川端裕人のブログ

旧・リヴァイアさん日々のわざ

自然保護と環境保護について

2008-04-21 08:34:37 | 川のこと、水のこと、生き物のこと
クリーンピースジャパンのウェブサイトに「星川事務局長のオピニオン」というコーナーがあって、朝日新聞「私の視点」2008年1月31日掲載の論考がアップしてある。
ぼくは彼の立ち位置をとても好ましく思っていて、グリーンピース「ジャパン」の捕鯨問題に関する取り組みを支持している。

それを読んだ上で、思い出した昔の原稿を発掘。
2000年前後に書いたもので、東海大学出版会が出したムックに寄せた文章。「自然保護と環境保護」というテーマで、捕鯨問題にも触れられています。今とかなり世相は違うけれど、通じるもある。微妙な背景の違いを勘案して読んでくださると幸いです。

なお、あらかじめ参考文献を挙げておくと、こちら……。

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 環境保護、自然保護を考える

 自然保護は感情的?
 最近、小さな環境教育系NGOの人たちと、意見交換をする機会があった。大学二年生の参加者が述べた言葉が心に残った。

「感情的なレヴェルで自然保護を言い立てるのは嫌なんです。でも、論理的に考えて、どうしても護らなきゃいけないという理由はなかなか発見できずに悩んでいます」

 彼は大学で生物学系サークルに属しており、その仲間も似た考えを持っているという。
 驚いたと同時に、そうだろうな、という気もした。

 今、「自然保護」と聞いて、その重要さを否定する人はまずいないだろう。にもかかわらず、我が国の社会が「自然を護る理由」をはっきりと持っているとはとうてい思えない。

 たとえば、長良川の河口堰、諫早湾の干拓など、不条理な「公共事業」。ワシントン条約に違反して多くの希少種が国内に持ち込まれ、「密輸天国」と呼ばれるお粗末な現状。今まさに力を入れるべきなのに、後手後手にまわっているようにしか思えない、イリオモテヤマネコやヤンバルクイナなど「固有種」の保護。そして、背後にある「種の保存法」の機能不全。行政には、「自然保護が大切」という公式見解に、血を注ぎ、力を与える強い思念が欠けている。

 ならば、市民が立ち上がって……と、思っても、自然保護の市民運動には、なぜか「感情的」というステレオタイプなイメージがある。活動家はまずそれと闘わねばならない。大学生の悩みは的を射たものなのだ。


 生命中心主義の世界
 世界の自然保護シーンで主導的な役割を果たすことが多いアメリカ合衆国に目を転じよう。かの国の人々はどのように、「自然保護」の正当性を捉えているのか。1997年から1998年にかけて、ニューヨーク市を拠点に取材した際、自然保護活動家たちの間に、共通するあるエイトスを感じた(拙著「緑のマンハッタン」(文藝春秋))。

 キーワードは、「生命中心主義」だ。この言葉は、欧米社会で常に人間が特権的な立場に立ち、ほかの生命を一方的に利用してきた「人間中心主義」を脱却しようと使われるようになった。背後には、「すべての生命は生態系の中で『自己実現』する権利を平等に持っている」とするノルウェーの哲学者アルル・ネスの考え(ディープエコロジー)や、人間以外の生命や景観すらも倫理の対象にできるよう、権利概念を拡大しようとするロデリック・ナッシュの主張(自然の権利)などの考えがある。

 たとえば、環境テロリストと恐れられる、アースファースト!は、ディープエコロジーを行動原理とすることを表明しているし、西海岸最大の自然保護団体であるシエラクラブは、「自然の権利」を援用し、生き物や景観を原告とした裁判を起こしてきた。

 彼らは決して突出した存在ではなく、北米で自然保護にかかわる団体のほとんどが、生命中心主義的な言説をごく自然に受け入れている。穏健であり、時に「体制より」と批判される、全米野生生物連盟(NWF)やオーデュボン協会といった団体ですら、「自然には人間の側が考える利用価値とは別に、それ自体として本性的(intrinsic)な価値があり、それを護らなければならない」というディープエコロジー的な言説に同意する。

 ここで大切なのは、活動家や、それを支持する市民たちにとって、生命中心主義がごく自然に「腑に落ちる」議論として容認されていることだ。「なぜ護るか」の部分を、人間側の理屈で追い込んでいくのではなく、「本性的な価値を持っている」とすることで納得し、自然を護る活動を正当化する。

