愛の種

 
 猫がいる限り アセンションが止まらない
  

ある日の昼下がり

2015-07-06 23:21:17 | 猫の生活



白、ひっくり返ってお昼寝です。



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私の懺悔的回想 3 (完)

2015-07-06 01:32:08 | 気ままわがままつれづれなるまま
 夫はむしろ、子どもが自分を慕ってくれることに違和感さえあったのかもしれない。だから、いつも私に確認するのだ。
「俺は子どもに嫌われているのかな」
と。私は夫と、ちょっとしたことで、意見が合わないと、
「親がわるいからね」
と、言ってやったことがある。これは、私の普段ため込んでいる不満をぶつけているのであるが、私が言うときは、夫の機嫌が良いのをみはからっているので、
「なんやと?」
と、一言反論されたくらいで、夫はまた、テレビに夢中になっていたようだった。私のせめてもの反抗が、これであり、また、私自信に向けられた言葉でもあった。そう思うことで、夫を怨む気持ちをごまかしてきたのである。
 そんな我が家から、怒ると怖い雄太の父親が居なくなると、私の長男の育てなおしが始まった。生まれてすぐなら、だっこするだけでいいのだが、今や大きくてそれは無理だ。だから、彼の願望は聞けるだけ聞いてあげた。しかし、数万円するおもちゃが欲しいとせがまれたとき、さすがに高すぎるといって数回拒んだのだが、それでも欲しいと言われ、しぶしぶ購入してあげた。しかしお店のレジのおじさんに、手渡されたそれを抱きかかえ、笑った雄太の顔は、今だ私の心を癒している。
だが、ハムスター事件が勃発したときは、思いがけず雄太を傷つけてしまった。雄太の大好きなハムスターは10匹にもなり、お互いが大きくなり、二つの小屋の中で喧嘩が始まったのだ。私は思い余ってペットショップに預けたのだが、自宅に帰ってきた雄太は、ハムスターが居ないとわかると、私の言葉が耳に入っているのかいないのか、玄関で泣き崩れ、1時間以上も起き出そうとしないのだ。根負けした私は雄太と一緒に、せっかく預かってくれたペットショップに舞い戻り、店主に事情を説明した。店主は、迷惑がることもなく、親切に対応してくれた。そして、
「10匹を飼うのは、ハムスターにとって可愛そうなことだから、2匹だけなら持って帰っていいよ」
丁寧に説得する店主に雄太は素直に応じ、自分の育ててきた10匹のうち、雌の2匹だけを吟味して、自宅に連れ戻したのだった。だが、しばらくしたら、またハムスターが子どもを産んでいるではないか。どうやら雌同士であることを確認してくれたはずの店主の、判断ミスらしかった。おかげで雄太は大いに喜び、自分の部屋で再度多頭飼いをしていたのであるが、ある晩こんなことがあった。2階の自分の部屋で寝ていたはずの雄太が1階に降りてきた。ここ数日咳をして、喘息が始まっているのはわかっていたのであるが、
「息ができなくて、死にそうになった」
と言う雄太を呆れて笑うほかなかった。結局ハムスターの小屋を、自分の部屋から廊下に出すはめになった雄太。私は、少しは懲りたか、と思ったがそうでもなかった。自分の部屋で、毎晩耳元で聞こえていた回し車の音が聞こえなくなり、
「寝付くのが遅くなった」
といって、家族をまた笑わせてくれた。
雄太が中学1年にもなって、やっと、父親から解放される訳だが、それと同時に何度注意しても治らなかった火遊びや、金遣いの荒さは徐々に無くなっていった。それは、親以外の雄太を取り巻く社会が雄太の心を満たし育ててくれたからとも言える。
雄太が高校生の頃、盛岡に行ったらしいとわかるが、数日は帰宅せず、学校を無断欠席することがあった。であるから、私が姉といっしょに真冬の雪深い中、2時間かけて迎えに行ったことがあった。雄太を乗せた帰りの車のなかで私の姉は、友達が帰してくれないからでは。という。だが、私にはわかる。
「友達のせいではないだろう?自分が好きで友達とずっといたくて仕方ないから帰ってこないのだろう?」
そういうと、
「ふっ」
と、息子は笑ってみせた。私はなぜか、数年前高額なおもちゃを買ってあげたときの、彼の笑った顔を思い出した。
それにしてもどうやら血は争えないらしい。私の高校時代も、友人と遊んでばかりいたのを思い出す。普段は二人の女友達と一緒にお弁当を食べ、この二人の家に交互に、外泊しあっていた。この女子二人の都合が悪い時は、悪友の男子らと、中学まで一緒の女の子との、4人で遊んでいたのだから、暇を持て余したことが無い。自分にとって居心地の良い友達と一緒にいるのが、永遠に続くような錯覚にも陥いり、その後訪れる人生の分かれ道がまっているのを、頭から否定して生きていた学生時代であった。
 かたや私の小学生時代は暗い時代であったな。特別仲の良に友人もなく、口数も少なかった私は、一人で過ごすことが多かった。どこか根暗な子どもであった。そのせいか、クラスの子やら、先輩にいじめられていたこともあり、自分に自信がもてないでいた。誰かに嫌なことをされれば、「やめて」と多少の反抗をしてみせるが、相手はわんぱく盛りな男子たちだ。反省してくれるわけがない。感情と感情のぶつかりあいが、子どもの成長に欠かせないものだと、その行為が許される時期であると、今だからわかるのだが、自分の感情に押し流され、感情をむき出しにすることが恥だと考え、必死に自分を押さえ込んでいた幼少時代であった。そんな私にも、運命の女神はいつからだったのだろう、微笑んでくれていたのは。
私が5年生になったときだ。新しく赴任してこられた、恰幅の良い男性の太田先生が、私たち14人のクラスの担任となった。太田先生は、俳句や短歌が得意な先生で、私たちにもそれを教えてくれた。私たちは俳句、短歌をつくっては、先生に無記名で作品を提出した。そしてその中から先生が選首して、佳作から特選までを皆に披露するのだった。
週に何度も作品を作らされるから、頭を絞っても出てこないと悩むクラスメイトをよそに、私はすらすらと、2つも3つも作り、先生から特選をもらわなかった日がほとんどないくらい、得意になっていった。これは、私の根暗さと、誰もいない放課後の図書室がマッチして、先生や親がいうところの本の虫であったからに違いない。他愛もない俳句の授業なのだが、勉強はからきし駄目な私が初めて心から楽しいと思えた小学校の授業であった。そんなこんなで一年が過ぎ、私たちが6年になって、しばらくしてからの事。もともとユニークで、誰にでも平等で、校内で人気№1の太田先生だったから、結果がでたことなのだろうけれど。
5年生からもちあがりした太田先生が、普段通り教壇に立ったかと思ったら、一言。今も鮮明に蘇るその瞬間。
「これからは、女子は男子に、君づけで、男子は女子に、名前でなく、名字にさんをつけて呼ぶようにしなさい。」
