油小路ニュー中猫屋
いるみなしおーん。
 



 1995年2月,その窓から見渡せた阪急の高架は,新たに鉄筋が組みなおされていった。商店街で開いている店がほとんどなかった(それでもそこに商店街が残っていたことが驚きだった)が,パン屋は釜が稼動しているらしくて,少ないながらも商品が並んでいた。毎日のようにラスクを買い求め,それを食べながら歩いていた。それまでラスクというものを知らなかった。ラスクという食べ物について知ったのは地震の所為であり,そうでなければ,いまだにラスクがどんな食べ物なのかについての概念を持たなかったかもしれない。避難所の巡回では,いろんなひとから冷たくて硬いおにぎりを貰った。避難所では炊き出しがされるようになり温かな食べ物が行き渡るようになっていたが,あまり評判の良くなかった(しかしそれでも地震の直後は命をつないだのかもしれない)冷たいおにぎり弁当の配給も続いていたのだ。

 日常を揺さぶる出来事があると,食べ物を選ばなくなる。震災のように,食糧の供給が断たれるか極端に制限されるかすれば、当然のこととして食べるものの選択など二の次になる。しかし,ありとあらゆる食べ物が目の前に並べられる毎日であっても,そのひとの日常を揺さぶり続ける出来事があれば,食べるものを選ぶ行為は抑制されるか,あるいは抑制するように「決意」されてしまう。被災地を歩き廻る自分には,それがたまたま大量に売られていたラスクを食べることであり,被災者の人びとが提供(!)してくれた冷たいおにぎりを食べることであった。

 死の床にあった父を看取る日日には、叔父の家族が百貨店で求めて持って来てくれた京都の某料亭の小さな弁当を食べた。望みのない日日において、そのような彩りこそが心を刻む傷になる。父は最期にアイスクリームを欲しがった。しかし,それをほとんど食べることはなかった。父は意識を失い,一般病室からICUに移ったのだが,その日の朝の病室のくずかごに,ハーゲンダッツのカップが投げ込まれていて,その中にたっぷりと残ったアイスがとろけて流れ出している光景が忘れられない。私はいまでも,ハーゲンダッツのバニラは食べることができないと思う。

 食べる物など,本質的には選んではならないのかもしれない。私には,いくつかのアレルギーの出る可能性のある食品があるけれど,それは食べ物を選ぶというよりは選ばないという選択を迫るものだ。何を食べたいかという問いかけには,ほとんどまともにこたえられたことがない。そこにあるものの中から,たぶん,たまたま食べることができる物を食べるだけである。私は,そういう逃亡を,いつからか開始して,現在も続けているのだろうと思う。食べ物は,布置されている人生上の出来事のようなものである。もはやこちらから食べ物をチェイス,もしくはチョイスするのではない。ただ流れてくるもののなかから,たまたまキャッチしているだけなのかもしれない。そんなことを考えていた。

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