 これを「感情的」「情緒的」という印象を持つのは、ぼくだけではないだろう。

 考えてみれば、当たり前のことだ。どんな信念も、論理の連鎖の中で、どこか感情に直接根差す部分がなければ、リアリティをもって人々に受け入れられることはない。日本の自然保護運動が「感情的」と言われる時、それは感情的であることが批判されているというよりも、むしろ、批判者がその「感情」を共有していないということなのだ。

 とすれば、冒頭の大学生の発言は、「悩み」としては正当だとしても「設問」としては間違っていたことになる。彼が探すべきものは、「論理的な理由」ではなく、彼が感じている情動的な「護りたい」という思いを、我々の社会に根差させることができるきわめて「感情的」な理由だったのだ。もちろん、それは多くの人に共有されて、はじめて普遍的なものになりえる。その共通のインターフェイスを探求することが、彼の、いや我々のなすべきことだった。

 パラダイム論争~捕鯨を例にして
 なぜ、我が国の「自然保護」は、理由を見つけられずに「感情的」なままのか。ひとつの不幸な経緯として、「捕鯨論争」を挙げたい。

 商業捕鯨をめぐって、国際的な反対の声があがったのは、1972年のこと。ストックホルムで開かれた国連人間環境会議ではじめて問題提起された。以後、我が国は一貫して、捕鯨擁護の立場をとり、アメリカ、イギリス、オーストラリア、フランスなどほとんどの欧米諸国はこぞって、反捕鯨の立場を鮮明にしている。商業捕鯨のモラトリアム(1982年)、南極海のサンクチュアリ化(1994年)と、一方的に押し切られる形になっており、捕鯨再開をにらんだいわゆる「調査捕鯨」も風当たりが強い。

 以前、ぼくは、日本政府の言い分と、反捕鯨NGOの代名詞ともいえる、グリーンピースの主張を、それぞれ比較してその妥当性を検討したことがある(『クリーンピースの正義VS捕鯨の論理』諸君!1999年11月号)。日本政府側は「根拠のないモラトリアムやサンクチュアリの設定は非科学的」と非難し、グリーンピースは「調査捕鯨は科学ではなく、科学に偽装した商業捕鯨だ」と主張する。おたがいを「非科学的」と論難し、一歩も歩み寄りを見せない不毛の議論だ。

 双方が、相手を非科学的とした場合、通常、考えられるのは、(1)どちらか一方だけが正しい、(2)両方間違っている、だろうが、この場合、ぼくが下した結論は、「双方の文脈に照らして、双方が正しい」だった。

 つまり、日本政府は、鯨類資源の産業利用を前提にして、適正利用を実現するための「水産資源管理学」的なアプローチをとっており、グリーンピース側(あるいは反捕鯨国の政府)は、「生命中心主義」的な市民の支持を受けて、利用せずに護ることを前提にした「保全生物学」的なアプローチをとっている。そして、それぞれの主張は、それぞれの前提に立った上では大きな矛盾はない。つまり、典型的なパラダイム論争だった。

 無自覚なパラダイム論争ほど、悲惨な結果をもたらすものはない。納得できる理由を見いだせないまま、数の論理で押し切られて商業捕鯨をあきらめた我が国の人々は、「一方的にやられた」「理が通らない」という鬱屈した感情を抱いた。特に南極海で捕鯨船とクジラの間にゴムボートで割り込む、グリーンピースの派手なパフォーマンスは、「日本人=クジラを殺す悪人」というイメージを世界的に確立すると共に、日本では、自然保護団体/環境団体に対する、拒否反応と「自然保護は論理を無視した感情論」というイメージを植え付けたのだ。

 グリーンピース・ジャパンの内部でもこういったことは問題にされていて、「本部が出したプレスリリースを直訳するのでなく、我が国の実状にあわせて『翻訳』して伝える努力が必要だった」と認めている(前掲論文に詳述)。

 結局、我が国で、自然保護が、どこか感情的で、それを推進する団体が胡散臭いと感じられるのは、煎じ詰めれば、まず、自然保護が海外から輸入されたものであったこと。その際に、我々は「なぜ護るのか」という根本的な部分を受容できず、かといって自分たちの「理由」を発見する間もなく、捕鯨問題など特定分野で、完膚無きまでに蹂躙されてしまったからなのではないか。

 日本版自然の権利裁判
 それでは、日本ではどういうことが「腑に落ちる」のだろうか。「自然保護は大切」と多くの人が原則的には認めるのだから、我々が感情的に共有できる「理由」はどこかにあるはずだ。

 平成7年、鹿児島地裁で起こされた「アマミノクロウサギ訴訟」が、意外なところからヒントを提示してくれている。奄美大島のゴルフ場開発差し止めを求めて、アマミノクロウサギやオオトラツグミなど、4種の固有種が原告に名を連ねて起こされたものだ。アメリカ流の「自然の権利」裁判の体裁をとっており、また、そのような報道がなされた。