その一言におそらくはクラスで私一人が戦慄を覚えた瞬間だ。「しなさい」と言ってはいるが、決して威圧的でない、説得に近い普段通りの言い方だ。動揺はしてみせるクラスメイトたち。それでも、大好きな先生がそういうから、従うのが当然と捉える至って素直な田舎の子らなのだ。太田先生は、普段私たち女子生徒に、名字にさんをつけて呼んでいた。それを同じように男子生徒らに強いた訳であるが、私にとってまさにそれは青天の霹靂!飄々とした顔で教壇に立つ太田先生の顔をまじまじとみては、この現実を現実ととらえてしかるべきか否か、私の心臓はバクバクした。
実は当時、私はクラスでただ一人、男子からあだ名で呼ばれていたのだ。名前にアがつくから、アンパン。それが転じてクソパンだ。嫌だと思でも、そう呼ばれるから仕方ない。
だがこの日以来、アンパンもくそパンも完全に封印され、奴隷から女王様にでもなったかのごとく、私は〈さん〉付けで男子に呼ばれ始めたのだ。しかし、本当の奇跡はそれからしばらくしてのことだ。私への時々気まぐれに発生していた〈からかい行為〉が、いつの間にか無くなってしまったのだ。だって私は女王様になったのだから。と、冗談はさておき、私に起こったこの奇跡は、たまたま起こった現象に過ぎない、と、これまで思い続けてきた。だが、この大震災を経験し、こうして回想するなかで、なんとも愚かな私にやっと悟れたこと。あれは太田先生が必然的に起こした私への奇跡の贈り物であったのだ。
私たちクラスはそのまま、地元の中学に進学し、その頃になると、私はなぜかクラスで一番というくらい、明るい、うるさい、そして生意気な生徒と化していた。 
中学の3年間は、これまた校内の生徒の中で1番人気の小山田先生という男性が担任であった。なんとも幸運な私たちだ。この先生は、絶対というほど常に冷静であるが、とても明るい先生であった。私たち生徒の、良きお兄さん的存在であった。ある時、同級生の男子数人が何か悪さをして、教頭先生にこっぴどく叱られていた。教頭先生のお小言が1時間以上にもなった時のことだ。
「それくらいにしてはどうでしょうか」
と一言、冷静沈着な小山田先生が割って入ったのだ。私はそれ以上の言葉を発するのかと心配になり、先生の顔をまじまじと凝視してしまった。しかし普段と変わらない先生の態度。この一言で教頭先生は、すぐに男子らを解放してくれた。そして教頭先生は小山田先生と一緒に職員室に戻った。それから1時間以上も教頭先生から、ご指導を享ける小山田先生。私たち同級生は、職員室の戸に、耳をくっつけて、中の様子を窺がった。
「まだ言われているよ。どうする?」
職員室前の廊下で同級生同士、かがみ込みながら顔を見合わせコソコソと相談するが、どうすることもできない。私はただいつ小山田先生が感情的になるのだろう、いつ切れてしまうのだろう。とそれだけを恐れ心配しただが、小山田先生は愚かな教え子のため教頭先生に頭を下げ続けてくれた。あっぱれだった。
 小山田先生は国語の教科担当であったが、黒板に書く文字はいつも力強く、個性的な字であったのが印象深い。授業が始まる前、私たちは相談する。今日は何時ころ、言いだそうか、と。そして授業が始まり、私たちの定刻がきたときだ。
「先生、そろそろ、余談にして」
と私たちは一斉に先生にせがむ。
「これは余談なのだが・・・・」
と、お決まりの文句から始まるのだ。先生の学生時代の、少林寺拳法のクラブの様子や、育ってきた環境、恋愛話、いろんな話をしてくれた。私たちは、そこから、人としての感情、接し方、社会を自然と学ばせられた。特にも私は人生観やら、倫理観を語るにおよび、小山田先生からの影響は絶大である。
この実に飽きない国語の授業は、思いのほか多かった年は、3学期になると、追い上げるのに大変で、教えるほうも必死、教えられる私たちも必死になって授業に食らいついたことも、実に楽しい思い出だ。
 心から宮澤賢治を愛する純粋な先生で、あれで世渡りできるのかしら。と当時の私たちが心配してあげていたのだが、今やあと数年で定年を迎えられる立派な校長先生だ。前回のクラス会に招待したときは、小学生の生徒たちと校庭をマラソンしていると窺がった。少林寺拳法の段取りであったはすだから、体力には自信があったろうが、それにしても先生らしい。
 当時の中学生児にしてみれば、若い先生方でも、すごく年上の大人に見えていた。しかし今や私の長男は、私の恩師の担任時代の年と大して変わらない。人間性においては雲泥の差があるものの。
今、親になり感じるのは、24,5歳の男性に、当時の私たちは、実にわがままなことを言ってばかりだったなあと思うのだ。それを全て受け止めてくれた先生の器の大きさに、感謝してやまない。
私の生きる力とは、楽しかった想い出の積み重ねに違いなかった。自分をいじめていた先輩は、後になり、違う場所で傷を受けていたのだと知らされ、私は同情した。子どものストレスは、無論子どもの責任ではないだろう。全ては周囲の環境が影響しているのかもしれない。
 私の場合嫌な経験であっても、それが実は思慮深くなるきっかけだったかもしれず、ようは経験を活かせることができたことに感謝である。嫌なことは水に流せた私は、それほど深い傷など負っていなかったからでもある。
 だが、私の息子、雄太の場合はどうだろう。あいつにとっての苦労は全くもって必要のないものであったに違いない。それでもそれに耐えるため、乗り越えるために敢えて生まれてきたのだろうか。親から受けた傷というものは、それが幼少の頃ならば、なおさら簡単に治せるものではない。それでも、雄太は私という母親に、なぜか優しいところがある。すこしでも母親を信頼できるなら、きっと他人を信用できるであろう。楽しさと癒しと、喜びを求め、社会に出られる勇気はきっと持っているはず。果ては、将来の妻に優しい夫になれるかもしれない。そのためには、社会人となったら、誰よりも順調に、誰よりも幸せに仕事をしていってほしかった。私の願いが成就したならば、私の育児は終了だ。そしてあの日以来続いてきた負のスパイラルが終焉する。
そんな私の気持ちをよそに、雄太はこのご時世の中、せっかく内定していた神奈川のサロンを断ってしまった。3月11日の震災のあと、入社式が延期になり、その間、自分の歩む道を迷い始めてのことだ。とりあえずは東京の友人のアパートにお世話になりながら、バイトで食いつなぐらしい。結局親がしいたレールなんて、子供は無視するのだな。苦労のすべてが悪いわけではない。頭では分かっているのだが、それでも雄太には、この先苦労させたくなかった。でも、きっとうちの長男は苦労するんだ。親は子供が苦労していても我慢して見て見ぬふりをするくらいの根性がないといけないのだろう。結局雄太の人生は雄太のもの。雄太の心は雄太のもの。だから自分の苦労は自分で背負って、これからもなんとか生き抜いてゆくのだろう。
