《あの雲の下にはどのような受苦があるのか。8月13日。》
積乱雲―入道雲の下の世界は,どうなっているのか。その雲の下では,風は速まり,どうかすると激しい雨さえ落ちているかもしれない。経験的には,そのように私たちは知っている。しかし,夏の夕暮れに勢いよく立ち上り続ける入道雲の群れを見ながらも,こうして穏やかな場所にあっては,かの雲の下の受苦について関与する(あるいは関与される)ことはかなわない。
以前,「受苦」をめぐって書いた(
※)。そして,いまに至っても,ここから離れた場所にいる誰かが経験する動揺によって,突き動かされている。そして,そのような自らの経験も,また誰かの経験のなかのひとつに相対化されていくことを,日々感じている。これは,遠く離れた誰かの経験こそは私の経験たりえる,というような経験である。この経験は,「共有」を意味するのだろうか。たぶん違う。それは「関係のない接近」に過ぎないからである。たまたま見出した誰か―他者の経験に,これもまたたまたま接近した結果が遠いところにある「受苦」の感知であったからである。こうして感知(関知ではない)する以上に,共有という(あるいは共有しようとする)行為は,何が目的としてなされるのだろうか。これについて,私は解答を持たない。
私たちは非力である。遠くの人の感覚を少しでも揺らす出来事があっても,そしてそれを感知したとしても,それについて,なんのかかわりももてない。しかし,もっとも至近であるはずの自らの感覚を揺らしている出来事についても,やはりなんの力も持たないのである。その点において,私たちはすべて同じ経験をし続けている。
他者との出会いは,さまざまな意味で自らの生との出会いである。その意味で,「真には誰とも未だ出会っていない」状態だともいえてしまう。この状態は,自らの経験の参照を喚起する。遠隔の受苦の感知は,本質的にはそのような自己参照の過程である。自らの経験の参照では届きえぬところに,他者の受苦の核心がある。この届きえぬところでの共鳴こそが,誰しもが希望していることなのである。
では,どうすればいいのか。
これについて,私は解答を持たない。そして,それもまた相対化される受苦の一つたりえるのである。