大地は,いっそう小さくなるであろう。そして,その大地の上に,一切を小さくする末人が跳ねまわるであろう。その種族は,あぶら虫のように不滅である。末人は,何ものにもまして長命である。
ニーチェ 『ツァラトウストラはこう言った』 氷上英廣 訳
いまを生きる私たちが,どのようにニヒリズムを生きるようになるのかを,ニーチェは鮮やかに予言した。如何ともしがたい情熱や苦痛は,健康を維持するために,すべて管理可能な範囲に収められることになるし,社会における生産的価値の有無によって選別される。恐れるべきものは,ひたすら不幸である。不幸という不可避なものをいかにして生きるかというぎりぎりのたたかいを退け,幸福こそが人を人間らしくするのだと吹聴するようになる。
東京や大阪や京都という名の,使い古された都市を,横断するように反復して移動しつづけている私の何曜日かに,世界を狭くするという,じつに切なる願いを語るひとに会った。子どもに勉強を教えることについても,これは世界を狭くしていくことなのだと思う,と彼は語った。私たちが何かを知るとき,世界は広くなるのではなかった。知ることをとおして幼き者は,世界の狭さについて「知る」ことになる。
東京大学出版会の「講座心理学」シリーズが,函入りのままで古書店に売りに出ていたので何冊か買った。著者に,「師匠」をはじめ,何人もの直接によく知る先生らの名があって,もうお会いすることもないだろうと思って,買ってしまった。いろいろな意味での自分の力のなさによって,そして,時間の不可逆的な進行によって,師たちと再び交わることがないのと同じで,古書店でシリーズで並べられていた本も,こうして永久に離別してしまった。
私の不思議な友人たちは,誰もが意図して世界を狭くしようとする。彼らが,ニヒリズムを生きる単純な「終わりの人たち」であるとは思わない。彼らは,もともと在るべくしてそこに在ったのに,シリーズの古本みたいに遠く別れてしまわねばならないという絶望や結ぼれに,抵抗しようとしているだけだ。拡散してこぼれ落ちてしまう希望は,狭められた世界でこそ護られる。彼らは,けして何かを「放棄」した人びとではない。皆,不幸を生きねばならなくなった人たちである。
中猫さんの世界はいまどうなっているのですか?
末人の世界なのですか?それとも不幸を生きざるを得ないことになっていたことぐらいには気づいた世界を生きているのですか?
何もかも捨て、発狂した世界は案外心地よいものです。自由で甘美で空と陸と海の地平はどこまでも続き、さえぎるものは何ひとつないのです。それでいて、見たいものを見て、見たく無いものは見ないで済むのです。
そう、むかし庭先で見た、球根を植え、虫がもぞもぞと動き、土と太陽の香りがした、あの光景の続きがいつでもどこでも無限に広がっているのです。
さあ、はやく、こちらへおいでください。
さえぎるものなどない地平では,見たくないものを見るしかなく,見たいものは見ることができないという不可能性があるだけです。
あなたの言う「こちら」とは,どういう所なのでしょう。私にはその場所の魅力が,たぶんわかりません。
そんなことよりも,あなたはあなたの足許に広がる沼の水から,まずは飲まねばならないでしょう。
わたしは、常に移り行くのこの世の中で、わたしとは何かを指し示す「私」もまた、その同一性を維持することは難しいと、強く感じるようになりました。
わたしは、もう、いつまでも同じ「私」にこだわりません。やや極端ないい方に聞こえるかもしれませんが、「私」は変わり行くひとつの現象だと思うことにしました。
これからは、これからのその時々に偶然に出会う自然、喜怒哀楽、四苦八苦、隣人を含めた「他者」に身を委ねることにしました。
したがって、「通りがかり」先の委ね先である「他者」である「沼の水」も飲むことになるでしょう。
次回からのコメントの投稿には、「通りがかり」ではなく「通りすがり」の名を使うつもりでいます。それは、この名のほうが、「他者」との偶然の出会いよって日々刻々と変わりながら思考し書き物をする「私」の存在の様子をよく表すと思うからです。
ところで,「沼の水」は,「他者」ではありません。それはあなたのことです。
それから,「通りがかり」でも「通りすがり」でも,なにが違うのか,やはりよくわかりません。あなたがブログ男であったり,ソクテンであったりしても,なにも違いがなかったのとおなじです。
「沼の水」は喜んで飲みます。
私のハンドルネームは、本当に「これだ」と思うものがみあたらず、一つの名を使いつづけるが難しいのです。