ユグドラ旅情

方向性が見えない

ねらわれた学園考察その16

2012-12-10 00:56:31 | ねらわれた学園
伏線や隠喩のまとめ その1
※数が多すぎるため全部の把握はできていない。
羅列するのは野暮天極まりないが、こういったことに気を付けると面白いよということで。

●散る桜
青春の一過性と季節は巡ることの暗示。桜は散ってしまう儚さがあるが同時に散るぞ美しき、という日本人の美意識がある。桜が散る描写は中村監督作品に多く登場するもので特徴と言ってもよい。桜は散ってしまうが、季節が廻ればまた咲く。これはエンディング後の展開を暗示してもいる。

●ケンジのヘッドフォン
後にリョウイチが指摘するが、音声言語をシャットダウンしていても伝わるものがある。

●リョウイチの立ち位置
リョウイチは高確率で左側(アニメでいう上手)に立つ。

●タイトルロゴ
タイトルロゴは光の記号が含まれている。全体を通して過剰ともいえるレンズフレアの使用があるが、それと同じく青春の煌びやかさを示している。

●職員室の様子
大人が登場するほぼ唯一の場面と言ってよい。この作品に大人は耕児と斉藤先生ぐらいしか役目は負わされていない。一応ナツキの家族なども登場するが徹底的と言っていいほど排除されている。これは超能力の導き手として耕児、旧来のコミュニケーションの導き手として斉藤先生が置くための意図ととれる。

●リョウイチの出身地と格好
花巻市は宮沢賢治ゆかりの地であり、宮沢賢治の代表作の一つに風の又三郎がある。リョウイチの存在は風の又三郎とも取れる。またケンジたちの学校の男子生徒の制服はブレザー。転校生というマレビトの存在を示すためにリョウイチは詰襟となっているが、詰襟の超能力者と言えばバビル2世だろう。

●曽我はるかと神野ゆうの会話
原作を知っている人にはわかりやすい会話かもしれないが、これからの学校で起こる事件の暗示となる内容。しかし、主役4人の恋の示唆でもある。自分の気持ちというものは自分の中にあるものだが、他人とのふれあいでも生まれる。これは人が流されやすいということとも取れるし、人と人が触れ合うことにより生まれる感情も確かにあるということを示す。

●リョウイチ「好きなんだ、月が」
リョウイチが月出身だからと流しやすい告白ではあるが、彼の身の上や彼は初めて地球にやってきたことを考えると途端に意味深な言葉になる。はたして故郷だから好きだと言ったのか。

●人のいない江ノ電
こんな状況は現実にはまずない(桜やきれいすぎる星空も同様だが)ので、ここはカホリの心情を表していると考えるといいかもしれない。

●満月と桜
満月がまるで舞台のスポットライトのように描写される。これも監督の前作と似ている使用法。『魍魎の匣』では二人の少女が舞うときには月が巨大化すらした(そのあと現実的な大きさに戻る)。

●ライサンダーのセリフ
リョウイチとカホリ、ナツキとケンジの未来を暗示しているような内容。『夏の世の夢』でも四角関係が描かれている。

●斉藤先生の話
この時点ではリョウイチはテレパシーがあるのだから口頭での会話に意味があるのか疑問を抱いている。これがのちのDパートでのセリフに生きる。また、演劇とは演ずることで自分自身を見つめなおすことである。相手に思うことを簡単に伝えられるからと言っても、自分自身を見つめない限り本当に伝えたいことは伝わらない。『ねらわれた学園』という作品を鑑賞するうえで重要なテーマの一つである。

●ナツキのケンジの呼び方
2人称としてはしばらく「アンタ」が多い。3人称だと「ケンジ」が多い。後に「ケンちゃん」に戻る。

●トンビ
ナツキが先に好きだった相手はカホリに、ケンジが好きだった相手はリョウイチに恋をした。まるでトンビのようである。

●テレビの超能力者
3回にわたりリョウイチの状況を示唆する謎の番組

●ケンジの妹
良く見ていると箸をまだうまく使えないようで交差箸になっている。しまいにはご飯をうまく口に運べず肩を落とす。余裕があったら見てみよう。ちなみに次の夕食ではスプーンを使うようになる。

●耕児
原作の主人公なので超能力に関してもよく知っている。

●ケンジとナツキの家の配置
最初は左がケンジの家、右がナツキの家。次に左がナツキの家、右がケンジの家。最後に左がケンジの家、右がナツキの家。二人のコミュニケーション(ドングリや枕含)の方向性を考えると上手下手の関係がつかみやすいだろう。

●落ちるゆりこ
1回目のパンチラ。ナツキに比べると大人っぽいデザインのようだ。

●リョウイチとゆりこの位置関係
やはりリョウイチは左側にいる。加えて満月がスポットライトの役目を果たし後光となる。ゆりこにとってリョウイチが神秘的に映る描写。

●ナツキの夢
浴衣に花火なのでこちらがメインと思われがちだが、実は糸電話の方が重要。この糸電話の会話後ケンジが落下する。そのごナツキが過去を改変し今に至る。

●ゆりこが登校した朝
外で見ているのは勝木、平田、(おそらく)根津の三人。ゆりこはナツキにあいさつするがリョウイチにはあいさつをしない。それをナツキはいぶかしがる。

●ナツキ「すぐ卒業ってことになっちゃうよ?」カホリ「いいの。私は」
このときナツキは思いを伝えられないカホリを見て自分自身を重ね合わせている。

●カホリ「こんなにきれいだったっけ」
恋をすると世界はきらめいて見える。

●ナツキの横顔を見るカホリ
思っていることと表現していることの違い。演劇につながる一描写。むろん、この時カホリはナツキの思いを察していると思われる。

●飛び跳ねるナツキ
2回目のパンチラ。ナツキはシンプルな下着のようだ。

●東京の高校へ
夢の内容とは違う。ナツキがケンジを諦めようとしている一端が見える。

●第80回演劇祭のポスター
ずいぶんと歴史のある学校のようだ。

●ナツキの鼻歌
後のカホリに比べるとあまり上手くはない……。

●使い魔の攻撃を受けるナツキ
ここで非能力者を攻撃しているのは使い魔の方である。ゆりこは悦に入っているだけ。また、このときナツキは「助けてケンちゃん!」と叫ぶ。どんなに隠そうともとっさの場合はケンジに助けを求めてしまうのが彼女の乙女なところである。

●舌を出すカホリ
リョウイチがいなくてちょっと残念だったようだ。

●カホリがサーフィンをする理由
父はいなくても、会話ができなくてもサーフィンを通じて心を通わせることができる。ナツキの糸電話や、リョウイチが参拝した母の家の墓などと同じ要素。テレパシーに比べ旧来のものだが、物を通じてでも人は心をつなげることができる。

『ねらわれた学園』を観る上での『青い文学シリーズ 走れメロス』の視聴のすすめ

2012-12-09 21:19:49 | ねらわれた学園
青い文学シリーズは2009年の秋アニメ。くわしい説明はWikipediaに譲るとして、このシリーズは各作品ごとに監督や脚本、キャラクターデザイン、音楽が異なっているオムニバスなのだが、その中の『走れメロス』は中村監督が担当している。日本テレビ側から監督の前作『魍魎の匣』風にと注文があったため、『魍魎の匣』を見たことのあるものならば容易に類似性を感じることができる作りとなっている。

下敷きとした題材は太宰治の走れメロスであるのだが、このアニメでは走れメロスを劇中劇に据えメインは走れメロスという劇を執筆する一人の劇作家の話になっており、彼の過去と現在が走れメロスのテーマと交差し、『青い文学シリーズ 走れメロス』という作品を形作っている。2話完結の短い作品だが、原作の走れメロスのアレンジの仕方やビジュアル、音楽、そしてメロスを元にした劇作家の物語との融合性の完成度が高く、『青い文学シリーズ』の中でも屈指の人気を誇る作品となっている。

この『走れメロス』は『ねらわれた学園』へつながる要素が多く、作品の構成の仕方や演出を含めてメロスを視聴することで『ねらわれた学園』をより楽しむことができるだろう。スタッフがほぼ同じであることは勿論、舞台もケンジやナツキの家の傍である江ノ島電鉄極楽寺駅周辺だし、桜が散ることに始まり桜が散ることに終わる展開、冒頭と終幕がつながっているという構成、幻想と現実の協会が曖昧であること、作品内で語られる作品が現実の隠喩となり、現実が作品内作品を示しているという相互性、演劇を意識したキャラクターの演技、月の使い方、光の使い方、など。監督が同じだから似ていると言ってしまえばそれまでだが、それ以上に作風が似ていることが感じ取れる。

43分という短い作品なので13話構成で難しい用語も多い『魍魎の匣』に比べハードルの低い作品であること、作品の完成度そのものが高いことなどから『ねらわれた学園』を気に入り、まだ『走れメロス』を見たことのない方にはぜひお勧めしたい作品である。現在BDは発売元にも在庫がないようでDVDでしか手に入らないが、DVDでもそのクオリティは体感できるのでぜひレンタルしたり購入したりして見ることをお勧めする。

「ねらわれた学園」プレミアムショップのすすめ

2012-12-09 00:34:32 | ねらわれた学園
公式ページでもすでに告知されているが、新宿ピカデリー直近にある紀伊國屋書店新宿本店にてねらわれた学園のプレミアムショップが開催されている。
こじんまりとしたスペースだが、ここでしか買えないグッズもあるのでファンの方は足を運んでみてはいかがだろうか。
開催は12月23日までだそうである。

私はブックカバー2種を購入した。他にもここ限定のTシャツ、トートバッグ、ランチバッグなどがある。通常のグッズも置いてあるので映画館の物販よりも良い穴場的場所だ。

ねらわれた学園考察その15

2012-12-08 23:49:30 | ねらわれた学園
テレパシーはクオリアの壁を突破できるか?

