」

2015年12月31日 | 最近読んだ本



「しない生活 煩悩を鎮める108のお稽古」

たまたま手にとって見たら、とても面白い本でした。
自分の中にあって、普段は意識しない煩悩と言うものを発見できます。
ただ、「煩悩を鎮める108のお稽古」とあるんですが、お稽古ではないですね。。。
とく煩悩を鎮めるための具体的な訓練方法が書いてあるわけではないので、これを読んだからただちに煩悩が静まるわけではないです。
煩悩と向き合う心構えができるかな、という感じです。



釈迦はこうして、この人生というゲームが絶対クリアできない、いわば無意味な「クソゲ―」なのだと見破って、ゲームそのものから半分降りることによってこそ、心の平安を見いだすことを進めているのです。”  P185

心は幸せや満足を求めるようにプログラムされているにもかかわらず、一方では全く制御できず、常に満足できない方へと乱れていくので、確かにクリア―不可能ですね。まず、心は何をやっても結局は満足しないってことを自覚することが大事なんでしょうかね。

ところで、ここで言う「クソゲ―」と言うのは「アトランティスの謎」のことでしょうか。ファミリーコンピューターのゲームですが、100ステージと言う広大なダンジョンをさんざん冒険したにもかかわらず、全てクリアしても何が謎なのかよくわからない。しかも、エンディングもなく最初のステージに戻されると言う、一種の地獄のようなゲームです。



自分を正しく理解してほしいと言う欲望を手放す”  P86
私たちが隠し持っているさまざまな欲望の中でも、「自分のことを他人に性格に理解させたい」という欲望は、かなり強烈な部類に入ると思います”  P88

現代社会に生きていくなかで、この承認欲求の問題ってすごくでかいと思っています。なんというか、他人に自分のことをわかってもらいたいと言うか、認めてもらいたいと言うか、そういう気持ちがものすごく強くなっているように感じます。僕もご多分にもれず、人に理解してもらいたい、認めてもらいたいと言う気持ちが強いのですが、これは自分自身の心の声を受け止めると言う能力っていうんでしょうかね・・。そういう能力が足りないことが原因になっているそうなのです。で、他人に認めてもらえないと、心が乱れてしまうと言う苦痛を抱えることに。
仏教で一番大事な修行とは、自分の声を自分自身で聞き取ること。こうすることによって、他人に理解や承認を求めなくても、心が静まって穏やかになると言うことなんですが、なかなか、この本を読んだだけでは、そこまで体得するのは難しそうです。やはり、修業が必要でしょうか。



相手を屈服させて自分の価値を実感しようとする愚かしさ”  P16

日常生活をしている中で、ひしひしと感じるのはみんながみんな、人を見下そうと躍起になっていると言うことでしょうか。
「なんとかして、こいつをみくだしてやれっ!」と言う感じで必死になっているように感じることがあります。相手の粗とか怠慢をどうにか探り出して、そこを突っつくっていうやつです。
相対する人間を自分より下に置くことで、一時的に自分は安堵感を得られるし、存在価値が高められるんで、ついついやってしまうんですけどね。。。
仏教で言うと、これも煩悩の一種なんでしょうけど、この煩悩が日本中にあふれかえっているような気がします。

僕も相手が自分のことを見下そうとしているな、と感じるとついつい腹が立ってしまうのですが、こういうのも良くないんでしょうね。
自分が見下されることで、この人の気持ちが少し安らぐんなら、それはそれで公共の益になったのかな、くらいの心の余裕が欲しいです。なかなか、そこまで達観するのは難しいですが。

中には人を見下そうとする煩悩を鎮めようと努力している人もいるんでしょうけど、みんながだれかを見下そうとしている世界ですから、必然的にそういった努力をしている人が損をしてしまうと言う構図もあるような気がするんです。

本には他人と比べない、上でも下でも同等でない心の状態、を保つことを推奨してるんですけど、どうやったらそんな心が手に入るのでしょうか・・・。どうしたらそんな心になれるのか、そこまでは書いてないって言う・・。



間違いは悪いもの、と言う罠から抜け出す”  P38

この本にもたびたび出てきますが、人の失敗や間違いを見つけるたびに、鬼の頸を取ったかのように反応してしまう。
これは間違うことが悪いことと言う固定観念から来ている反応で、他人に自分の正しさを押し付けようとする欲があるためですね。
けれども、自分の正しさを押し付けようとするときは、イライラやモヤモヤをともなって自分の心も乱れの原因になっているようです。
心の平穏を保つためには、なるべく避けたい行為ですね。
歎異抄で親鸞はこう言っているそうです。
自分が殺しをしないのは、この心が善だからではない。たまたま恵まれた状況を与えられているから盗みや殺しをせずに生きていられるけれど、しかるべき環境と精神状態に置かれたら、盗みも殺しもするだろう ” P82



自分の中の煩悩を見つけるのは難しいです。
折りに触れて読み返してみたいと思える本でした。


しない生活 煩悩を静める108のお稽古 (幻冬舎新書)
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幻冬舎
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