人生まだまだ長い。私の子供なら何があっても大丈夫だと信じている。たとえ世界が敵になっても、いつでも帰る場所は造っといてあげよう。東京へと旅立つ雄太を乗せたタクシーの姿が消えゆくまで、エンジンの音が消えゆくまで、じっと佇み、夜空の星を仰ぎながら、そう思ったのだ。
平成24年2月 
東京で一人アパートを借りて、バイトは二つ掛け持ちしてやっと生活できているかという雄太から、珍しく電話が入った。信也と一緒にいたらしく、信也が電話口に出た。どうやらご両親に、考えていた就職先ではないのを責められ叱られたらしく落ち込んでいた。
「人生まだ始まったばかりだから、目の前にある自分ができることをやればいいのだろう」
と伝えた。また
「なにかあったら、雄太と一緒に帰って来いよ」
って冗談ぽく言ったのは、本当は本心からだ。
平成24年6月 1年前
そんな雄太が突然帰ってきたのだ。もうすぐ台風がくるというここ岩手に。一年も見ていない雄太はなんだか急に大人びて見えた。すでに雄太の部屋は姉妹が使っており、居間に座って携帯電話をいじる雄太が暇そうだ。もうすぐ、小学生の下校の時間である。私はためしに頼んでみた。夕方5時30分に、私の代わりに小学生の妹二人のお迎えを依頼したのだ。意外や、すんなり引受けてくれた雄太。小雨が降る中バイクで小学校へ。しばらくして、バイクの爆音。玄関前に出ると、次女の美久がニケツして帰宅した。美久を降ろしたらすぐにまた、小学校へ。そして3女の萌をバイクの後ろに乗せて帰宅。萌は「足がガクガクする~」といいながら、バイクに乗せられた興奮を抑えきれない様子であった。一仕事終えた雄太が次に向かった先が、一人部屋にいたすぐ下の妹、舞子の部屋。今は高校2年生になっている。高校へは行っているはずの妹に
「お前学校いってんの?」と聞く。
舞子「最近行ってないよー」
雄太「プッ。お前馬鹿か」
舞子「いいんだよー。ヒキコ最高ー」
雄太「なんで化粧しないんだよ、高校生なんだから化粧しろよ、気持ち悪い」
舞子「高校なんだからまだいいんだよー」
すると雄太は、またバイクに乗り、出て行ってしまった。が、しばらくすると、またバイク音の爆音が台所にまで届いてきた。玄関を開けると、バイクの後ろに誰かが乗っていた。銀色のヘルメットから長くはみ出た茶髪の髪。か細い二つの腕がヘルメットをはずすと、細く長い足で、玄関前に降り立った。それは私にとっても、また雄太にとっても、一年ぶりに会った、美容師学校当時の同級生、奈央だった。
 私は挨拶もそこそこに、居間に座らせると勇んで夕飯を用意した。即席でたいしたものも出せなかったが、奈緒は雄太と二人、きれいに平らげてくれた。食事を終えた雄太は、くわえタバコのまま、突然立ち上がると、隣の舞子の部屋へはいって行った。
「やだよう」
と舞子の叫ぶ声。が、そんなのはおかまいなし、嫌がる妹の腕を兄は無理やり引っ張って、部屋から引きずり出してきた。そしていつの間に用意したのか、奈央の前に置かれた椅子に腰掛けさせた。すると奈央は、持参してきた商売道具を取り出すと、自他共に認める童顔の舞子の顔をメイクし始めた。小学生二人の妹は兄貴に
「タバコ臭い」
と大騒ぎして、それがまた楽しそう。
「またみんなでトランプをして遊びたい」
とも言って、1年前の信也と奈央たちと過ごした震災の時を懐かしんでみせた。だが徐々に綺麗になっていく自分たちの姉を、食い入るように見学しはじめ、だんだんと口数も少なくなっていった。舞子はツケマまでしてもらうと、まるで別人のよう。お人形のように完璧なメイクだ。鏡を見てそれを確認する本人も、まんざらではないらしい。そして舞子は私の要望に答え、メイクアップした自分の顔を、本人の携帯電話でもって写し、私に写メールを送ってくれた。私はそれをすぐに保存し、友人に自慢することにしよう、そう思っての翌日実行した。
舞子のメイクは終り、私もついつい欲がでて、奈央に
「私の髪もちょっと切ってくれない?」
とお願いした。
「本物のはさみがないと切れないかも」
というので、
「それならあるよ」
と、得意げに私の髪切りはさみを出して見せた。普段私が子どもの髪を切ってあげている年期の入ったはさみだ。雄太は
「親孝行だから切れば?」
と、私に加担するも余計なことを言う。
「そうだね」
と奈央。お店では見習い中だからシャンプーしかさせてもらっていないという。それでも美容師学校を出て、真面目に働いている奈央だ。基本はできているし、切らせればとても上手で、それに丁寧であった。
「親孝行しないとね」
と何度か奈央も口にしていたが、私は終始気に留めるそぶりを見せずにいた。私は
「上手じゃない」
と満足げにして我が髪をなでて終わった。
「じゃあ、帰るか」
と雄太が奈央に声をかける。
「お前の家はここだろうに」
と私の言葉にみんな大笑い。夜も更けた頃、おそらくは沢山の友人らの待つ雄太の居場所へと二人が帰って行くのを、みんなで賑やかに見送った。バイクの音もかすんでしまったころ、突然
「お菓子がもっと食べたい」
と舞子が言い出した。では、私と一緒に買い物に行こう、ということになった。舞子はお気に入りのフリルのスカートに着替えると、化粧はそのままに夜中私と買い物に出た。
舞子「久しぶりの外出だ」
私「近くのコンビニに行くのに外出なの?」
舞子「ま、ヒキコですから」
なんとも明るいひきこもりの女子高生だ。自分で自分をヒキコというが、家庭内では、ヒキコではないから、きっとこの先、生き抜けるだろ。学校がすべてでなし、勉強がすべてでなし、ましてやお金や役職も関係ない。だって最後は性格ですから。不登校になってから、子猫を二匹舞子にあずけたが、ちゃんと毎日面倒をみているようだ。猫になにかと声をかけては、可愛がってもいるから、母性本能はちゃんと備わっている。だから私と違ってきっといい母親になるだろう。
雄太と奈央は「親孝行しないとね」と、そういえば言っていたな。本当はとっくに孝行し終わっているのに。親のそばで親の手をかけさせていることが、親孝行だよ。だって子育ては親の本望だから。だから子どもが巣立つときには、いままで私の子供でいてくれてありがとう、といって思い切り、親がからめた太い糸をぶった切らないといけない。それが親の務めであり辛抱強さだろう。私もいつまでも雄太や信也や奈央に執着していては、親として成長しないのだろう。今は目の前にいる舞子ら3人の女に手をやきながら、親孝行してもらおう。私の複雑な心境をよそに、狭いコンビニの中、意気揚々と食品を選んでいる舞子。自慢のミニスカの裾を揺らしながらのその横顔、いつもよりなんだか自信がみなぎっているぞ。大好きなお菓子を手に入れて、スーパー袋を片手に提げ、夜中の町を闊歩する舞子の姿に、キラキラ未来が見えた気がした。