この作品においてテレパシーを使っている描写は一切ない。観る者は彼らがテレパシーを使って意思疎通を図っているという情報しか提示されないし、それが真実かどうかも分からない。ただ、能力者たちの意思疎通ができていないという話は上がっていないし学校という限られた社会の中でも一致団結するだけの結果は見せているのでテレパシーそのものの存在は疑う必要はないだろう。

このテレパシーだが、実際にはどういったものなのかは謎に包まれている。わかっていることを挙げてみると、能力者同士にのみ可能な情報伝達手段であり覚醒前でも能力者には心の声が聞こえるものである、といったところか。今回着目するのは相手の考えていることがわかるというのはどういったことか、ということである。

われわれは日常で言語を使って会話を行うし、言語をもとに思考する。それが自然言語であれ人工言語であれ言語なしに思考することは甚だ困難であると言ってよい。もちろん私たちは言語なしにイメージすることはできる。特に芸術家たちは言語なしに思考することに長けているかもしれない。だが人は言葉なしに物事を抽象化し論理立てて考えることはできないというのは確かだろう。

言語において表記が先か能記が先か、といった話はあるが多くの基本単語では能記が先だと考えることができる。人は言葉を使って概念を抽象化してきたが、一定のイメージに対して確定した表現方法があるとは限らない。もしそうならば世界の言語は同じになっているだろう。バベルの塔の崩壊はなかったことになる。現実には、多言語間で完全に共通した表記は存在しない(近代になって共通語として定められた言葉などもあるがそれは自然発生的ではない)。

では翻訳可能性を盾に能記が同じ別表記間の逐語訳は可能かと言えば、そうではないはずである。たとえば「海」(表記)と「Sea」(表記)は別の能記かもしれない。日本人の見る“海”(能記)とイギリス人のみる“海”(能記)は別の“海”(能記)であることが予想される。この2つの国が面する海洋はまるで違うからだ。ならばそれぞれの国の見る「海」と「Sea」は近い能記であっても完全に等しい能記であるとは限らないのではないか。文化的な地理的な膨大な間テクスト性を無視して似た言葉だからと言って簡単に置き換えることができるか?できないというのは、英会話を学ぶ上で通らねばならぬ道ではなかろうか。別に英語に限らずあらゆる言語間での完全な互換はあり得ない。

そして同じ言語、例えば日本語でも同じ現象が起きるのは自ずと導かれる結論である。「海」でも日本海と太平洋では全く別の性質を持っている。日本海側に育った人間と太平洋側に育った人間では同じ海という単語でも別のイメージを抱くはずである。

それならば、全く同じ環境に育った人間はどうなのか。これですらも人間は同じ“言葉”を使っているとは言い難い。クオリアの問題が発生する。クオリアというのは脳科学において色だとか匂いだとかといった感覚的なもののイメージである。たとえばこの文字の色は赤だが、私が見ている赤とこの文章を読んでいる方の赤は同じ赤なのか?と言った問題を提起できる。極論を言ってしまえば、「私が赤だと認識するクオリア」は「あなたが緑と認識するクオリア」なのかもしれない。もっと大きな話になると『火の鳥・復活編』のような事態もありうるかもしれない。だが、クオリアが異なっていても言葉上では意思疎通はできるのである。

われわれが痛いと感じるクオリアを全く感じることのできない人間がいるとする。しかし彼は他の人が痛みを覚える刺激を感じ取ることはできる。その彼がそういった刺激に対し痛みを感じていると話したとしたら、われわれ他の人は感知することはできない。だが意思疎通は出来てしまう。クオリアの問題は実に相対主義的な問題で、他人の表情や言葉をもとに他人を自分の中でエミュレートはできるもののどうやっても他人の感覚を自分のものにすることはできないのだ。

では、この話をねらわれた学園のテレパシーに適用するとどうなるか。もしテレパシーがクオリアをも共有するとなると大変なことになる。個という概念は取り払われ一つの大きな個となってしまう。それはエヴァンゲリオンの人類補完計画にかなり肉薄する内容だが、ねらわれた学園では生徒会の面々は各個人の自我が存在していた。よって彼らはクオリアを共有しえていない。伝達手段が変わっただけで言葉という存在から逃れられていない。

山際ゆりこはシャボン玉を意思疎通に例えたのだが、実はテレパシーは心の壁を突破するほどの代物ではないと言えないだろうか。確かにテレパシーはディスコミュニケーションを取り払う助けになるかもしれない。だが、テレパシーが言語の呪縛から逃れられない以上、言葉の奥に潜む能記やイメージ、クオリアと言った内容そのものを知りたいと願わない限りは未来が変わることは無いのかもしれない。

ねらわれた学園演技論トークその2

2012-12-08 03:46:36 | ねらわれた学園
質問者A「魍魎の匣でも戸松遥さんが出ていて、様々な演技が良かったが戸松さんはオーディションだったのか」
中村「戸松さんも僕の指名で来ていただきました。役者としてすごく信頼しているので、ゆりこという役はこの作品で一番難しい役かと思っているのですけども、それを任せられるのは戸松さんしかいないと思っていました」

質問者B「木内さんの演技に対して別室に呼んで話をしたと言っていたがその内容と、冒頭のシーンのどこにこだわったのだろうか」
中村「舞台と違いゲネプロ(通し稽古)がないのでお渡しした資料から役者さんが役を作ってくれるのですけど、それがはまっている場合とはまっていない場合があって。その時の木内さんはかなりガッチリ先生を作りこんできていたので、一度先生を忘れてもらって。もう一回僕の方から斉藤先生を伝えなおしたという感じです」
木内「別室と言ってもボコられたわけじゃないですよ。ブースで休憩しようというときに監督の椅子の前を通るんですけど、その時に『木内さん木内さん。まあちょっとこっちこっち』(小声)っていわれて。で冒頭のシーンは?」
中村「冒頭はそんなにこだわったわけでは。ちょっと記憶がアレなんですけど。十何テイクも行きましたっけ?リアルな話ではあるのだけども、どこかリアルではないおとぎ話みたいな聞こえ方がしたいなとというのがこだわりでした」
木内「僕が思うに監督がこの作品に対する冒頭の一番大事な部分の温度差を役者に伝えていくのが大事だと思うですね。そこからスタートをかけていくとどんどん後の学生役にも伝染して伝えていってくれるだろうという意味での最初なのかなと」
中村「そうですね、どこか韻文的なニュアンスのある作品だと思っているので」
木内「音楽もかかっていませんし、フォーカスもかかったきれいなキラキラした部分も見えない時のですので、そこを伝えるのが難しかったですよね?」
中村「そうですね。絵コンテの時からそういう視点でして。音楽も始まってませんしノンモン(環境音)でそこに声だけが聞こえてくるなかでやっていたので」
司会「だからそれがキーになっていてまたその次の時に、と言った感じで?」
中村「そうです。やり取りを印象に残しておいてもう一回戻ってきたときに季節が一巡りするというか。出来事が一巡りするというか。それを感じてもらえればな、と」


質問者C「好きなシーンは?」
木内「僕は主役の雄太郎が海に誘うシーンがあるんですよ。あのシーンがすごく好きなんですね。手をつないでぬくもりを感じるというあのあたりのシーン。あそこからの流れが好きですね。何で海誘う!?みたいな。お前は何を表現しとるんや、って。でもそれがこの作品をすごく象徴するシーンだと僕は感じていて。直接的な闘いのシーンに行くのかと思ったらまるでデートに誘うかのように海に誘うという。気持ちのつながりというか、そういうのを表現していっているのかなというところが好きです」
司会「監督は」
中村「僕はいろいろあるんですけど、僕が好きだと思う、いや嫌いだと思うものは描いたら見た人にネガティヴなものが伝わると思うんで、好きだと思うものを必ず描くように全体にわたって気を付けました」
木内「そこでも監督のツボってないんですか?たとえば作品を一つ作り上げるにしても、自分が楽しいと思って提供するのは当たり前なんですが一つ下がってマニアックに考えたときに『俺はじつはこれがツボなんですよ』というのはないんですか?」
中村「それでいうと、たぶんタイミングだと思うですけど、長い間であったりとかセリフ同士の掛け合いであったりとか、あるいは細かい単位の動きだったりするんですけど、僕は絵描きじゃないので絵描きじゃない人間がどうするかと言えば、タイミングなんですよ。だからタイミングにずっとこだわってやってきていて。だから自分の思い描いた通りにタイミングよく芝居がはまり、絵がはまり、音がはまり、そこから音楽的な心地よさを感じられるときに一人でニヤニヤと」
木内「その出来上がった時におお!ていうのが自分の中で」
中村「自分の中でここ好きだなと思うんですよね」
木内「監督はシナリオから全部かかわっていきたいと思うタイプの監督さんじゃないですか」
中村「そうですね。『MONSTER』の時も脚本コンテ演出みたいな感じになっていたと思います」
木内「だからどうですか、自分の1から作りたいと思ったことが完成して今回どうだったんですか」
中村「むしろ自分の思い描いていたものをはるか超えていくんですよ。集団作業の面白さだと思うんですよね。さっき役者の芝居の時に言いましたけども、役者の芝居がうれしいときって自分の思い描いていたシーンをさらに超えていくときなんですよね。そのやられた、というときに嬉しくて心地よく絵を直していくんですけども。それは全パートにわたってそうなんですよ。ディレクションなのでどのパート人も僕が思っていた、僕が描いていたものをさらに超えていくんですよ。それが全体の力で合わさった時に思い描いていたものじゃなくて、それをはるか超えているものができて、それを見て皆さんの仕事ってすごいなと思うです」
木内「……今後監督の作品に出た際に丸背をあまり気にしないでいいってことですよね?(笑)好きに仕事をしてくださいって」
中村「合わせるために芝居を取り直すのではなくて、合うのは結果であって目的ではないというのが僕の考えなんですよ」
木内「わかりました。では気にせずに」
司会「気にせずにということで」

