川端裕人のブログ

旧・リヴァイアさん日々のわざ

MGS3ブックレットに書いた宇宙開発ストーリー

2008-06-30 21:07:35 | 雑誌原稿などを公開
松浦晋也さんのこういった本をぱらぱらめくっていたら、かつて、メタルギアソリッド3の初回限定版につけられたブックレットに書いた文章を思い出した。
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ぼくはこういうマニアックなネタは弱いので、ディテールにおいて、間違いはあるかもしれないけれど、「再録」しておきます。



夢はどこだろう?──1960年代の宇宙開発

 1960年代の宇宙開発、特に有人宇宙飛行の分野での到達点は、21世紀のわれわれがいまだに超えることが出来ない高みにある。

 通常、我々は科学技術は常に進歩しており半世紀近く前の技術よりも、今現在の技術の方が優れていると仮定しがちだ。だが、こと有人宇宙飛行の技術については、こういった仮定がかならずしも当てはまらないかもしれない。

 もちろん、ディテールにおいては、現在の技術の方が優れていると言い切れる。例えば情報処理技術は有人宇宙飛行の成功の鍵を握るほど重要だが、現在のディジタル・コンピュータは、60年代後半の未だ黎明期のものとは比べると、もはや「同じもの」とは思えないほどの進歩を遂げている。ロケットエンジンだって、当時は難しかった液体水素・液体酸素の組み合わせでのロケット・エンジン(化学燃料のエンジンとしては理論的には最高の性能を示す)が実現している。

 にもかかわらず、今この瞬間、1961年のケネディ大統領の大号令のように「○○年までに月に人を送り届け、無事に連れかえる」という目標が我々に与えられたとしても、それが実現出来るかというと、はなはだ疑問なのだ。

 巨大なロケットを新たに再設計し、作り上げ、打ち上げる。宇宙船を設計し、作り上げ、運用する。複雑なシステムを統合し、管理し、リスク・マネジメントを徹底する……。

 リクツとしては、やってできないことはないだろう。けれど、出来る気がしない。なにが違うかというと……それは、モチベーションだ。本気度、というか、やる気、というか。

 1960年代のやつらは、限りなく「本気」だった。どうやってその本気スイッチがオンになったかというと……ぼくの考えでは二つの要素がある。

 それは、「敵」と「夢」。

 まず、「敵」について語ろう。
 アメリカ対ソビエト。あるいは、西対東。いわゆる東西冷戦の時代だ。強大な「敵」の存在が、ロケット技術の発展の種を撒いた。いやそれどころか、初期の有人宇宙飛行の成功の決定要因になった、という話。

 有人宇宙飛行を実現したロケット技術は、第二次世界大戦でナチスドイツが開発した、史上初の液体燃料ミサイルV2号(報復兵器2号)だったということになっている。終戦時、アメリカはウェルナー・フォン・ブラウンをはじめとする主要な技術者たちの投降を受け入れ(「おみやげ」はV2号を100機!)、一方、ソビエトはV2号の開発研究および運用が行われていたペーネミュンデの研究所そのものを接収した。つまり、アメリカもソビエトも、スタート地点は同じだった、ということだ。

 アメリカもソビエトも、V2号から得た知見を、当然のごとくミサイル技術として発展させていった。アメリカ側ではのちに「ロケット移民」と呼ばれるようになるフォン・ブラウンのチームが中心になり、ソビエトではセルゲイ・コロリョフを中心とする自国の開発チームが、ドイツから連れてこられた技術者から知識を吸収する形でそれぞれV2号が発展させられていった。

 ミサイル開発により熱心だったのは、ソビエトの方だったらしい。このあたりは通常軍備で劣るが故にそちらに力を注いだということらしいが、とにかく、そのせいで、ソビエトは1957年、史上初の大陸間弾道ミサイル(西側からはSS6と呼ばれた)を完成させることになった。そして、ソビエト政府は、その技術がそのまま宇宙ロケットに転用できることに気づいた。