平成25年
舞子 未来を見据えた本人は専門学校に入学を希望し、夏休み返上で学校に通学中。
雄太 東京のアパートで一人暮らす。就職し、今でも信也と交友し、相変わらず自由に楽しく毎日を謳歌している模様。

平成27年現在

舞子 専門学校では、周囲の予想をはるかに超えて、活躍中。なぜかクラス内でトップを争いながら、学生生活をエンジョイしている模様。弁当は自分で作る。が、モットーらしい。
私的には弁当より、自分の部屋の掃除に力を入れてほしいところではある。

雄太 現在東京で飲食店の店長兼料理人をやっている模様。結婚は30歳まではしないらしい。時々我が家に顔を出すことがあるが、依然宿泊せず、お土産を置いたら友人とどこかへ消え去るのが常である。

余談であるが、せっかく舞子が不登校から抜け出して、リア住してよかったよかったと胸をなでおろすことなく、3女が現在不登校中。週に3日くらいは学校に行っていたのが、ここ3カ月、月1回の学校への御出勤。

不登校児との対峙について、私なりに勉強したつもりでいたのであるが、どうやら卒業証書はまだ頂けないらしい。これは私の罪に対しての反省が足りないということでもあろうと思うにつけ、3女の様子は随時掲載予定。

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私の懺悔的回想 2

2015-07-06 01:30:37 | 気ままわがままつれづれなるまま
平成23年4月
新年度もはじまり、美久の地震恐怖症がやわらぎ始め、空虚な生活がしばらく続いたある日のこと。大きなメロンが数個、我が家に青森から届いたのだ。しかし青森に私の親類はいないし、どうしたのだろう。と、札をよくみたら、送り主は奈央の名前であった。どうやら奈央が実家の母親にお願いして、送ってくれたメロンらしい。大きくて甘くて、これまで食べたメロンのどれよりもすごくすごく美味しくて、子どもたちも大喜びであった。電話で雄太から奈央に連絡してもらい、お母様によろしくお伝えしてくれとお礼を言ったのだが、恐縮極まりない事態であった。
平成23年4月18日 
信也と奈央と一緒に家を出ていったきりだった雄太が、やっと我が家に帰って来た。しばらくぶりに見た息子の顔は、だいぶ痩せこけていた。やっと帰ってきたかと思ったら、旅の支度だった。就職先の東京に今晩、夜行バスに乗って出立するという。一足先に旅立った信也のいる東京に、たいした荷物も持たず、たいしたお金も持たせられずに行くらしい。
夜空にぼんやりと浮かぶ雲の隙間から、時々差し込む月の光と、田んぼを挟む自宅裏のコンビニの明かりが頼りの深夜の自宅前。それでも雄太の表情はいつもと変らないのが見て取れた。タクシーがきた。ボストンバックを一つ後ろの座席に放り込み、
「じゃあ」
そういって自分も乗り込んだ。私は
「がんばれよ」
と声をかけ、すかさず
「死にそうになったら帰ってこいよ」
そういうと
「うん」
と素直な返事が帰って来た。案の定、クールなお別れだ。走り去るタクシーの姿が遠のいていく。なんだか心に穴が開いたような、妙な感じになった。心の中に風が吹くってこういうことか。
翌日の朝。新6年生と新5年生となった美紅と萌がいつも通り元気に出て行った。遅れてすぐに、新高校生の舞子が玄関に降り立つ。
「夕べお兄さんが東京に行ったよ」
と、教えてあげたら
「知っている。今までも家にいないのが多かったから、変らない」
と、屈託なく言う。舞子は転校前の小学校で、6年の冬から、実は不登校となっていた。中学になっても、数えるくらいしかか通ったことがない立派な不登校生。雄太は「学校行っていないの?」と、最初の頃、一度私に聞いただけで、あとは全く干渉してこなかった。5才も違うしね。でも利口な方法だ。私の親もはじめは、無理に学校に行かせようとしていたが、それも無理とわかると、本人のペースに任せてくれた。舞子は不登校が始まると同時に想い鬱になり、地獄の地面を這いつくばっていた。だから私は、舞子の完全なる居場所が必要だと考えた。それゆえ妹たちには舞子を「お姉ちゃん」と、徹底して呼ばせ、姉の威厳を持たせた。これは後に紹介する恩師の秘伝の術である。
だから、学校に通っていなくても、頭が良かったり、器用な姉を、妹たちは尊敬しているようだ。鬱状態の舞子に引き込まれないよう私自身が注意を払い、常に明るく振舞って接していくうちに、舞子も徐々に明るさを取り戻していった。子どもは親の鏡。親が不幸なら子どもも不幸を背負うと私は舞子に教えられたのだ。私の不幸を舞子が背負ってしまったから、子ども社会のストレスに負けてしまったのだ。ならば、私が幸福になれば、舞子が幸せになり、それは生命力にも、またストレスにも負けない心を作ると、やっと悟ったのは不登校児のお陰であった。
人生の休憩を十分にしてのことか何なのか、高校に入りたいと言い出して、中学校の保健室に登校するようになった舞子。そのかいあって、私立の高校に内定をいただいていたのだが、それでもまだ希薄さが感じられる3月のこと。舞子のエネルギーがみなぎる一瞬の出来事があった。それはまぎれもない大震災の時だ。数日してテレビから流れてくる東北の沿岸の悲惨な報道を見て
「私ってなにやってるんだろう。このままじゃだめだ」
