川端裕人のブログ

旧・リヴァイアさん日々のわざ

岡田尊司氏の「脳内汚染」について(3月2日追記)

2006-02-27 11:09:49 | ひとが書いたもの
「ゲーム脳」の森昭雄氏が、脳のハードが壊れると言うのに対して、岡田氏はソフトが壊れるという。
つまり、「弱い」ゲーム脳理論といえる。
主張が弱くなっている分、議論は「ゲーム脳の恐怖」よりずっと洗練されているし、素人がみて気付く明らかな飛躍も少ないのではないか、と思う。
素人であるぼくでも、1ページごとに「あれれっ」と思っていた森氏の著作とは大違いだ。

森氏の著作が、専門領域以前の「科学的思考」の部分で論外だったのに対して、岡田氏の著作は専門家による精読が必要なものであると思う。まずは問題提起として、精神医学に携わる方や、その関連領域の方は、この著作を「たたいて」いただきたと思う(たとえば引用されている研究の妥当性や、言及されていないが実は重要な他研究(単に知らない)などもふくめ、ぼくには判断能力なし、である。都合の良い研究のつまみ食いの可能性は、こういう「単純な結論」を導く一般書の場合、常に警戒しなきゃならないことなので……追記です)。

にもかかわらず、ぼくが引っかかりを覚えるいくつかの疑問点があって、それについてコメントする。

まず、岡田氏の現状認識としての、少年の「信じられないような」犯罪が増えているというが、本当なのか。
岡田氏は、近年メディアを賑わしたさまざまな少年犯罪を列挙するわけだが、我々は自分が生きた時代のこと、とりわけ「最近」のことはよく覚えており、昔のことはよく知らない。
だから、「信じられないような」犯罪を列挙されても、それが昔に比べて増えていることにはならないだろう。たとえば、ウェブ上で閲覧できる「少年犯罪データベース」の異常犯罪についてまとめたサイト(http://kangaeru.s59.xrea.com/ijou.htm)同じく、大量殺人についてのまとめ(http://kangaeru.s59.xrea.com/fukusudouitu.htm)などを見ていると、「信じられないような」犯罪は、昭和から平成のそれぞれの時期で、やはり起こっている。

この最初の現実認識が違えば、のちの論理展開も違ってくる訳で、こういう部分は重要。

一方、少年の傷害事件などが、各国で増えているというのは重要な指摘だと思う。さらにその一方、日本の少年って、ほかの国(データの示されているアメリカ、イギリス、オーストラリア)に比べて、「凶暴」じゃないのね、という印象も持つ。

この現実認識から先、岡田氏は「寝屋川調査」なるものに依存して論を進めるわけだが、これは大元の調査結果の方が閲覧できないので、よく分からない。講談社から出版されるそうだから、それまで待つべし、なのかもしれない。

ただひとつ言えるのは、疫学的には洗練されていない、ということ。
まず、症例対照研究的な発想をすべきところで、その発想が見えない。
さらに致命的にみえるのは、「交絡」という概念が存在していない(ように読める)ことだ。
岡田氏は、「統計的な検定はしている」(サンデー毎日)とのことだけれど、検定だけでは交絡はコントロールできない。

たとえは岡田氏は、寝屋川調査で、「過保護、愛情不足、相互の理解不足を、ゲームやネット依存を助長する要因だと示された」という主旨のことを言うけれど、これらのことは、ゲームと関係なく、「少年」を犯罪に向かわせる要因になりえるのではないか。もしも、そうだとしたら、ゲーム、過保護、愛情不足、相互の理解不足のうち、どれが一番「効いている」のか。なんてことが、当然、疑問として湧いてくる。それに答えることができるのは、交絡をきちんとコントロールした疫学研究だけだ。

理想を言えば、調査の前から、疫学的な発想を持って質問票を考えるべきだったろう(ひょっとして、それがなされていれば素晴らしいのだが)。もしも、それがなかっととしても、分析には疫学者が噛むべきだろう。岡田氏も京都大学で研究歴があるなら、医療統計学の佐藤俊哉氏(「しまりす」の著者ですね)周辺に、疫学に明るい人材がいることを知っていてもよさそうなものだけれど。

さらに、終盤で、岡田氏は、「おそろしい仮説」について述べる。それは、「これまでの精神医学の常識は、根底から覆る可能性がある」ようなものであり、岡田氏自身も「すべて正しい仮説でないと信じたい」というほどのものだ。

具体的にいえば……つまり、ゲームやネットは、諸悪の根元、らしいのである。
不登校、引きこもり、家庭内暴力、ニート、学級崩壊、ADHD、発達障害、境界性人格障害、DV、虐待、性犯罪、自傷、自殺。
岡田氏は、このようなことを具体的に論じているのが、実際にはこれだけでなく我々の社会に今起きているさまざまな「異常現象」の原因を、ゲーム・ネットが作っていると読める。

すごい大風呂敷で、首をひねらざるを得ない。
岡田氏は、「大変なことが起きているかしれないという客観的な可能性について、現場の臨床医として、またこ問題について研究する中で、それを知るに到った者が口を閉ざしていることは、やはり不誠実だと思う」として、これらのことについて述べるのだが、もちろん、誠実に述べてくれるのは大歓迎だ。

ただし、こういった一般書にいきなり書くよりも前に、専門家共同体の中での検討を経るべきではないか。岡田氏は、これを仮説と言うけれど、現状では仮説の上に立てられた仮説、でしかない。
警鐘を鳴らしているつもりであろうが、もしもほかに大きな原因がある場合には、「目くらまし」にすらなりかねない。
本人にはリアリティを持って感じられたとしても、それが本当にそうなのかは、研究者共同体の検討を経てはじめて「一歩前進」となるものだ。
それを経ずに、研究者としての「権威」や「客観性」だけを活用し、物をいうのはフェアではないと思う。