 しかし、原告側がまとめた『報告・日本における[自然の権利]運動』という冊子を読むと、まったく違う実像が浮かび上がる。要点は、この訴訟が、開発が続けば「(自分たちの故郷である)奄美が奄美ではなくなってしまう」(原告・薗博明氏)という危機感のもと、「自然と人間が分かつことのできない関係にあり、人間にはそれを尊重する義務がある」(原告・中原貴久子氏)ことを訴えるために起こされたものだということだ。

 この時、自然は「本性的に価値があるから」というのではなく、「人間と分かちがたく結びついた」不可分の存在として、イメージされている。もともと我が国では、手つかずの原生自然など、ほとんどない。人間から切り離された「そのものの価値」を問う前に、人々の生活の中で、単純な利用価値にとどまらず、人格の一部にまで食い込む形で、自然の存在が重要な意味を持ってきたのではないだろうか。このような場合、自然を護ることは、人格権の一部にまでなる。

 ここにいたって、ひとつの重要な視点を提示することができそうだ。つまり、我が国において、リアリティを持った自然保護の「理由」は、「人間が自然と分かちがたく結びついていること」を元に構築すべきではなかっただろうか。ほとんどすべての土地が、人間に利用されてきた我が国のありようを考えれば、とても自然な考え方なのだ。

 分かちがたい結びつき
 それでは、首都圏など、自然があまり残っていない大都市の人たちは、その「分かちがたい結びつき」を維持できるだろうか。絶望的に見えて、実はそれほど困難ではないと信じている。

 たとえば、日本版「自然の権利訴訟」のひとつが行われた「生田緑地」は政令指定都市である川崎市に位置する。地域住民は、奄美のように、長年住み続けた人たちばかりではない。それでも、人は住む場所と自分のアイデンティティを容易に結びつける。大都市であればあるほど、人は自然を欲していて、身近なささやかな自然に愛着を感じるのではないか。

 たぶんこのことは、遺伝子レヴェルにまで深く埋め込まれた人間の本源的な欲望てはないだろうか。自然が強大であると、それを開発し、人間の領域に変えていくくせに、いざ、自然を失うと週末には森へ出かけて森林浴したくなったり、テラスでささやかなガーデニングを試みたりもする。反自然的な存在と自らを規定しがちだが、自然なくしては、人間は人間らしくあることができないことを、我々はなんとなく知っているのだ。

 日本に住む我々が、自然との絆をたえず再確認し、維持する方策として、「鶴見川流域ネットワーキング」の岸由二氏が提唱する「流域思考」が示唆に富んでいる。ぼく自身が心惹かれるという意味で、紹介しておこう。

 我々が暮らしている場所は、必ずなにがしかの河川の流域だ。身近な小川を下って、大きな川に合流し、海に至るプロセス。あるいは上流へ、源流へと向かうプロセス。川はごく自然に、自分が今立っている場所とほかの場所をネットワークする。東京のような都市部でも、自分が属する流域に目を転じれば、緑がないところなんてない。川を軸に自分の立ち位置を見直すと実に多くのことが見えてくる。ここで紙幅を割くことはできないが、川の多い我が国では実に有効に機能しそうなアイデアである(「自然へのまなざし」(岸由二、紀伊国屋書店)を参照のこと)。

 また、最近、よく言われるようになった「里山」など、我が国固有の概念を、自然保護の考えに組み込む動きにも注目すべきだ。多くの人にとってすとんと腑に落ちる、地に足のついた価値観のセットを手に入れるのに、我々は後一歩のところまで来ている。

 その過程で、ぼくが常々気になっている、「自然保護」と「環境保護」との間の微妙な緊張関係も解消されよう。一見、似ているが、間の事象を扱うことが多い「自然保護」と、人間が中心にイメージされる「環境保護」は、時にねじれの関係にある。もちろん、同じ地球に人間も間も住んでいる以上、多くの場で重なり合うにしても、たとえば、身につまされるダイオキシン問題と、ヤンバルクイナの保護の問題が、かなり位相がズレているのは明らかだろう。「人間と分かちがたく結びついた」自然を、自然保護の出発点にすることで、我が国では、環境保護と自然保護か同じベクトルの上に乗ることができるのではないだろうか。

 共感、共生、絆、いくらだってキーワードはある。いったんは、スポイルされかけた我々の「自然保護」を、自らの手に取り戻さなければならない。自分自身の問題として、自然をイメージすることができて、はじめて、我が国に根付く「自然保護」が見えてくる。