そう言って、手始めにノートに漢字練習を書き込み始めたのだ。私には見えないが、オーラのような何かが、舞子を大きく包んだかのようなそんな一瞬であった。そして、4月の春から、意気揚々と高校に通い始めていたのだった。今からは肌でいろいろなことを体験していってくれるだろう。
「お兄さんのコミ力が欲しい!」
そう言って自虐ネタで笑わせる舞子もなかなかの者なのだが。がしかし、控えめな舞子に比べ、交友関係には事欠かない雄太。思えば雄太が中学の頃には、父親はいなくなっていたから、雄太の育児は、それからが本番だったのかもしれない。 
子はかすがいとはよくいったもの。夫婦というものに、子供ができたのであるなら、子供を第一に考え、子供を中心に生活することが、夫婦が仲良く生活できる秘訣なのではなかろうか。それなのに、私には強い夫がいたために、子供がないがしろになっていたのが本当だ。私たち夫婦の第一の被害者は長男であった。
 私の夫は、普段は子どもにも愛情を注いでいたのは事実であるが、ふとしたことで、夫の機嫌が悪くなると、ストレスを実の長男である雄太に向けるときが多々あった。頭を叩いたり、腕立て伏せをむりやりさせたり…
長男が困っていたり苦しんでいるのを私はかばおうとするが、夫はもっと長男を苦しめようとする。だから、夫の気分が治るまで、長男が困るところを夫が見届けるまで、私は雄太をかばいたい衝動をこらえてきた。しかし物ごころついてからずう年間、辛抱してきていた雄太が、ついに切れたことがあった。
 小学6年の夏、雄太は、私と私の母親の前で、生まれて初めて自分の気持ちを吐露した。居間のソファーに座り、自分の飼っているウサギのキキを、ぎゅっと胸に抱きよせながら、
「親父を殺してやる」
そう言った。私の母親は、当然どうしてかと聞いた。私はきっと雄太が、自分がいじめられていることを祖母に訴えるのかと思った。しかし、違っていた。雄太が今腕に抱いているウサギは、雄太が幼稚園の頃から飼い始め、かれこれ8年位になるだろう。幼いころからいつも一緒に遊んできたキキ。雄太は学校から帰るとキキを小屋から出しては、自分にはべらせて遊んでいた。目を離してしまっても、小屋に戻ってくるので、あまり心配がなかった。キキが小屋から離れ、ご近所の猫と仲良くなったはいいが、なぜかがキキが猫数匹を引き連れて、先頭になって道路を歩いていたのには驚いた。長年連れ添ったペットに雄太は人一倍愛情を注いていたのは確かだったが、そんな雄太に父親は、
「キキを山に連れて行って放してしまうぞ」と、意地悪く言うことがよくあったのだ。雄太は、
「それが我慢できない」
という。叩かれれば体と心が痛いが、言葉で人の心をなじるのは、想像以上にその人の心と人生を歪ませてしまうらしい。私も何度か夫から叩かれたことはあるが、今心に残っているのは確かに言葉の暴力と、執拗で陰湿ないじめだ。だとすると、長男は幼少期から、陰湿ないじめを受けて育ったのだから、影響がないわけがない。
「お父さんが怖い」
と言って、震えながら一人ベットに入っていたときも、私は夫の神経を落ち着かせるために、そのまま長男の部屋をでて、普段どおりの生活をしてみせていた。長男はずっと一人で耐えていた。
 結婚して12年目、仕事先を辞めてしまってからの夫は、正常な神経ではなくなっていた。だから話し合いなど無理である。そんな時、2度とやるなと叱っていた雄太の火遊びがばれて、夫は雄太の顔を数回大人の、そして男の力でおもいきり殴った。〈パン〉という大きな音と共にドバドバと雄太は鼻血を出した。夫は鼻血を出す自分の息子を心配するでなし、
「家がきたなくなったから、早く拭けや」
そう言い放った。翌日腫れた顔をしたまま雄太はいつもより長く私の目をみながら、
「行ってきます」
その一言だけ言って学校へ行った。夫は躾けることが正義。息子は強い父親のストレスを紛らわすための火遊びが正義。だが、独りよがりの正義など本当の正義ではない。
雄太が幼い時、私たちは東京で生活していた。夫との生活が辛くなり、私は雄太を連れて岩手の実家に家出をしたことがある。が、結局は夫から電話があり、説得され、東京のアパートに帰ったのだが、数日間いなかった雄太郎を、夫は
「もう俺になつかないだろ。きっと嫌っているだろう」
という。しまいには、
「可愛くないから2階から落とせ」
ともいう。私は夫の陰湿な言葉いじめをなんとかかわし、布団に雄太と寝るのだが、わずか2歳の雄太を夫は、わけもなく「わあっ」と何度も脅かして見せた。自分が泣けばまたさらに、脅されるとわかっていたのか、雄太は無言で、布団の中にある私の手をぎゅっと握りしめた。私も夫に気づかれないようにしながら、負けじとぎゅっと握り返し、二人して辛い夜をやり過ごした。雄太の負のスパイラルが始まったのは、この時からだろう。また家出してしまうかもしれない私に不満をぶつけられない夫が、一番身近で簡単にストレスを発散できる対象を見つけてしまった瞬間だ。私が雄太に試練を与えてしまった張本人であったのだ。父親からのストレスが、中学、高校と、ずっと続いたら、きっと弱者である雄太は、強者を殺すしかなくなる。負のスパイラルに終わりは無いのだ。終わらせたいなら、大きな変換。大きなプラス要因が必要だった。
