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天土悠遠/「小鹿田焼ミュージアム渓声館」は無事という報[高見乾司の神楽絵巻/アートスペース繭<4>]

2017年07月11日 | Weblog


昨日、日田市の防災ヘリで担当者が被災地に入り、「小鹿田焼ミュージアム渓声館」の無事を確認したという報が入った。まずはほっと一安心。報告によれば、建物の外側(上流部)まで土砂が押し寄せ、館内は床上まで浸水、土砂が一部流れ込んでいるが、建物に損傷はなく、土砂を除去すれば大丈夫、という判断である。二階展示室は影響を受けていないだろうという見込みで、確認もしていないということ。ちょっと杜撰な視察という感じを受けるが、大切な小鹿田焼の古作コレクション約200点は、この大災害を耐え抜いたということを喜ぶべきだろう。

同日、私の弟・高見剛が現地入りした。契約しているインターネットメディアの取材を兼ねた訪問だが、彼は、由布院空想の森美術館閉館後、その息子の俊之とともに散逸しかけていた古小鹿田コレクションを守り通し、渓声館の開設に結びつけたという経緯を持つだけに、居ても立ってもいられない心境なのだろう。現場は、予想より、山崩れの規模は大きく、道路は寸断されて近づくこともできない。立ち入り禁止区域の外側で取材していたら、現地の人が軽トラックに乗せて迂回路を通り、上流部まで運んでくれた。が、渓声館のある「ことといの里」エリアまで近づくことは不可能だったという。
この未曾有の災害に直面した小野谷の男たちは、「避難所に居っても身体がなまるだけじゃ」と言い、村へ帰って土石や流木の片付け、迂回路の整備などを精力的に行っていた。細い谷には木の仮橋を架け、棚田には段々や梯子で上り下りできる道を作り、藪を切り開いて生活道路を切り開いてゆくのである。ここにも力強い山人たちがいた。

小野谷の男どもが再整備に取り組む道は、かつて小鹿田の里から日田へと通じた旧道に沿っているはずだ。天の恵みに感謝し、天の土をいただき、生活の器を作り続ける村へと続く道は、天空へと続くひとすじの道でもあった。
小鹿田焼の器を運び、天領日田の町の文物を山の村へと伝え、山伏や狩人が往来した道が、災害時の緊急道路となる。この深い山を巡り、小鹿田の里へと上ってゆく山道を造形した徳利を「山道徳利」(掲示の写真)という。地味な器肌に白土を筒描きで一気に往復させ、曲がりくねった山道を描きあげる。一升徳利を脇に置き、盃を傾ける山の男たちの風雅な一面を示す逸品である。
この意匠の器は現代も作られているが、この作は昭和中期頃のもの。



これは「雲助徳利」という。「うんすけ」と親しみを込めて呼ばれる愛称が、酒屋で一杯ひっかける駕籠かきからきたものかどうかは不明だが、他の語源を誰も思いつかないというから、当たらずも遠からずということだろう。明治期の優品。



「口付き徳利」という呼称がふさわしい。江戸から明治初期のもの。遠州高取の系譜をひく小石原焼の分窯である小鹿田焼は現在地に伝わり、およそ300年の時を経て、なおその様式、制作手法、一子相伝の伝承形態、のどなか村の風景などを伝えているが、この小さな徳利には、その遠州高取の様式に通じる「綺麗寂び」の美しさが残されている。野の花を一輪、投げ入れると、にわかに精彩を放つ器である。

*いずれも今回の企画に出品されている作品。「小鹿田焼ミュージアム渓声館」のコレクションから。
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