(ここでオフィシャル用写真を撮るが、質問は受け付けている)

質問者D「声優は監督の指名やオーディションがあるということだが今回も有名人(渡辺麻友)の方を起用しているじゃないですか」
木内「まゆゆ良かったよね!?まゆゆ良かったよ!」
質問者D「そういうのが決まるタイミングはいつごろなのか」

中村「キャスティングはアフレコの23か月前が多いですね」
木内「そうか、アフレコが基準か」
中村「アフレコがいつか確定しないとスケジュールを押さえられないので」
木内「ということは上映1か月前には必ずアフレコが終わっているということなので上映から数えて半年前にはキャスティングが決まっている」
中村「この作品は5月ぐらいだったかな」
司会「完成が9がつなので」
木内「大体そんなスパンで」

(ここで時間終了。最後のあいさつ)

木内「本日はありがとうございました。本日初めて見られた方は?」
(挙手)
木内「あ、結構いらっしゃるんですね。2回目?」
(挙手)
中村「ありがとうございます」
木内「ありがとうございます。2回目……3回目見たほうが良いですよね?この先品(ここで指で回数を示す人が現れる)4回!」
中村「ありがとうございます」
木内「4回……5回!ありがとうございます。7回!?他?7回も。ありがとうございます。どうですか、何回も観て。なんかこうちんぷんかんぷんなところが多かったんですけども2回3回観るとその伏線が活きていたというのがなぞりながらというわけではないのですけども、いろいろ気づくところがあって。1回目泣けたところでも、また違うところがまた後から考えたらすごく切なかったりだとか、泣けねえなと思っていたのが1回目よりまた泣いちゃったりして。噛めば噛むほど心にしみてくる作品だと思うんで、1回目だと手を挙げられた方、2回3回とできれば足を運んでいただきたいと思います。今日はありがとうございました」
(拍手)
司会「では中村監督」
中村「この作品は本当リピーターの方が多い作品だそうで、すごくうれしく思っているんですけども」
木内「これ自分で髪の毛切っているんですか?がたがたなんですけど大丈夫ですか?奥さんに切ってもらった方が」
中村「めっちゃ違う話なんですけどいいですか(笑)」
木内「すみません(笑)」
中村「経費削減のために自分で切っているんですけど。なんでしたっけ?」
司会「リピーターのお客さんが多いという話題で」
中村「本当にうれしく思っています。こういうイベントとかももしやれば、リクエストが多ければ僕はいつでも来ますのでそういう声を上げていただければ。どこに連絡すればいいのかな、映画館とか松竹とか」
司会「松竹でも」
木内「松竹に電話してください」
中村「木内さんが好きだというのなら木内さんに僕が連絡します。またそういう機会があればいらしていただきたいと思います。本日はお越しいただきありがとうございます」
(拍手)

司会「ではねらわれた学園演技論トークイベントを終了させていただきます」
中村「演技論になる前に。またいつかやりましょう」
司会「またやりましょう。では、中村亮介監督と木内秀信さんでした」

ねらわれた学園演技論トークその1

2012-12-08 02:53:26 | ねらわれた学園
ところどころ曖昧なところがあるのでご了承ください。


木内秀信さん(以下木内)「(司会の寺西さんに)また噛みましたね?僕の名前。2回目ですよ」
司会「すみません!前に……」
木内「『ねらわれた学園』がすべって。2回とも滑りましたね」
司会「冒頭噛みやすいんですよ」
中村監督(以下中村)「(司会に)ねらわれた?」
司会「ねらわれた。ラ行がちょっと苦手で。失礼いたしました」
木内「『きうち』は入っていないですよね?全然入っていない(笑)」
司会「失礼いたしました(笑)」※ここの一連の流れは和気藹々としていました

司会「それでは、気を取り直してよろしくお願いいたします。それでは監督からご挨拶をまずよろしくお願いいたします」
中村「監督の中村です。今日はお越しいただきありがとうございます。ちょっと短い、限られた時間ですが楽しんでいただけたら嬉しいです。よろしくお願いいたします」
木内「斉藤先生役の木内秀信です。よろしくお願いいたします」
司会「ありがとうございます。二人にいろいろとお伺いしていきたいと思っているのですけれど、今日は演技論トークというところで演技を中心にした話をしていただきたいと思います。監督は演出される側、木内さんは演じられる側ということで、お二人にはいろいろお伺いしていきたいなと思うのですけれど。お二人は元々、ねらわれた学園の前にもお仕事をご一緒されていたと思うのですが、久々にお仕事をご一緒されて、まず監督はいかがでしたか?」

木内「今ね、裏でずっとその話を、僕らの出会いの話をしていたんですよ」
中村「しすぎていてどこから話していいのか(笑)。僕は自分が監督の時は、木内さんを毎回僕の希望で起用していたんです。魍魎の匣の時は平田さん(京極堂役)だけ決定していて。あとは何人か候補があったのでお願いして」
木内「初めての作品が魍魎の匣という番組で、それに出させていただいた(関口巽役)のですけれど。平田さんだけ決まっていたんですか、主役?」
中村「その時(木内さんに決定したとき)はそうだったんですよ」
木内「僕オーディションでしたっけ?」
中村「オーディションではなくて何人かボイスサンプルがある中での話でした。で、メロスの時は……」
木内「次の作品が『(青い文学)走れメロス』という作品で。監督、あまりはしょらないでください(笑)皆さん置いてけぼりになっちゃうんで。次の作品では『走れメロス』っていう。……魍魎はもうおしまいですか?」
中村「どうぞ」
木内「いや、どうぞじゃなくて(笑)」

司会「出会いは魍魎だった?」
中村「いや、一番最初は、これは前後して今いますけれども、僕は演出という立場では『GUNSLINGER GIRL』で一本やっていまして」
木内「……っていう作品があるんですよ」
中村「浅香さんが監督で」
木内「マッドハウスに浅香監督がいらっしゃったころで」
中村「2003、4年ぐらいですよね。木内さん初めてですよね?マッドハウスでは。違いましたっけ?」
木内「違うんです」
中村「ええ?ここからは初めての話ですね」
木内「僕がマッドさんにお世話になったのは多分……………………………………(出てこない)……………………………………サッカーの………………『キャプテン翼』!」
中村「そうだったんですか!」
木内「キャプ翼か、『陽だまりの樹』という作品でたぶん出させていただいて」
中村「陽だまりでていらっしゃったのですか」
木内「そのあとオーディションで『GUNSLINGER GIRL』で結構良い役をいただきまして」
中村「僕らの『MONSTER』の時に主役のテンマ役をやってもらって、僕が助監督だったんで。収録のあと食事に行くことが多かったんですね。役者と監督ってこういった感じじゃないのかもしれませんけれど。それでいっぱい話したせいで」
木内「それで覚えていてくださって、後々監督になられたときに呼んでいただいて。ありがたいことですね」
司会「なるほど。『是非木内さんにやっていたきたい』という」

木内「そうですよ。びっくりしました。僕はいつまで経っても声優なんですけど、皆さんどんどん出世していって。出世というか自分で創る。すごいですよね?……声優はいつまでたってもペーペーのままで、呼ばれてオーディションに受かってみたいなことしかないんですけど、本当に呼んでいただいて嬉しいです。ちょっと作品は違うんですけど、同じ『MONSTER』をやっている頃に助監督さんがいらっしゃって、同じ助監督の高橋さんがいらっしゃって」
中村「(高橋)敦史さん」
木内「敦史さんがいらっしゃるのですけど、この間別の作品で初めて一緒に仕事させていただいて。どんどんどんどん出世していけしていけ、と。そして俺を呼べ、と(笑)」