雄太が、初めて吐露した翌朝。私は夫の目を盗み、長男と下に続く3人の姉妹を連れて、静かに玄関を出て、車に乗り込み、私の姉が嫁いでいる家に、なりふり構わず転がり込んだ。夫は元の生活に戻ることを望んでいると、姉に伝言で伝えてきたが、私は、もう無理であると姉を通して伝えた。夫は「しばらく東京で働いて、私の気持ちが落ち着いたら帰ってくるから」そう言って、田舎から出て行って、そのまんま行方しれずになった。
 夫は、実に小心者だった。自分への子どもの愛情を常に確認し、また子どもに嫌われるのを恐れていた。子どもが機嫌よく夫に近付けば可愛がり、少しでも不満そうな顔を子どもにされると、子どもは憎しみの対象となる。それは自分の親との関係の希薄さからに違いない。夫は実の親から虐待を受け、大人になってもずっとこだわりを持っていたからだ。
夫は幼いころから殴られていた記憶がある。箸の持ち方が悪いから、という理由も言われずに、いきなり父親に殴られたものだ。とよく口にしていた。母親に対しても、不満を漏らしていた。正月のお年玉は、母親のバックの購入資金にされた、だの、父親に殴られる自分を笑って見ていただのと。
だが、そんな両親も小学生のころ、離婚してしまい、それから母親と二人で生活し始めるのだが、離婚後も、手に負えない自分の一人息子の教育指導のため、母親は元夫を電話で呼び、長男で一人っ子の夫に、父親から威圧的な教育をうけさせていたらしい。
 子どもは誰を頼りにするかというと、一番に母親であろう。たとえ父親が悪くても、母親次第で、子どもの人生がかわるのかもしれない。誰が何と言おうと母親の愛情が十分に感じられて育った人間は、一度や二度、人生の選択を誤ったとしても、必ずまっとうな道に戻れると確信する。だが、母親の裏切りを感じて育った子どもは、その傷はさらに深く、人生の修復が実に困難極まりない。
夫の神経が、私のおかげで治るだろうと確信して結婚した訳であるが、それはみごとに打ち砕かれた。簡単に人をコントロールできるはずがないが、若い頃の私はそう信じていた。この判断の甘さが、今の現実を引き起こし、悪いのは誰でもない自分自身である。
 私の親族は、夫の肩を持ってあげる度量があったから、私が怒らせるから悪いのだ、と天涯孤独状態の夫の肩を持つ。だが、それは本当のDVを知らないから言えることでもある。夫の爆弾はいたるところにあり、どこで地雷を踏んでしまうのか誰にも解らない。またそれは理屈でない。だから夫と口論したことがない。感情的な相手には黙るほかなかったからだ。喧嘩できる夫婦はうらやましい。   
 夫は天涯孤独と言ったが、故郷に戻り、父親と再会を果たしている。
夫は私と長男、長女を連れて、自分の故郷に帰った時があった。そのとき自分の父親に連絡して、数年ぶりに再会を果たした。お父さんは、すでに結婚されていたのだが、急な呼び出しにも、快く応じてくれて、初めて会う孫に、おもちゃを沢山買ってくれたり、ステーキをおごってくれたりした。そんな自分の父親に、夫は
「俺の小さいころの時の対応とまったく違うな」
そういうと、お父さんは
「あの頃は悪かったよ」
と一言、優しい目をして夫に詫びた。世間では、甘やかすのが悪いと口々にいう。だから新米親は、きちんと子どもを育てようとして、頑張り過ぎてしまう。躾に捉われて、感性を潰してしまうことに、気づかないまんま子どもはどんどん成長するのだ。自分の子どもであっても、自分の思い通りにならないこと。また自分の物ではないことを、今になって理解した自分の父親を、夫はこの時初めて許す気になったのだろう。それ以来、夫は毎日のように口にしていた子どもの頃の虐待話はしなくなっていった。それでも時々噴火してしまう怒りは、きっと母親との確執からなのではと思えてならない。
 私は母親とも夫と再会してほしかったのだが、それは叶わなかった。夫が母親と電話したとき、自分の始めての子、雄太を見せに、会いに行きたいといったが、断られたからだ。とうに勘当したのだから、今更会う必要はないのだという。
 それもまた仕方がないことだった。おそらくは中学、高校時代、夫は母親に反抗するだけして、しかも、親の立場が無いまでに学校や世間に迷惑をかけていたはずなのだ。数年ぶりの母親との電話は、夫の心に深く影を落としてしまう結果となった。
だが、後日、突如として私たちのアパートに荷物が届いた。衣装ケースが4個もだ。狭いアパートの床はケースで一杯だ。送り主はむろん義母さんからだ。中には沢山の衣類や生活用品等々。1歳の雄太には、新品の有名メーカーの服がズラリ。高額な品だけに、洗濯を繰り返してもまったくへこたれず、結局、雄太の12歳下の、舞子を育てるまで活用させていただいた。私に至っては、何着もの女性用スーツを、20年以上たった今でも、大事に使わせてもらっている。入学式だの、やれ卒業式だのと、なんたって4人の子持ちの私だから大助かりなのだ。衣装ケース4個もの大荷物は、実の子である夫への、母からの応援メッセージに違いなかった。それでも夫の心の傷は、衣装ケース4つでは埋まるはずもなく、自分の母親への不信感は、自分の子どもへの不信感となっていったかに思える。
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私の懺悔的回想 1