 大陸間を巨大な核弾頭を載せて飛行するミサイルならば、相対的に軽い人工衛星(スプートニク1号)やライカ犬の入ったカプセル(スプートニク2号)くらい、地球周回軌道に持ち上げることができる。つまり、「ロケット=ミサイル」なのであり、その違いはと言えば「何を載せるのか」ということにすぎない。世に言う「スプートニク・ショック」は、かくして実現された。

 一方、先を越されたアメリカが、どうしたかというと、やはり、既存のミサイルを活用することで「やりかえす」しかなかった。アイゼンハワー大統領の肝煎りのバンガード・ロケットが無惨にも失敗した後で、翌1958年になってやっと、フォン・ブラウンのチームが、エクスプローラー衛星の打ち上げに成功する。この時に使ったジュノー1型ロケットの一段目は、レッドストーンと呼ばれるミサイルだった。とにもかくにも、V2号という出発点から歩き始め、「敵」の存在によって磨き上げた技術によって、有人宇宙飛行への第一歩が、二つの国において、それぞれしるされたのだった。

 ミサイル技術の転用によるロケット開発競争。いよいよ60年代が始まる。

 その前半は、ソビエトが先んじ、アメリカが追うというスタイルが常態だった。
 これにははっきりした理由があって、つまり、当時、ミサイル技術においてソビエトがアメリカを圧倒していたからだ。エクスプローラーを打ち上げたレッドストーンは、大陸間を飛ぶことなどほど遠い射程300キロ程度の短距離ミサイルだった。搭載したエクスプローラーの重量もわずか14キロほどで、84キログラムのスプートニク1号や508キロのスプートニク2号に比べると、なんとも貧弱だった。この時点での二国のロケット技術の差は、まさにミサイル技術の差そのものだった。

 スプートニク・ショックに続く、もうひとつの事件が1961年4月に起きる。ソビエトは、二段式のSS-6の上にさらに三段目を取り付けたヴォストーク・ロケットを開発し、人類初の宇宙飛行士ユーリ・ガガーリンの周回飛行をあっさり成功させてしまったのだ。このインパクトはある意味でスプートニク以上のものがあり、当時のアメリカ大統領、ジョン・F・ケネディをして、「1960年代が終わる前に人間を月に送り届け、無事に連れ戻す」と目標設定させるに至った。

 とはいっても、すぐにアメリカが有人宇宙飛行を成功させられるわけでもなく、レッドストーンやアトラスなど液体燃料ミサイルをあれやこれやと試しつつ、なんとか有人弾道飛行に成功したのがガガーリンの周回飛行の翌月。周回飛行にいたっては62年2月まで待たなければならなかった。

 アメリカはこの後、タイタン、デルタといった弾道ミサイルを次々とロケットに転用していくのだけれど(これらはその後長い間、アメリカの主力使い捨てロケットとして使われ続けることになる)、先を行くソビエトとの距離は詰まったかと思えばまた突き放され、せいぜい肩を並べたところまでで精一杯、という時代か続いた。

 ざっと年表などで確認してみると、ソビエトによる「初」の成功事例は、有人宇宙飛行関連だけでも、テレシコワによる女性の宇宙飛行(63年6月)、ウォスホート1号での複座式宇宙船(3人乗り)の成功(64年10月)、レオーノフによる宇宙遊泳(65年3月)などなどがあり、アメリカ側はすべて「後追い」だ。大陸間弾道ミサイルを先んじてロケットに転用したソビエトの「スタートダッシュ」が60年代前半だったといえる。

 さて、最初に挙げた「夢」はどこにいったのか、という話に当然、なる。

 それは、60年代後半に突如、はっきりと形を取る(とぼくは信じる)。
「敵」の存在により、ミサイル技術として発展されられたロケット技術が、この時点で、純粋宇宙開発技術になっていく。それがアポロ計画であり、要となったサターン・ロケットだ。