司会「声優さんと監督ってそうやってお話をされたり一緒に食事をされたりとか結構あるんですか?」
木内「作品にもよると思いますし、その役にもよると思いますね。(『MONSTER』では)結構毎回のように」
中村「そうですね『MONSTER』という作品ではテンマが出ない回もありましたけれども、主役の方には作品がどうなっているか知っていただきたいということで何かあったらよぶじゃないですか、必ず。だから必ずいらっしゃっていた」
木内「僕その時、助監督をされているって知らなかったんですよ。助監督をしていたというのを実は今日初めて聞いて」
中村「あれ、そうでしたっけ?」
木内「“助監督”だという認識があまりなかったんですね。あの、音響監督さんが現場でよく役者とお話しするんですけど」
中村「本田(保則)さんですね」
木内「本田さんです、すみません。あと監督がいらっしゃって小島(正幸)監督だったんですね。なので二人のお名前と顔の認識は勿論ありますし話す機会はありますけど、そのほかシナリオの方とかあと助監督さんとか、演技構成の方とか色々いらっしゃいまして、一緒にご飯食べに行こうってなるので、どなたがどういったポジションでどういうのかわからんですね」
中村「(司会に)脱線大丈夫ですかね?」
司会「大丈夫です」

中村「何者だと思っていました?」
木内「小島さんに付いているので演出かな、と。あ、そうだ。演出っていうのもあるんですよ。演出、監督、助監督、音響監督……さん」
中村「そうですね、それくらいでしたね」
木内「美術・音楽は別にして。そういった偉いポジションだとわかるような面々がずらっと並んでいるんで。誰が誰でどの人が一番偉いんだろうみたいな感じなんですよ最初は。今はわかるんですけど、その時はそうだったんで。中村さんがどういうポジションで……。下手したら小島さんの弟子?みたいな」
中村「弟子です、弟子です。はい、弟子ですよ」
木内「でも今初めて伺ったんですけど、さっき。実は『GUNSLINGER GIRL』という作品で僕のことを」
中村「でもね、僕の話数ではヒルシャーとトリエラがメインの話数だったんで、ジョゼは――」
木内「誰もわからないと思います(笑)おいていかないで。ねらわれた学園なんですけど(笑)」
中村「戻りましょうか(笑)」
司会「戻りましょうか(笑)」
木内「その時(中村監督は)シナリオだったらしいんですよ」
中村「演出ですよ、演出」
木内「だからわからないんですよ、出世魚といっしょだから名前が変わっていくんで。今は監督」
司会「そうですね」

司会「出会いはそれで」
中村「たぶん僕ら6時間くらいのペースで話している(笑)」
司会「導入の導入でしたということで。それで今回久しぶりにお仕事を一緒になさったということで。それで、今回斉藤先生という役は木内さんで、ということで?」
中村「そうですね、メロスの時もそうだったんですけどシナリオを描きながら卜書きというか木内さんのことを前提に書いていて。余程スケジュールが合わない限り木内さんで行こうと思っていました」
木内「ありがとうございました」

司会「木内さんのどのあたりで斉藤先生に今回是非というところを?」
中村「やはりお声ですね」
木内「へえー。でもあの声でこんなやつが出てくるとは(※シャツの上に端がボロボロの長い赤いマフラーを巻き、頭にニット帽というインパクトのある格好)思ってもいなかったと思うんですけど。もっと華奢な優しそうなイメージなんですけど」
司会「作中の斉藤先生は生徒に人気の篤い割と」
木内「優しい」
司会「そうですよね。木内さんの声で?」
中村「やっぱり独特の癒しってね大好きなんですけど」
司会「木内さんいかがですかその評価は」
木内「いやありがたいですけど。僕の中にもそういうものがあるのかなーと、自信を持っていきたいと思います」

木内「最初先生役で呼ばれたというのもあるので、今回オーディションじゃないんですね。本当にもう監督にキャスティングしていただいたんですけれども、どこをどう求められて呼ばれたというのが、オーディションの結果で大体線が決まって大体こういう感じかなって自分の中でわかっていくのですけども。今回は全くゼロの状態だったんで、一応先生のセオリー通り、自分ができる範囲の先生のセオリーと言いますか。『おーい、なんとかー!』(低めの声で)とか」
中村「作っていらっしゃいましたね」
木内「作ってないですよ、あっちが本当の僕なんですけど」
中村「『ちょっと本当に申し訳ないんですけど』」
木内「違う」
中村「『そうじゃないです』って話しかけていって」
木内「役者の中にも色々方向性はありますけども、『そうじゃくて、こっちを歩いて』って言われて。『ええっ?そうですか……』って、それでまた作り直していったんですね」
中村「それで他の収録の間にもう一回作り直していただいたじゃないですか。本当にありがとうございました(笑)」
木内「(笑)誰もわからないと思う」

中村「その日ねらわれた学園の中では大人数のアフレコだったんですけど」
木内「先生対生徒っていう。20名ぐらいいましたかね」
中村「で、その日に呼ばれる役者の格みたいなものがあって、一番マイクの真ん中の席には当然その日の役者の中で格上の方が座って。その日は木内さん」
木内「たまたまですよ(笑)」
中村「皆さんが空気呼んで真ん中が木内さんなんですね。でも開始一時間後くらいからそこがずっと空席で(笑)。すみません、僕がわがまま言ったせいで。ドキドキしながら大丈夫かな、と最後に別で撮らせていただきましたけど(笑)」
木内「えっと、すみませんお客さんを置いてけぼりにしないでください(笑)。そうです、収録が学校のシーンを本編の二人以外、闘いとかバトルとかそれ以外の学園のシーンていうのを別の日に取っていたんですね。それで僕対生徒っていうのがあったんですけれども、先に生徒のセリフってどうでしたっけ。『転校生来るんだって』『へぇーそうなんだ』ってところから始まるじゃないですか」
中村「木内さん、今皆さん観たばかりなのでたぶん微妙に違うと思っていらっしゃいますよ」
木内「違う?」
中村「ちょっとちがいます」
司会「転校生が……」
(この間確認しあう)

木内「そこから取るんですよ、やっぱり大事じゃないですか。そこに何時間かけましたか?っていうこだわりがありまして。順に行くと斉藤先生どころじゃなくなってしまいまして。最初僕朝10時に入ったんですけど、いいですね?言っちゃって?」
中村「良いです」
木内「取り始めたのが夜の9時で」
中村「いや、もうちょっと早かったような」
木内「9時です!」
(爆笑)
司会「9時だそうです……。それは21時の“9時”ですよね?」
木内「そうですよー!そうなんですよ」
中村「撮り終わった時間は覚えている。12時だったな、と」
司会「すごいですね……」
木内「だからこうなっちゃって(座ってうつむく)監督と音響監督。で結局生徒帰っちゃって僕一人に。『じゃあ、残り取りましょう!』ってみたいな感じで」
司会「最初大勢でやっていたのに?」
木内「そうそう。俺(PM)8時半入りでよかったんじゃね?って」
司会「充分間に合いますね」
木内「充分ですよ。家まで何往復できたことか」
中村「おかげさまでこだわりの斉藤先生が」
木内「おかげさまでって……。まあ」
中村「……僕は大変満足しています」

司会「監督はアフレコは粘られる方で?」
木内「そう言われます(笑)」
司会「監督の中でこういう演技をしてもらいたいというのを固めてアフレコに臨まれるのかと」
中村「いったん固めてきて、でも生身の人が演じるんでどうしても絵と違って絶対こうしてください、という軌道修正がきかないんですよ。生身の肉体の中の芝居になって。いかに自分の中で早くイメージを調整するとかが大事になってきますね」
木内「絵が完成している場合と完成していない場合があるんですけど、完成していない場合というのはボールドと言いまして。ちょっと専門的になるんですけども丸背のマークっていうのがパチッと。たとえば斉藤役だったら“斉藤”とバンと出るんですね。そこに完成のところの口が動いている秒数分のボードが出るんですよ。ぴょんと“斉藤”って。でその“さいとーーーーーーう”が点いている間にセリフをしゃべるんですね。でそれが切れるとブレスなんです。で、また点くとしゃべりだすんということをぼくらはやっているんですけども」

(木内さんが中村監督に対し)
木内「そのボールドといいますか、その秒数というのは大体役者がこう来るだろうなとか、こういう感じでやってほしいというのかはどうやって決めているのですか?」
中村「自分の場合、自分自身でかなり何度もやっていて」
木内「監督自身が?」
中村「はい。でもそこは自分の体というフィルターを通したものなのでやっぱり違ったりするんですね。その場合、僕はアフレコの前に毎回言っているのですけども役者が演じやすいというのが一番で、絵に合わせてくださいとあまり言いたくないな、と。で、演技をは絵を参考にインスピレーションで演技をしてください、と。最悪それに合わない場合は絵を直すということで役者の方に芝居をして欲しいなと」
木内「大体その完成形が監督の頭の中にあるのは当たり前の話だと思うのですけども、その役者のニュアンス一つ一つで大体これくらいだろうなという目安で持ってくるんですか?」
中村「そうですね。そういったボールドの入り方だとか間の取り方だとかのリズムで何を求めているかを伝えるという。アフレコの前に必ず役者の皆さんいビデオを見ていただくのですね。その見ているときにこちらが何を求めているのかある程度伝わればいいな、といつも思いながらやっていますね」
木内「作品によっては、絵がない状況ですのでたとえば笑ったり怒ったりするシーンでも現場でやったとしても、オンエアを見たときに絵では凄い怒っているのに自分はあまり怒っていなかったりだとか。逆もしかりで、自分が演技では凄い怒っていたのに絵ではあまり怒っていなかったり口があまり動いていなかったり。そのギャップで『あ、やってしまった』と思うところなんですね。絵がないので仕方がないと言ってしまえばそうなんですけども、それを演技指導していただいているときに頭の中にきちんとあるかないかの差だと思うんです。監督が音響監督にうまく伝えるパイプが大事になってくる」