2015-07-05 23:34:22 | 気ままわがままつれづれなるまま
  回想 震災を経て              
平成24年6月 1年前
東京でバイト暮らしの長男雄太が、盛岡の実家に突然帰って来た。小雨降るなか、修理に出していたバイクに乗って突如登場。何食わぬ顔をして、玄関から入ってくるや、
「今から東京にバイクに乗って帰る予定なんだけど」
という。実家に寄るつもりはさらさらなかったようだ。だがしかし、これから台風が岩手に来るという天気予報に、躊躇し始め、仕方なし実家に身を寄せたらしいのだ。
結局バイクは、自分で運ぶことを諦め、運送業者に依頼して東京に運んで貰うことになった。段取りが済んだ雄太は、居間に座り込むと、安堵した顔で煙草をふかし始めた。その横顔が1年前よりふっくらしていたから、なんだか少し安心した。あの出来事がら、そう、早一年が経つ。忘れもしないあの出来事から。
平成23年3月11日 2年前
普段通り買い物から帰った私は、自転車を自宅の前に留めた。すかさずスーパーの袋いっぱいの荷物を籠から取り出し、自宅玄関の戸を開ける。荷物を置いたその時、何やら遠くのほうから地面の唸り声がする。と、次の瞬間、それは自分の足元へと移動した。それから、私の体が左右に揺り動かされるが、それは自宅も同じくで、生まれて初めて体験する規模の大きな地震であった。なんとか立っていられた私は、玄関から飛び出し、道路わきに留めてあった長男のバイクに駆け寄り、車体にしがみついた。
「雄太!早く来て!雄太!」
おそらくは、玄関からすぐの自分の部屋にいるはずの、長男の名を大声で叫ぶと、私は転ばすまいと必死にバイクと格闘した。地震は収まる気配がない。近くに駐車されていた乗用車に目をやると、地面の動きに合わせて、どうしようもなくグラグラと揺らめいている。
「そんなのいいから!!」
玄関の奥から姿は見せず、雄太の声がした。
どうやらバイクは放っておけということか。だがそうはいかない。バイクの持ち主は、実は、私のいとこなのである。雄太は自分の叔父さんから、バイクを借りていたのだ。とそこへ、家の中から若い女の子が飛び出してきた。裸足のまま出てきたその子は、私と向かい合わせで、バイクを一緒に支えてくれた。初めてこんなに近くで見た気がした。名前を奈央といった。
この日の3日前。下に妹三人が控える4人兄弟の長男雄太の、美容師専門学校の卒業式があった。校長先生がご挨拶していた式の途中、震度4ほどの、珍しく大きくて長い地震にみまわれた。今にして思えば余震だったのだろう。天井の照明が大きく揺れて、会場がどよめいたほどだ。その後は難なく無事に式を終えて、親としても安堵したのを思い出す。
卒業後、雄太は自分の部屋に親しい友人の奈央と、親友の信也を招き入れ、3人で夜となく昼となく一緒にいて、しばしの別れを惜しんで、私の家で過ごしていた矢先、この大地震が起きたのだった。
私はバイクごし、娘三人の名を呼んで、外に出るよう叫んだ。だが、しばらく待っても、誰も出てくる様子がない。仕方なし、バイクを一人奈央に託し、揺れうごめく自宅床と格闘しながら奥へと入っていった。雄太と信也が二人、台所の茶たんすや、レンジやらを支えていることにはまったく触れず、一番奥の居間に向かった。居た!こたつの下から出てきたのは、中学3年の長女の舞子。それに続く小学5年生の美久だった。
「なんで出てこないの、この家は新しくないから、危ないのに。」
娘らは
「聞こえなかった」
と、青い顔をしながら言い訳すると、私と一緒に外に出た。
それからしばらくしてやっとこの大きな地震は収まった。だが、末の4年生の3女、萌の姿がない。次女に聞くと、どこかに出かけたらしいという。とりあえず持ちこたえてくれた自宅家の中に娘らを戻すと、専門学校を卒業したばかりの新社会人となる雄太と信也、それに奈緒を引き連れ、ご近所を数軒回ってみた。どなたも
「大丈夫ですよ」
と返答してくれた。最後に向かったお家ではそこのご主人が、玄関の真ん中で大きな鏡を支えていた。足元には沢山の鉢植えが散らばっている。ご主人は遠慮がちであったが、雄太ら三人は若いから手伝わせてくださいと言い、片付け作業にとりかかった。
私は3人にそれを任せ、自宅に戻ろうとするや、末っ子の萌がとぼとぼと友達二人と一緒に帰って来た。なぜか全員服が濡れている。親にも誰にも無断で近所の大型スーパーに行って、この大地震にあい、天井のスプリンクラーが作動したらしく、頭から足から濡れて帰ってきた。きっとバチが当たったんだよ、と叱ってやった。だが、無事で何より。
雄太らがやっと帰ってきたかと思ったら、いきなり茶碗やコップやらを、ダンボールに詰めはじめた。どうやら余震対策らしい。家具という家具も全て釘と紐で固定してくれた。結果我が家の損害は、私のお気に入りのマグカップ一つだけ。その残骸を見た私は
「えー!割ったの!?」
と、いつもの冗談で言ったのだが
「それだけだからいいだろう」
と雄太が言い返した。よそでは、テレビや電子レンジや、割れたコップが床に散乱したというから、雄太の言うことはもっともだ。
翌日、1キロと離れていない隣の地区のアパートに住んでいた私の姉と、その長女の二人が家にやってきた。余震もひどくて怖いから共同生活しようということになり、息子の友人二人を合わせ合計9人の生活がしばらく続くこととなった。
大きな余震の度、次女の美久は青い顔をして、我れ先に玄関に飛び出す。私はまずは末っ子の4年生の三女を先に玄関に逃がして、それから1歳上の自分が逃げるのだよ、と言ったが、
「それは無理。自分のことだけで精一杯」
と真剣に言うから、納得した。このあとの数日間は、停電のため苦労した。コタツが使えない。石油の温風ヒーターも使えない。一台だけあった電気コードのいらない石油ストーブをつけるが、それでも寒かった。ガスは使用できたが、水が出なかった。お隣の地区ではまだ水がでていたので、姉のアパートからタンクで水を運んだ。また、石油のポリタンクを2つ空にして、そこに熱湯をつめた。それを自宅に持ち帰り、息子の部屋と女だけが6人いる和室のこたつの中に、ポリタンク湯たんぽを入れた。それはカンカンに熱くて、まる二日か三日は暖がとれた。時にこの湯たんぽでレトルトを暖めたりもした。東北の3月はまだ寒い。 
そんなある夜のこと。雄太が私を呼んだ。「マージャンするから、一人足りないから入って」