 ちなみに、1964年生まれのぼくは、1960年代の宇宙開発競争の記憶をリアルタイムのものとしては持っていない。それは、最初からひとつの完結した物語としてぼくの前にあった。最後はアポロの輝かしい成功に終わる「夢」のような物語であり、つまりはぼくの世代の子供たちの「将来の夢」を軒並み「宇宙飛行士」にさせた、宇宙的サクセスストーリーなのだった。

 こういうことは後から再構成された物語であり、60年代の宇宙開発競争の時代を生きた人たちにとって(特に当事国の人々にとって)は、もっと生々しく「夢だけでは語れない」ものだったに違いない。

 にもかかわらず、60年代後半の「月へ向かって一直線」といった勢いには、「敵」がどうしたとか、「国威発揚」といった要素を超えて、人々をモチベートした「宇宙への夢」をぼくは感じざるを得ない。

 それが証拠に、フォン・ブラウンだって、何十年もミサイルを開発し続けながら、夢はロケットだったと公言してはばからなかったし(評伝にも書いてある)、ソビエト側の立役者であるセルゲイ・コロリョフにしても、最初の大陸間弾道ミサイルの開発段階から、すでにロケットへの転用を夢想していた、という。いや、そもそも、宇宙ロケットよりもミサイルを作りたくてその道にはいった技術者なんてきわめて少数派だろう。

 宇宙開発はとにかくカネがかかるがゆえに、「敵」の存在によって活性化された軍事技術からの転用としてのみ、これまで実現されてきた。ところが、60年代後半において、少なくともアメリカという国では、ハードウェア、ソフトウェアの両面で軍事から独立した宇宙開発がありえた。その時、国威発揚や、冷戦下の安全保障と同じくらい大きな声で、人々は「夢」を語り、それを力にすることができた。一方、ソビエトにはそれがなかった。結果、アメリカ人たちは、彼らの歴史の中でも一番大きなアメリカン・ドリームを手に入れた。

 そんなことが実現できたのは、古今東西を俯瞰しても、この時代のアメリカ合衆国だけであり、「敵」と「夢」が絶妙にブレンドした、60年代の真骨頂なのだとぼくは感じている。

 最後に、メタルギアソリッド3にも少し関係するトリビア。

 1962年のキューバ危機の際に、ソビエトがキューバに配備しようとした中距離ミサイル、通称「SS-4(サンダル)」は、ソビエト側ではV-5Vと呼ばれる、いわばV2号の直接的な後継ラインだった。これはライカ犬やガガーリンを打ち上げたSS-6や、エクスプローラーを打ち上げたレッドストーン、果てはサターンロケットにいたるまでの、一連のミサイル/ロケットの進化の中で、きわめて正統的な位置を占めるものでもある。

 つまり、すべてのミサイルがそうであるように、あのミサイルも「きわめてロケット」だったのです。

 夢、感じますか?



速く、強く、美しい、正しい勝利

2008-06-30 11:26:02 | サッカーとか、スポーツ一般
R0018094写真は根津神社。サッカーとは関係ありません(神職さんが、ユーロの観戦に熱中するあまり、蹴鞠をはじめた、とか、そういうことはありませんでした)。

で、ユーロ2008の決勝戦。素晴らしかった。
美しく、確信に満ちたサッカーをしたチームが優勝をしたってことに興奮。

美しいパス回しと、あきらめないど根性。
ぜーんぶ持っている者が勝つのね。
こんなに「正当」な優勝って、サッカーでは珍しい。
個人的MVP。マルコス・セナ。あるいはカシージャス。
得点こそ少なかったけれど、存在感をみせつけたトーレスもすばらしかった。
あと、セスクのプレーを今大会ではじめて見たけれど、非常に印象的だった。

ほかのチームに広げて印象にのこったことといえば、ロシア、かなあ。
FWのアルシャーヒンなんかは、これから欧州中央リーグで活躍するのでしょう。