中村「そうですね。この作品の場合絵がわからないほどのアフレコではなかったと思うんですけども。逆にこっちが思っていた芝居と違ったものが来た場合も面白い。絵を作る作業というのは机の上に紙で描いていくものなんですけど、そこに時間をかけて積み上げていく作業とは違ってライブ感がアフレコにはありますよね。それを無視してたくさん要求しても役者の仕事はうまくいきませんし。自分の立場だとこんなにたくさん言われてどうするんだ、と言った感じなんですね。だからいかに自分のポイントを絞って求めている芝居に誘導するのが大事だと思っていて」
木内「そうですね」
中村「よく言うのが一番ダメな芝居がリザルト演技っていう芝居で『こういう芝居になってほしい』という結果を求めるディレクションが一番ダメで。実際に自分が欲しい芝居に対して、それを持っていくのにどう伝えていくのかがディレクションの仕方が紙の上と全く違うので。全く違うのがわからずに役者と向かい合ってしまうと上手くいかないケースが多いかなと思うんですね」

(質疑に続く)

ねらわれた学園考察その14

2012-12-04 23:02:51 | ねらわれた学園
山際ゆりこについて


山際ゆりこはこの映画において敵のポジションである。とはいえ、映画の中の印象では完全な悪人ではなく、むしろリョウイチに心酔しているだけにも見える。山際ゆりことはいったいどういうキャラクターなのか。それを知るためには彼女が不登校になった原因である携帯事件を推測しなくてはならない。

山際ゆりこは劇中昨年度に携帯電話が起因する事件が原因で不登校となり、出席日数が足らずに留年した。主な情報はこれぐらいしかないため何があったのかは明確にはされていない。しかし、生徒会会議での会話やゆりこの自殺未遂の場面でリョウイチが「周囲の理解が得られず」と発言していることから推測は可能だ。山際ゆりこは事件を起こした首謀者で出席停止となりそのまま登校拒否を続けた、というわけではない。要するに彼女は被害者側だった。
具体的にどういった事件だったのかはわからないが、学校裏サイトや他の女子による村八分などが考えられる。この事件を機に彼女は強烈な疎外感を覚え心に傷を負った。ここまでが映画の前の段階となる。

さて、彼女は自暴自棄になり自殺未遂を起こすがリョウイチの指摘する通り真実死ぬ気はさらさらなかった。彼女の行為は周囲の目を自分へ向けたい思いからの表れであり、死へ肉薄した行為を行い自らの存在を確認したい、そういった行為である。(のわりには街中で飛び降り騒ぎを起こさなかったのはなぜなのか気になるところである)心の不安定なまさにその時にリョウイチに救われ、さらに自分を理解してくれたと思ったことで彼女に大きな転換が生まれる。人の心を読むことができるという能力を獲得し、そしてその能力は未来を救うためのチカラであり、自分は選ばれた人間なのだという認識を得た。

要するに山際ゆりこは(最近よくつかわれる邪気眼の意味ではなく本来の意味に近い)中二病を体現するキャラクターと化した。一つ中二病と違うのは彼女に本当に選ばれたものがもつチカラが備わってしまったということだ。
自分が敬愛する人間に初めて能力を覚醒させてもらい、今まで自分を見下していた(とゆりこが考えている)人間と立場を逆転させることができる。当然彼女は暴走を開始し、生徒会を新たなものへと変貌、その中心人物となる。新生生徒会でも会長は曽我はるかのままだが、明らかにリーダーは山際ゆりこだ。はるかはナツキの尋問の際には発言すらしない。

と、ここで山際ゆりことCVが同じである魍魎の匣の柚木加奈子を思い返してみると、彼女もまた特殊な環境下にありアンビバレンツな状態にあった。彼女は幻想小説をもとに神秘的なふるまいをし似た境遇の楠本頼子を友達に引き入れた。しかし演技であった加奈子の神秘性ががとある些細なことで崩れ去り一連の事件へと発展していく……わけだが、話の筋自体は重要ではない。魍魎の匣の加奈子とねらわれた学園のゆりこは、境遇はかなり違うが両者ともに思春期特有の孤独感を感じていたことは共通している。今回の山際ゆりこへの戸松遥の起用はこの件に関する意図があったことが推測される。

閑話休題。ゆりこはチカラを手に入れ新生生徒会の中心となれたことでフラストレーションを解消したかに見えた。だがこれは結局奴隷道徳であり、君主足りうるものではなく彼女の不満が昇華されたわけでも彼女が成長したわけでもない。すべてはナツキの指摘した通り彼女は戦わず逃げているだけで真のコミュニケーションは得ていなかった。
しかし、彼女はコミュニケーションをするに至る。ギャグシーンなので見過ごしがちだが、ケンジが股間から携帯電話を取り出したのを見て1年生の女子が気を失い倒れてしまうが、ゆりこはそれをあわてて助け起こしている。対象は気を失っているのでテレパシーではない。心で会話できなくても手を取り合うことはできる、と後にケンジがリョウイチへ言ったことをここでゆりこも体現しているのだ。

最終的にはエンディングで石川あかりと会話する様子が描かれている。悪役というポジションではあったが、彼女もまた成長した。山際ゆりこはこの物語の影の主人公だった。

ねらわれた学園考察その13

2012-12-04 14:07:01 | ねらわれた学園
東洋的なお話



天岩戸
最終決戦時、満月が翳っていくが皆既月食の時に完全に真っ暗になる。これは日食の欠け方だ。リョウイチのチカラの象徴であるため満月であることに変わりはないだろうが、なぜ日食と同じ欠け方をするのか。
ここで、(皆既)日食とそれによる世界の破滅をキーワードとすると何が思い起こされるか考えてみて欲しい。日本人ならば思いつくだろうが、それは天岩戸だろう。アマテラスオオミカミがスサノオノミコトの所業に怒り天岩戸へ身を隠してしまう。すると世界は闇に包まれる。八百万の神々は対策を講じ、どうにかこうにかしてアマテラスを外へと連れ出す。すると世界に光が戻るのだ。
コミュニケーションを絶ち一人闇へと沈んでいくリョウイチを救い出したのはケンジたちだった。彼らは笑いかけながらリョウイチの心の扉へと働きかける。そして彼が心を開くと世界に光が戻るのである。

胡蝶の夢
世界の時間が静止した際、関家の縁側が写されるがその際に二頭の蝶が登場する。これはただの背景ではなく、蝶をクローズアップしているカットもあることから意味を持つことだと容易に推測される。では、二頭の蝶は何を意味するか。夏の夜の夢をモチーフにしている映画であることを思い出せば、容易に答えにたどり着けるだろうが、これは胡蝶の夢だ。
胡蝶の夢は荘子が胡蝶になった夢を見た際、自分は胡蝶だと認識していた。目が覚めると今度は人間であると認識している。どちらが本来の自分なのかは区別は付かない。このことから夢と現実の境界はあいまいであること、世は儚いこと、そしてどんな形であれ自分は自分であること、などを示す故事となっている。
話を戻す。リョウイチはこの直前にカホリに夏の夜の夢を喩えに
して自分がこの時代に来てからの数ヶ月は夢のようなものだった、夢が覚めたら皆自分のことを忘れてしまうだろう、と言って別れを告げた。そして実際未来に帰ったとき、人々は彼に関する記憶と記録を失い彼は元からいなかったものとされてしまった。リョウイチを未来へ送っていったケンジも同様である。
だが、ケンジが言うようにいないはずの人間なんていないのである。現実と夢の境界があいまいだっただけのことで、ケンジはケンジでありリョウイチはリョウイチであることには変わりがないのだ。
ケンジはそのチカラのモチーフとして東洋を想起させるものが多い。チカラの象徴は龍だし儚さの象徴も胡蝶の夢である。これはチカラの象徴が砂時計で、儚さの象徴が夏の夜の夢であるリョウイチと対比的である。

ねらわれた学園考察その12

2012-12-02 21:30:19 | ねらわれた学園
その11の続き

流しながら見ていていると、リョウイチと使い魔が話し合いプログラムをゆりこに進まさせる決定を行った“次の日”に曽我はるかが覚醒したように思える。そうなると、ナツキが学校を休み始めたのが5月上旬ということになってしまう。しかし、以前の記事でも考察したがナツキは1か月も休んでいないと考えるのが妥当。その考察の時は藤の花を論拠としたが、ナツキとカホリが藤棚にいるリョウイチとゆりこを見かけた際にナツキが「最近あの二人よく一緒にいるね」と言っているので、山際ゆりこが復帰してからこの日までしばらく日数が経過していなければおかしい、ということがわかる。ゴールデンウィークを挟んでさらにしばらく経過しているのではないか、と推測される。
三日月の描写が変だ、と指摘したがナツキの休んだ日が三日月の夜だとすると凡そ18日後となり、5月下旬となる。このあたりに休むのならば問題はないし話の整合性が取れる。