と言う。そこでチビたちが寝静まったあと、私は雄太の部屋に入り、テーブルの真ん中にローソクを一本灯しながら、こたつの板をジャン卓にして、ジャラジャラ音をたてながら、真剣に麻雀にいそしんだ。その間も余震はあるが、誰もそれに触れることなく麻雀を続けた。突然雄太が私に質問した。
「なんで、母さんは麻雀ができるの?」
「えっ?」
私は一瞬たじろぎ、次にはなぜか笑いが込み上げてきた。
「言っとくけど、真面目な高校生だったんだよ。でも男子とも仲良かったからね」
そう答えるのが精いっぱいであった。昔の私は遊び癖があり、それを長男に話をしたら、きっと同じように、羽目をはずす子どもに成るだろうからと思い、自分の学生時代の事は極力話さないでいたのだが。
 がしかし、血は争えないらしい。私の学生時代同様、雄太は、高校生のころから、休日は、自分の部屋に友達を呼ぶか、または自分が友達の家にいくか、とにかく大勢の誰かと一緒にいた子である。
 友達といる事がきっと雄太の力になっているだろうから、私はあえて、とやかくいうこともなく、寛容に受け止めていた。私自身、自由奔放に育ったのだが、だからこそ自分の行動に責任を感じ、親に恥じない生き方をしないといけないような、見えない圧力を自分は感じていたように思う。
私は麻雀の役など詳しくないのに、引きがどうやら強いらしい。実は学生時代マージャン放浪記でも有名な幻の役と言われる九連宝鐙で上がったことがある。と、この話をしても、誰も信じてくれないことが難点である。などと、そんな想い出話もしながら、私が一人勝ちして、朝はまた来た。
翌日も、さらに翌日も電気は来ないから、携帯電話の電池も切れ、ワンセグが見られないから、社会から遮断されているかのような妙な寂しさがあった。しかしその数日後、やっと水や電気が復旧し始めた。たとえ冷たい水でも、台所で食器を洗うことができるなんと幸せなことか。信也と奈央は食べた食器を洗ってくれたり、買い物の荷物を持ったりとよく働いてくれていた。だが盛岡のスーパーに品物が入ってこないという状況になり、我が家の米も底をつきかけたときだ。
わたしは信也と奈央にどうにか実家に帰れないか話してみた。一人は青森で一人は二戸に実家があった。親も心配しているだろうし、余震のこともある。車で途中まで送ろうかとも話をした。だがガソリンもないからそれも難しいことだった。雄太は私が友人らを追い出す話をしたものだから、顔をこわばらせ、怒りをあらわにした。それを見た私は頭にきて、
「これだけ世話したのになんで恨まれるんだよ」
と私は息子の顔に反論した。しかし彼は無言のままだった。結局その日のうちに信也と奈央は我が家から立ち去ることで了承してくれた。
「本当にお世話になりました」
と奈央。信也は
「東京に行ってビックになってきます」
と半分おどけてみせた。私は
「すでにみんなビックなんだよ。あとは自分がどのくらい人にサービスできるかだよ」
と言ったら、
「そうですよねえ」
と言って笑った。それから二人は深く頭をさげると、雄太と一緒に、友人の車に乗り込んで去って行った。
私は米が無くていたのだが、親類に電話したら、知り合いの農家に声をかけてくれて、そこから米を購入することができた。
雄太ら三人は、どうやらほかの友人の家にあがりこんで、なんとか食べているらしかった。私は〈実家に帰らないなら、米があるから連れて返ってこい〉と雄太に何度もメールした。それでも反応がないから、3人のいるかもしれないうる覚えのマンションを、夜中一人でぐるぐると巡ってみたりもした。しかし、あの明るい三人の声も姿もなく、諦めて一人自宅に帰った。 
朝方のまだ薄暗い中玄関を入ると、私はすぐにトイレに入り、静まり返った闇に包まれながら嗚咽した。震災後、夫の居ない我が家では、一家の柱が私であった。子どもたちの前では気丈にしていたが、半人前の小学生二人の命が私一人にかかっているかと思うと、強い余震が来るたびに、大きなストレスを感じ、また実は心細かった。いまだ安否が分からない釜石の親類のことも不安にさせた。こんなときあいつらがいれば…。私は初めて震災の見えない恐怖と、それにも増して、人を傷つけた罪の深さにおそれおののき泣いた。海原に放り込まれた3人はどうしているんだろう。人を傷つけることがこんなにも痛いのかと、本当は知っていたはずの、すでに40歳も過ぎた大の大人を私は許せない。
「いい加減帰ってくれないか」
昔私が学生時代に、友人宅で言われた言葉だ。あれは夏休みだったはず。その時バイトに出ていた友人のお母さんに、何日も居座っていた私も含めた悪友3人が言われた言葉である。自分たちの楽しい世界の中で生きていた時代。私たち3人は、友人の家を出て、数日ぶりの岐路の途中、バイトを終えた友人とばったり道で会った。結局、そいつに連れられ、つい先ほど叱られたばかりのお宅に舞い戻ると、4人でまた、たわいのない話と麻雀で、長い夜を過ごすのだった。私たち悪友は、他人の家で平気でご飯をお代わりし、お世話されるのが、当然のように暮らしていた。休日、家に居付かない私を、母親がくどくど注意してくれていたのは記憶がある。その、お小言に、私は「はい、はい」と返事をしながら、自転車のスタンドを外し、友人宅に向かったことも覚えている。親として多少の心配はしてくれていたに違いない。だが、私を強制的にどうこうしなかったのは、例え友人らと遊ぶにしろ、特段悪さをするでもないと、理解してくれていたからに違いない。
高校の学校の中でもそうだ。担任の山口先生は大ベテランの男性の先生で、男子からも怖い存在であったが、私に対しては、何をやっていても一度も叱る事が無く甘やかしていた。私は柄でもない生徒会に、1年の頃から入ったので、仕方なし仕事をこなしていたわけであるが、結局クラスのまとめ役にも、また学校全体のことも私が荷を負う場面が多くなり、気の強かった私は仕切り役であった。
そのせいなのか、学業でクラス一番でも無い私に山口先生は、学校代表として青少年の船の研修に行くよう勧めてくれたり、卒業生代表で答辞を読む役は、私を指名してくれたりもした。
小学校の太田先生の出会いからはじまり、就職するまでの学生時代、先生も、そして友人ら誰もが私に優しくて、何のストレスも感じないまんま青春時代を謳歌したことは、私にとって一生の宝であり、人生の生きる力となっている。あの震災のさなかの麻雀タイムは、私の若い時代をほうふつさせた。だから息子の友人も、昔の私の友人のようにさえ感じられる瞬間であった。また、息子をうらやましくも思えた。
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