実はこれは、寝屋川調査の発表の仕方についても同じことを思う。
岡田氏が寝屋川調査の結果を、いきなり一般書ではなく、研究論文という形で、しっかりした査読つきのジャーナルに投稿していたら、当然、交絡のコントロールについての指摘がなされて、岡田氏自身、自説を再検証せざるを得なかっただろう。

それを、いきなり一般書で、あたかも科学的に承認されたことのように流通させるのは、いかがなものか、という気がするのだ。
今後かりに岡田氏自身が、交絡の重要性に気付いたとしても、一度、流通し広まった「耳目に入りやすい」情報はなかなか修正できないものだ。

もっとも、このあたたり、研究者・専門家が、「論文以前」の問題を、大きな声で述べたくなった場合、どうすればいいか、という問題でもあり、実はなかなか難しい。
もちろん、「言うな」なんて誰にも言えないのだ。

岡田氏だって、本人が大きなリアリティをもって「今すぐ」伝えるべき仮説だと確信したからこういう本を書いているわけだろう。それを止めるわけにはいかない。
そして、ぼく自身も、「ゲームのやりすぎは要注意」という気持を新たにもした。ゲームの麻薬性についても留意すべきと思ったし、だからといってゲームを一切させないというのは、逆に心配だ、などと思いめぐらせるほどのインパクトは受けた。

しかし、その際に、議論が「論文にすらなっておらず、研究者共同体の目に触れていないこと」は、やはり明示してほしいのだ。研究者が書いたら、「権威」があり、「客観的」である、と自動的に思われることが多いわけだけれど、その「権威」と「客観性」を維持するための手続きをとりあえずはしょっていることを、明示して欲しい。もちろん著者は、そんなこと明示してあると言うかもしれないけれど、ぼくにはかなり「断定的」に読める部分が多かった。

なおかつ、できるだけ早く投稿だ。手っ取り早く、共同体の反応を知るためには、学会発表もすべきかもしれない。
岡田氏には、これを切に期待する。

追記
新潮45にて、柳田邦夫氏が、小泉総理大臣への手紙という形をとって、「脳内汚染」の内容を紹介し、「学校からパソコンをなくせ」と主張している。さっそく、こういう議論が出てきたことに衝撃を受ける。岡田氏にとってこれは本意、だろうか。

追記2
同じ疫学研究でも、食中毒やら感染症やらの疫学では、専門誌への投稿を待っていられないケースが多々ある。逆に、こういう時の機動力が疫学の力でもある、ということも忘れてはならない。
ちなみに、岡田氏は、疫学の力をまったく活用していないので、どのみち、この限りにあらず、なのだが。

追記(3月2日)
評論家・松沢呉一氏や精神科医・風野春樹氏の「脳内汚染批判」を読む。
http://www.pot.co.jp/matsukuro/archives/2005/12/18/109726
http://psychodoc.eek.jp/diary/?date=20060202#p02
ぼくは読み飛ばしてしまったけれど、ごもっともだ。
ゲームの麻薬性を論じるさいに引かれたネイチャー誌論文の「ゲームをするとドーパミンが出る」というのは、「そりゃあ、あたりまえ」レベルの話ですね。

飛ぶペンギン。背景は空。

2006-02-27 07:04:17 | 保育園、小学校、育児やら教育やら
Penずいぶん時間が空いたけれど、旭山シリーズその2。
ぺんぎん館での衝撃。
これも、いくら「映像」をみていても、実際に目の前にするとまったく別次元の体験だった。
水槽の「中に入って」、見上げると、ペンギンが「飛ぶ」のがよくわかるのだ。
おまけに背景は青空!
こんなシーンを自分の目で見ることは、この展示がなければ一生なかっただろう。
ぼくは知る人ぞひるペンギン作家(?)なので、野生のペンギンを見てきた歴は、日本国内水準でいえばかなり上の方だし、ひょっとするとペンギンと一緒に泳ぐ、なんて体験を将来しないともかぎらない。ガラパゴスあたりにいってシュノーケリングすれば、遠巻きにであれ、ペンギンを見ることはできるそうだし。
でも、この近さは無理だろう。あるいは、このアングルは無理だろう。
彼らがいかに「飛び回るか」、自分の「息」の心配をせずにじっくり見るのは無理だろう。
そういう意味で、すごい展示だ。
堪能しました。

ひとつだけ気になることがあって……それは、この展示について、多くの旭山本が語る際の、定型的な言い回し。
なにやら、このアクリルチューブ、「屋外」にあるわけで、アクリルが温度によって伸び縮みする性質から、最初は業者が嫌がったそうなのだ。それを動物園側が「すべての責任は取る」ということで、前向きに進み始めた、みたいな話。
もちろん、結果として、伸び縮みを吸収する緩衝材を入れたりして、「安全」なものに仕上がったのだろう。
でも、「責任は取る」って、意気込みを示す言葉としてはともかく、美談(?)としては扱ってほしくない気がするのだ。

だって、何かが起きた時、誰にも責任なんてとれないから。
「責任を取る」という発言の多くは、実は問題が実際に起きた時には、無責任な発言だったと分かる。

ぼく自身、この展示の成立について取材したわけではないので、ここで気になっているのは「事実がどうだったか」よりも、むしろ、「伝えられ方」なのだけれど……。

もっとも、これは動物園の話、ではない。
むしろ、すぐに「責任を取る」と言いたがる、我々の文化の話。
責任というのは、本来取るべき立場の人以外には取れないのだ。
そして、取ればいいってものではないのだ。
なんてことを、最近、まったく別件で感じることが多いがゆえ。
(かといって、取らなくて良い、ってもんでは、断固としてないわけだが)