どうもこの作品は2012年の月齢に近い描写となっている。(参照:月齢カレンダー)月の姿を見てどれくらいの日なのかに思いをはせるのもよいだろう。
※ただし、7月の満月は週末ではないので厳密に同じというわけではない。

ねらわれた学園考察その11

2012-12-02 19:53:30 | ねらわれた学園
月齢について

本作はリョウイチが月出身だということもあり、月が幾度も登場する。殆ど満月しか登場しないのでまずは満月を見てみたい。

1回目:使い魔が初登場するとき
2回目:山際ゆりこが自殺未遂を起こすとき
3回目:リョウイチがカホリに身の内を語るとき
4回目:リョウイチとケンジが未来へ旅立つとき

おおむね月相は30日弱で一巡する。1回目の満月は始業式の日であるから、各満月の日は月初めであることが推測される。つまり4~7月を表していることがわかる。満月はABCDパートのそれぞれに登場することから、各パートはおおむねひと月ずつだということが推測される。


前項にもあげた三日月に関しては謎が多い。この三日月が見られた日は確実に満月の次の日である。ドングリ鉄砲の日にゆりこは自殺未遂を起こしており、その翌日にナツキが自転車で泣きながら登校している。その日にゆりこが登校している。
これを真面目に解釈すると地学や物理に反してしまうので棚上げしたほうがよさそうである。

さて、三日月の夜にプログラムをゆりこに任せることが使い魔の口から語られるのだが、どうやらその翌日にはるかが覚醒したわけではないようだ。

(続く)

ねらわれた学園考察その10

2012-12-02 19:16:51 | ねらわれた学園
制作ミスと思われるもの


●ほぼ確実にミスとみられるもの
1.始業式の朝、遠藤さおりのセーラーのスカーフが描かれている
キャラ表や前後の場面を見れば分かるが、遠藤さおりはスカーフを着用しない。ところが、斉藤先生が現れ廊下側からの画面になった際彼女がこちら側に振り向くのだが、その際にスカーフが描かれている。周囲の女生徒につられて描いてしまったミスと思われる。

2.ナツキが復帰した日の中央入り口前で桜が咲いている。
ナツキが復帰したのは明示されてはいないが6月の頭であり、衣替えをしている日でもある。いくらなんでもこの日に桜が咲くのはおかしい。この場面は校門前と中央入り口前の2シーンにおいて、始業式の朝の場面をトレースしている。そのため、登場するキャラクターの動きは全く同一である。校門前ではキャラクターの衣装は夏服へと変わっているのだが、中央入り口前になると冬服になっている。おそらく編集ミスと考えられる。

●ミスか演出なのか怪しいもの
3.リョウイチとケンジがハンバーガーを食べた日の夜、見晴台でリョウイチと使い魔が語った後の月が三日月になっている。
この日はゆりこが学校に復帰した日の翌日となっている。前日の夜の月は満月であり、翌日ならば16日月となっているのが正しい。また、仮に三日月だった場合、三日月は夕刻に西の空に見える月である。ところがこの時の月は東の空から登り始めていた。
漫画的表現と解釈しない限り、おかしな月となっている。月に関しては、また別項で取り扱う。

4.ナツキがはるかのレビテーションを行っている場面に遭遇したときの顔のブラシ
前編通して頬染めは斜線なのだが、一瞬ジブリの幼年児につくようなものへと変わる。光の具合に合わせてなのかどうかは謎。

ねらわれた学園トークショー3

2012-12-02 02:05:59 | ねらわれた学園
質疑応答

質問者A「原作を読んでいて事前情報なしに観たのだが、原作とは全く演出が違うし現代の問題に合わせているように思えた。これは最初から意図していたことなのか」
中村「そうですね、企画の最初から何度も映像化されている作品なので今までの映像化された作品をベースとするのなら昔のものを見てください、と思った作品なので。なぜ今、なぜアニメなのかと言うことにこだわって作ったんですよ」
荒木「ちょっと俺聞きたかったんだけど、中村君がやりたい作品でねらわれた学園を選んだのか、それともねらわれた学園が先で?」
中村「えーっとそうだな、平山君がいれば。ごめんなさい、アレなんだけども。僕ね、10年マッドハウスにいてフリーなったわけだけども、普通次の仕事を決めてからフリーになるよね。僕の場合、先にフリーになっちゃったんで何やろうかな?って。で(平山氏に)久々に会って話した時に(平山氏が言うに)僕はテレビより劇場に向いているんじゃないかという話とその題材としてこういうものが良いんじゃないかと候補と出してくれて。彼が一番推していたのがねらわれた学園だったし、僕もそれが良いと思った」
荒木「中村君向きと思われる作品というものをいくつか出してきたんだ」
中村「その時点で、ただそれを(単純に原作そのままを映像化して)やろうということじゃなくて、やるのは現代に合わせたものとか現代のテーマを入れるということで、それを含めてねらわれた学園ていう作品をテーマに選んだ」
荒木「原作の何を残し何に手を入れるっていう判断をするじゃない。そういった意味ではどういう風に最初に方針立てたの?」
中村「えっとね、やっぱテーマから入ったね。そういった意味ではさっきの話からいうと理屈から入ったと言えるかもしれない。現代のテーマは言葉でいうとコミュニケーションなんだけど、コミュニケーションって言葉で言っちゃうと面白くないんで、これだけコミュニケーションのツールが発展してきた現代だからこそテーマに持っていった。そういえばさっきエヴァンゲリオンの話が出てきたけれども、エヴァもディスコミュニケーションがテーマなんだよね。僕らの世代って、すごくエヴァンゲリオンに何かしら影響を受けていて」
荒木「平たく言うとね。(中村監督も)やっぱあるでしょ?」
中村「もちろん、もちろん。その――、あエヴァの話なんかしていいかわからないけど(笑)、昔の旧劇は拒絶するところで終わるよね。それがディスコミュニケーション。そうじゃない話を多分(新劇で)やろうとしているんだと思うけども、それを現代でやろうとしている意味も僕はすごくわかって。もしかしたらエヴァンゲリオンも4部作まで終わったらすごくこの作品と重なるところがあるんじゃないかなと思う気がしていて。だけど、はヱヴァQ観るまでそれを忘れていて、エヴァの話が出たこともなくて。だけどそれは時代のテーマだから重なったんだろうな、と。今はすごく感じている。だからヱヴァQもすごくわからないと言われているのだけども、僕はちょうど同じようなテーマで映画創った後だったから、何をやりたいのかすごい良くわかった。(シンジとカヲルの)ピアノの連弾のシーンなんかコミュニケーションのメタファーとしてすごく見せたいんだろうな、とか僕には伝わりやすかった。今のテーマなんだろうな、と。すみません、なんかエヴァの話で」
司会「共感したところがあったと」
荒木「自分も2回見まして。共感です」
中村「どんどんエヴァの話に(笑)」
司会「ありがとうございます」


質問者B「関ケンジというキャラクターの祖父である関耕児は原作に出てくるのだけども、あの年齢に設定したのはなぜか。たとえば父親だったり、逆に原作よりさらに前の時代に設定したりは考えなかったのか」
中村「それは僕の感覚なんですけども、息子の父親に関する感情ってすごく色々複雑なものを必ず含んでくると思うんですよ。どんな親子関係でもそれはそうなんじゃないかと思うんですね。で、そのシナリオ用語ではメンターと言うんですけど、精神的な導き手というのは耕児なんですけども。原作では父親なんですね。そしてその父親はすごくいいことを言う人なんですけども、父親が息子にいい話ばかりするのは今の時代だとリアルじゃないしおかしかったんですね。それならばワンクッション置いておじいちゃんならしっくり来る。でも僕自身が祖父との会う機会自体が少なかったんで、願望じゃないんですけども、ごく自然に言ったことをケンジがふーんと受け止められるキャラクターとしてならばおじいちゃんの方が良いんではないのかなと。逆に言うと京極はお父さんである方が確執が生まれるのかなと思いました」
荒木「その息子さん何歳?」
中村「九歳。すごく具体的な質問出たね(笑)」
荒木「に対して生き方を説いたりはしない?」
中村「しないよ。しないしない。息子が好きなアニメは銀魂とか(笑)僕のは『うーん』みたいな」
司会「それは成長なさったらまた」
中村「そうですねー、中学生になったらまた」


質問者C「超能力を使った作品であるのだが古いところだと幻魔大戦であるとかAKIRAであるとか、あと超能力ではないのだけど魔法少女のナントカとかがありますけども、そういったバトルのドンパチではないハートフルな方向で大団円でどのキャタクターも幸せになるという風な落としどころを見つけたのは監督の両親というか人間性の表れなのでしょうか」
中村「(笑)そうですね、超能力も魔法少女の魔法もそうなんですけどもアニメで表現する場合にはその要素こそが作品のテーマに結びついていると思うですよね。僕自身が魔法少女ものっていつかやってみたいな、と思っていたらまどか☆マギカという作品が出てしまったので引っ込めようと思ったんですけど。でもずっとやってみたいなと思っていたのは、魔法少女ものの場合も魔法というものが女の子にとってのすごく満たされない希望であったりとかの象徴であってそれを叶えてくれるのが魔法であってその作品のテーマになるんですけども。この作品の場合超能力というものがこの作品のコミュニケーションというテーマに結びついている。そこでいうとテレパシー言うことになるので。そうするとわかりやすく物が壊れたりしないんで、映画映えしないんですけど、テーマにむしろ準ずるという風にどうしたらいいかなと考えて作っていきました」


質問者D「先ほど夕日のシーンについての話もあったが、ケンジがナツキの家にドングリを飛ばすシーンに入る際、引きで撮った時左手にケンジの家で右手にナツキの家がある。次に、ドングリを飛ばすシーンでは右手にケンジの家があって左手にナツキの家がある。最後に『もう!』と言ってナツキが閉めたときはまた左手にケンジの家があって右手にナツキの家がある。普通に考えると視聴者はあれ?と思うと思うのだが、そこを敢えてああいう作りにしたのはなぜなのか」
中村「ああ、そうですねそこらへんは僕の中でちゃんと言葉で整理していないのですけども。アニメの場合上手下手は画面の向かって左が上手で右が下手。舞台とちょうど逆になるんですけども。これをすごく大事に、セオリーを大事にするのは一つなんですけども。ただね、この作品に限らず最近の映像作品の特徴なんですけども、意外にこのセオリーに囚われすぎずにそれをどう壊すか、どうその理屈を外すかという風に演出を組み立てる作品が多くなっているように僕は思うですよ。僕の方も自然にその法則を乗り越えるのが、自分としても自然に感じると思ってやっていて。(荒木氏に)どう思う?」
荒木「そうだね、囚われてつまらなくなるよりは囚われずに壊したほうが良い」
中村「そうだね、だからそれこそ直観的なんですけども、逆側に入る時って確かにいきなりは入れなくて、それはやはり映像の文法の昔からのものなんですけども、こうカットを積んでいくと逆に入れるとか幾つかパターンがあるという方法がある。なんとうのかな……」
司会「さっきおっしゃっていた気持ちよさみたいなものが」
中村「そうだと思いますね。上手っていうものも僕はうまく説明できていないのですけども、先ほど荒木君が言っていたところかもしれませんね」


(この後写真を撮って、次週の新宿ピカデリーでの対談予告をして終了)

ねらわれた学園トークショー2

2012-12-01 23:38:56 | ねらわれた学園
司会「やはり主人公たちの心情というものも、中学二年生の時ってそうだったと思うのですけれども、感情に整合性がついているかというとそうではない」
中村「そうですね」
司会「どちらかというと生々したい、と」
中村「そうですね、芝居の方で気を付けていたのは感情表現を整理しすぎないということで。大人もたぶんそうだと思うのですけども、思っていることとか自分で感じていることとか中学生はすごく未整理なんですよね。その感じがそのままストレートに出せたらいいな、と。全然関係ないのですけど、意識していたのは相米さんの台風クラブとか」
荒木「この前柴田さん(ここ覚えていない)がその話していた」
中村「あ、え、本当?あ、そうなんだ。やっぱり青春物を扱う中で避けて通れないものだと思うんだよね。僕、最初昔見たときは何で遠景を撮っているのか理解できなくて。今なら理解できる。この話し始めると長くなっちゃうんで(笑)」
司会「未成年は未成年のままで」
中村「うん、あれは高校生なんだけども、彼らが唐突にとる行動はわからないのだけども何でなのか本人にもわからないんだろうな、と。見ていて思うんですよ」
荒木「え、高校生だっけ?」※中学生が正しい(Wikipedia「台風クラブ」
中村「中学生だっけ?」
荒木「どっちか聞こうと思っていた。中村君は中学生の時あんな感じで?」
司会「是非聞いてみたいですね」
中村「全然そうじゃないから!」
荒木「ケンジみたいな人だったの?」
中村「全然全然!」
荒木「強いてあの中で似ているなと思う人は誰?」
中村「あの中で一番似ているな、ていう人間?ナツキじゃないかな?」
荒木「やっぱりそうなんだ。俺は――俺はね、見ている人は自然に誘導されると思うんだけども、中村君はケンジ。で例えばナツキみたいな人が奥さんなのかな、って」
中村「はははははっ(笑)」
荒木「俺は思いながら見ていた。そういうわけじゃない?」
中村「それはね、原作はあるとはいえキャラクターはゼロから創っているじゃん?どこか全員が自分にはなっちゃうっていうところがある」※このあたりはメロスでのインタビューが参考になるかと思います。
荒木「それはある」
中村「だから全員が自分の要素があると思っている。逆に誰かをモデルにするっていうことは(一般的に)話の出発になるじゃない。僕の場合はキャラクターだったりストーリーだったりを考えづらくて」
荒木「京極の要素あるの?」
中村「京極の要素あったらいいけど(笑)みんなないっしょ?ある人いるのかな、京極の要素。いや、未来から来たんじゃなくてね(笑)」
(一同爆笑)
中村「京極はね、女の子から見て本当に王子様みたいな格好いい男の子なのかもしれないけれども、男にとってもああいう風にふるまってみたいっていう欲求があるような気がする」
荒木「でもまあ、それはね、わかったシーンがDパートの演出をやっている中であって、そういうことだなと思って。つまり、それまでずっと京極っていうのは彼のポーズがあって、それを崩れる瞬間を描くのがDパートなんだな、と思いながらやっていた」
中村「だから男から見ていけ好かない格好いいイケメンってだけだと、それじゃ面白くない。女の子から見て格好いいイケメンみたいなステレオタイプなキャラクターがもしいたとして、それが男から見て全く共感覚理解不可能な存在かというとそうじゃない。京極はそういう意味では男から見て『できたらいいのに』っていう僕の理想。ケンジもまた僕の理想の一つで。僕にとってああいう、ありのままに自然体っていうのはとても難しいことだと思っているから」
荒木「両極ってことですかね?」
中村「そうですね」
荒木「中村君にケンジ的素養は?どっちかというとそっちの方が(ある)パッと見た感じね」
中村「あ、そう?(笑)」
荒木「ほら、最後の方で『すわ、闘いか!?』と言ったところで『海行かね?』っていう感じがあるじゃないか。あれはね、中村君らしいというか。そういう感じの人だわ、と」
中村「……そうかー。人からは、スタッフからも『監督はケンジなんですか』と聞かれるんですけども、僕はあそこまで素直になれないというか。そう素直であればいいのに、と、毎日風呂入りながら反省するとしてそれが降り積もってできたキャラクターなんだよね」
司会「思い入れが深いキャラクターというとどのキャラクターになります?」
中村「いやでもどのキャラクターも思い入れがあるんですけど。あとで荒木君に聞きたいのですけども、僕の中では(山際)ゆりこが思い入れの強いキャラクターになっている。ゆりこが絶対厭な子に見えちゃダメだ、されないようにしなきゃダメだ、と思いながらやっていました」
司会「荒木さんは今回、思い入れのあるキャラは?」
荒木「カホリかな。あの、見た目が魅力的。あのエロスとかに関してはどれくらいコントロールした?」
中村「そうですね、主に総作監の細居さんに作画面でリードしてもらって。細居さんに一番説明して、作監陣にも一通りかなり説明したけれども
荒木「具体的な作画に関しては言わないの?
中村「ああ、そこまでね言わなくても皆さんが意図を汲んで」
荒木「そうだったんだ」
中村「絵コンテでは確かに描いていたけども、ずばり“あざとく”見せるんじゃなくて、こう自然に、男の子の目線を意識した見え方にしようと思っていて。たとえばエロく見えるとしても、女の人から見てイヤな感じじゃない。逆に女の人から見たら『男の人ってソコ見ているんだ……』っていう感じがすると中学生の目線らしくなるかな、と」
荒木「ちょうどよかったのは、上品なレベルちゃんとおさまっていたのがそこがなんか資質の差だなと」※たぶん荒木氏の監督した作品を思い出していたと思われる。
中村「そんなことはない(笑)」
司会「普段の生活だからか、余計艶っぽいというか、カホリの仕草一つとっても日常であるからこその艶っぽさみたいなのがあって。非日常の方じゃなくてそうした仕草がやたら艶っぽかったという感じですね」
中村「そうですね、キャラクターが艶っぽいんじゃなくても(観客が)見ている目線がそれを感じ取っている見え方にしたいな、と思ってずっとやっていましたね」

(質疑応答へ続く)

ねらわれた学園トークショー1

2012-12-01 00:40:40 | ねらわれた学園
シネマサンシャイン池袋でのトークショー
ところどころ適当。

中村監督(以下中村)「監督の中村です。今日ここに来ていただいたのはすごく熱心な方々だと思っているので本当にありがたく思っています。今日は来ていただいてありがとうございます」
荒木氏(以下荒木)「演出をやった荒木哲郎と言います。今日は来ていただいてありがとうございます」
司会(女性の方)「本日のお題としてはですね、同窓会トークイベントとと銘打たせていただいているんですけども、お二人は実はマッドハウス時代の同期でいらっしゃるということなんですね」
中村「はい」
司会「今回、ねらわれた学園の演出を荒木さんが担当された経緯というものをおたずねしてよろしいでしょうか」
荒木「(中村監督に対し自分が説明して)いいの?妻の肥田文という編集がすでにねらわれた学園のスタッフで、で自分がちょうど監督をやっているギルティクラウンという作品が終わったところで演出の手が足りないという話で。嫁が『うちの荒木が来ます』と言って」
中村「来てくれた(笑)。ありがとうございました」
荒木「自分としても、自分が監督をやったDEATH NOTEという作品で中村君に素晴らしい回を作っていただいたんで、その恩返しができたらいいなと思って喜んで参加させていただきました」
司会「監督、荒木さんが参加するということを聞いてどうでしたか?」
中村「いや本当、ありがたいなと思いまして。決して時間があったわけじゃない中で。他の作品と比べるのはあれですけども、これだけのものを作るにしてはかなりタイトな時間で作ったほうじゃないかと思うんで。完全に僕のオーバーワークになっていたんで、そこで荒木君が来てくれなかったら終わらなかったな、と。ホントありがたいなと思います」
荒木「終わり際の最後の3か月、ヘルプ……ヘルパーとして参加しました」
中村「その直前まで絵コンテ描いていたんで。3月……たぶん。その前までちょいちょい作業やっていたんですけども、実際に作業に入ったのが3月からだったんで。で4月から来てくれた感じなんで。結構演出の佳境の時期を一緒にやったって印象です」
司会「お仕事を一緒にするのは久しぶりだったんですか?」
中村「DEATH NOTE以来かな?」
荒木「5、6年。てか逆にDEATH NOTEの前あったっけ?」
中村「ないない。初めて会ったのが(それ)。マッドハウスの場合は、大体僕らの世代の演出は各作品に一人一人振り分ける形で配置されるんでかぶることがなくて。DEATH NOTEは確か僕やりたい、と言って。それで調整してもらったような」
司会「それじゃ大分、本当にご一緒に仕事していらっしゃらなかったとしても同期で入られたということで長く付き合いがあると思いますが、マッドハウスのころの最初のファーストインプレッションというかお互いの最初の印象はいかがだったのでしょうか」
荒木「そうですね、入ったころは中村君、平山君……あ、この作品のプロデューサーの、が東大でということが非常に意味もなくクローズアップされて。それはあったよね?」
中村「無駄に、東大何する物ぞ?といった感じで(笑)無駄にしかならなかった、この仕事じゃ」
荒木「邪魔じゃなかった?(笑)」
中村「邪魔じゃま(笑)本当に」
荒木「ていうのがあって、こちらは『いけ好かないやつが来るんだろう』と思ってたら」
中村「(笑)」
(爆笑)
荒木「いい人で(笑)みんな安心したという。それがファーストインプレッションかな」
中村「安心させてた?」
荒木「そうそう。朗らかで。髪が長くて」
中村「長かった長かった」
荒木「さわやかな感じで。あ、今がさわやかじゃないみたいだな」
司会「では中村監督から見ての印象は?」
中村「作家だな、と思って。同じように演出をやって制作進行として入ってきているんですけども。僕は――アニメという仕事をずっとやろうと思ってきたわけじゃなくて、すごくにわかファンだたんですね。エヴァンゲリオンとか。そういうことがなければこの業界来ていなかった。で、絵とかも子供のころから好きで漫画を描いていたみたいな、そういう感じじゃなかったんで、初めて荒木君が描いた絵を何気なく見たときに衝撃を受けて。何というか競争をするわけではないけど、演出を目指す立場としては競わなくてはいけないなんて勘弁してほしいと(笑)」
荒木「そういう点では、自分は中村君がやったMONSTERとかあまりに衝撃で、同期がこんなすげえ物作っているのに僕は何やってんだ、と思ったんで、お互い様なんだなと」
中村「彼ね、先に監督になっているんで。お互い監督をやるようになっていったんで。経験積めば積むほど共有して話す話も、同じ立場じゃないとわからない」
荒木「うん、あった直後よりも今はずっと話している」
中村「はるかにね。たぶん一日中でも話せる」
荒木「そうだね」
司会「作品の話のみならず、わりと全般的な話をされることが?」
荒木「演出家としてどうあるべきか、どう生きていくかとか」
中村「特にマッドハウス出身だとそういうことだったりするんで」
司会「作品の内容についてどういうことをやられるか、じっくりお話をするというより感覚的なお話を?」
荒木「話すことは常に具体的でしたね。このエフェクトは暈すところだよね、パーティクルはいれるか入れないかとか、これはCGでやるかセル画でやるか、このCGはどういううごきをするか。そういう具体的なんで、ただ具体的な話の中から精神を読み取る。大体みんなそうだよね?」
中村「そうだよね」
荒木「逆にフィルムの精神の話って現場でしないよね」
中村「そうだね。だから取材とかされて、改めて聞かれるから話して、それまで自分がアバウトに考えていたのがむしろ取材を通じて『俺ってまとめるとこう思っているんだ』っていうのがわかるんです」
司会「その当時は、作品を作っているときは特に理詰めでやって積み上げていったとうのではなく、感覚の部分でやっていた、と?」
荒木「理詰めでもあります。どっちなんだろ、中村君としては理詰めと感覚どっち?」
中村「感覚。たぶん感覚だと見えていると思うけど」
荒木「現場では感覚の話だけをするんじゃなくて、どっちを大切にするかというと感覚」
中村「そうだと思う。言葉でいうと、よくこういう話し方するんですけど、しっくりくるかどうだけを細かい表現から大枠まで含めてほぼそれだけしか感がてなくて、感じるということは考えることは、分解すればたくさん考えたことの集合体かもしれないんだけど、実際映画とかテレビで見るのは一瞬なわけで。その一瞬らしく来るかどうかを感じるようにしているかなといった感じです」
荒木「多少補足すると、例えば理屈の方を重視する方と感覚を重視する方って、どう差が出るかというと。たとえば夕日のシーンで、夕日が京極の後ろから差している。そういうセッティングをスタッフに提示したとしたら、それはずっと守られるべきだ。どちらかというと現場はそっちで進むものなんだけど、逆方向に太陽描いちゃうと「違うじゃないですか監督。間違っていますよ」と。ところが中村君は「逆に入っちゃったほうが良い」ということなんだよね」
中村「そう、その通りです」
荒木「それはすごい分かる」
中村「理屈を守るとフィルムがつまらなくなるんですけど、理屈は良くなるためにそれを適用するために使うのはありだと思うけど、そうじゃなくてただ説明するためだけに使ってしまうのはつまらないものになってしまう。そうであるならば『よりこういう方が気持ちいいんだ』というのを優先したほうが良い」
荒木「そういういみではねらわれた学園で最大の、『理屈よりも気持ちいいもの』を自分で思って作った?」
中村「そうだね、全体がそうだと思っていて。それはシナリオが作画が美術が撮影が全部がそうで。今までの奴はねらわれた学園に比べればもう少し理屈から離れないようにしていたんだけれども、ためしにもうちょっと作品のテーマとか主人公の年代とかにふさわしい表現を考えたうえで、もう一歩踏み込んでみたいなと思って。なんだろうな、逆に僕がお客さん目線になった場合、一番飛び越えて見えるのは作画かもしれない」
荒木「生活芝居であるとかリアル重視というよりは外連じゅうしということで」
中村「そうそうそう。ただ、何もかもまんべんなく大きくなっているということではなくて。『やった!』と思うことは、やった!という気持ちなりに大きく描く。繊細な芝居とかとコントラストとか対比が付けばいいなと思っていたんで」
荒木「ただそれ今までの中村君の作品もそうだったよね」
中村「そうだね、特に中学生だったら中学生の生き生きした感じとか。あとアニメとして、これは一般論で言っていいのかわからないのだけれど今のアニメは動きが小さいのが多くなってきているっていう印象があったんで、こういうアニメもあっても楽しいんじゃないかという提案をしてみたんです」
(中村監督、司会に向いて)
中村「ごめんなさい、ぼくらが話していとずっとこういう感じになっちゃうんで(笑)」



(つづく)

ねらわれた学園考察その9

2012-11-28 20:28:21 | ねらわれた学園
ガイドブックをよくよく読んだら

ナツキの靴が隠された日:6月上旬(43P)
ナツキが審判にかけられた日:7月上旬(50P)

という記述がありやはり、1か月飛んでいたようだ。
この映画、前半は丁寧なのだが後半は時間を飛ばしすぎな印象があり、イメージシーンを挟むとはいえ時間経過の描写はちょっと不親切だなという印象である。
セルBD化の時にディレクターズカットとして補填してはくれないものだろうか。


C・Dパートは
曽我はるか覚醒~カホリイメージシーン~カホリが攻撃を受ける:7日ほど
ナツキ復帰~リョウイチイメージシーン~プール事件:1か月ほど

となる。アジサイの花は結構持つ方だが、成就院のアジサイがきれいすぎるように見える。
とはいえ、桜の花びらの演出を考えると季節の花程度と考える方が妥当なのかもしれない。