愛の種

 
 猫がいる限り アセンションが止まらない
  

私の懺悔的回想 1

2015-07-05 23:34:22 | 気ままわがままつれづれなるまま
  回想 震災を経て              
平成24年6月 1年前
東京でバイト暮らしの長男雄太が、盛岡の実家に突然帰って来た。小雨降るなか、修理に出していたバイクに乗って突如登場。何食わぬ顔をして、玄関から入ってくるや、
「今から東京にバイクに乗って帰る予定なんだけど」
という。実家に寄るつもりはさらさらなかったようだ。だがしかし、これから台風が岩手に来るという天気予報に、躊躇し始め、仕方なし実家に身を寄せたらしいのだ。
結局バイクは、自分で運ぶことを諦め、運送業者に依頼して東京に運んで貰うことになった。段取りが済んだ雄太は、居間に座り込むと、安堵した顔で煙草をふかし始めた。その横顔が1年前よりふっくらしていたから、なんだか少し安心した。あの出来事がら、そう、早一年が経つ。忘れもしないあの出来事から。
平成23年3月11日 2年前
普段通り買い物から帰った私は、自転車を自宅の前に留めた。すかさずスーパーの袋いっぱいの荷物を籠から取り出し、自宅玄関の戸を開ける。荷物を置いたその時、何やら遠くのほうから地面の唸り声がする。と、次の瞬間、それは自分の足元へと移動した。それから、私の体が左右に揺り動かされるが、それは自宅も同じくで、生まれて初めて体験する規模の大きな地震であった。なんとか立っていられた私は、玄関から飛び出し、道路わきに留めてあった長男のバイクに駆け寄り、車体にしがみついた。
「雄太!早く来て!雄太!」
おそらくは、玄関からすぐの自分の部屋にいるはずの、長男の名を大声で叫ぶと、私は転ばすまいと必死にバイクと格闘した。地震は収まる気配がない。近くに駐車されていた乗用車に目をやると、地面の動きに合わせて、どうしようもなくグラグラと揺らめいている。
「そんなのいいから!!」
玄関の奥から姿は見せず、雄太の声がした。
どうやらバイクは放っておけということか。だがそうはいかない。バイクの持ち主は、実は、私のいとこなのである。雄太は自分の叔父さんから、バイクを借りていたのだ。とそこへ、家の中から若い女の子が飛び出してきた。裸足のまま出てきたその子は、私と向かい合わせで、バイクを一緒に支えてくれた。初めてこんなに近くで見た気がした。名前を奈央といった。
この日の3日前。下に妹三人が控える4人兄弟の長男雄太の、美容師専門学校の卒業式があった。校長先生がご挨拶していた式の途中、震度4ほどの、珍しく大きくて長い地震にみまわれた。今にして思えば余震だったのだろう。天井の照明が大きく揺れて、会場がどよめいたほどだ。その後は難なく無事に式を終えて、親としても安堵したのを思い出す。
卒業後、雄太は自分の部屋に親しい友人の奈央と、親友の信也を招き入れ、3人で夜となく昼となく一緒にいて、しばしの別れを惜しんで、私の家で過ごしていた矢先、この大地震が起きたのだった。
私はバイクごし、娘三人の名を呼んで、外に出るよう叫んだ。だが、しばらく待っても、誰も出てくる様子がない。仕方なし、バイクを一人奈央に託し、揺れうごめく自宅床と格闘しながら奥へと入っていった。雄太と信也が二人、台所の茶たんすや、レンジやらを支えていることにはまったく触れず、一番奥の居間に向かった。居た!こたつの下から出てきたのは、中学3年の長女の舞子。それに続く小学5年生の美久だった。
「なんで出てこないの、この家は新しくないから、危ないのに。」
娘らは
「聞こえなかった」
と、青い顔をしながら言い訳すると、私と一緒に外に出た。
それからしばらくしてやっとこの大きな地震は収まった。だが、末の4年生の3女、萌の姿がない。次女に聞くと、どこかに出かけたらしいという。とりあえず持ちこたえてくれた自宅家の中に娘らを戻すと、専門学校を卒業したばかりの新社会人となる雄太と信也、それに奈緒を引き連れ、ご近所を数軒回ってみた。どなたも
「大丈夫ですよ」
と返答してくれた。最後に向かったお家ではそこのご主人が、玄関の真ん中で大きな鏡を支えていた。足元には沢山の鉢植えが散らばっている。ご主人は遠慮がちであったが、雄太ら三人は若いから手伝わせてくださいと言い、片付け作業にとりかかった。
私は3人にそれを任せ、自宅に戻ろうとするや、末っ子の萌がとぼとぼと友達二人と一緒に帰って来た。なぜか全員服が濡れている。親にも誰にも無断で近所の大型スーパーに行って、この大地震にあい、天井のスプリンクラーが作動したらしく、頭から足から濡れて帰ってきた。きっとバチが当たったんだよ、と叱ってやった。だが、無事で何より。
雄太らがやっと帰ってきたかと思ったら、いきなり茶碗やコップやらを、ダンボールに詰めはじめた。どうやら余震対策らしい。家具という家具も全て釘と紐で固定してくれた。結果我が家の損害は、私のお気に入りのマグカップ一つだけ。その残骸を見た私は
「えー!割ったの!?」
と、いつもの冗談で言ったのだが
「それだけだからいいだろう」
と雄太が言い返した。よそでは、テレビや電子レンジや、割れたコップが床に散乱したというから、雄太の言うことはもっともだ。
翌日、1キロと離れていない隣の地区のアパートに住んでいた私の姉と、その長女の二人が家にやってきた。余震もひどくて怖いから共同生活しようということになり、息子の友人二人を合わせ合計9人の生活がしばらく続くこととなった。
大きな余震の度、次女の美久は青い顔をして、我れ先に玄関に飛び出す。私はまずは末っ子の4年生の三女を先に玄関に逃がして、それから1歳上の自分が逃げるのだよ、と言ったが、
「それは無理。自分のことだけで精一杯」
と真剣に言うから、納得した。このあとの数日間は、停電のため苦労した。コタツが使えない。石油の温風ヒーターも使えない。一台だけあった電気コードのいらない石油ストーブをつけるが、それでも寒かった。ガスは使用できたが、水が出なかった。お隣の地区ではまだ水がでていたので、姉のアパートからタンクで水を運んだ。また、石油のポリタンクを2つ空にして、そこに熱湯をつめた。それを自宅に持ち帰り、息子の部屋と女だけが6人いる和室のこたつの中に、ポリタンク湯たんぽを入れた。それはカンカンに熱くて、まる二日か三日は暖がとれた。時にこの湯たんぽでレトルトを暖めたりもした。東北の3月はまだ寒い。 
そんなある夜のこと。雄太が私を呼んだ。「マージャンするから、一人足りないから入って」
と言う。そこでチビたちが寝静まったあと、私は雄太の部屋に入り、テーブルの真ん中にローソクを一本灯しながら、こたつの板をジャン卓にして、ジャラジャラ音をたてながら、真剣に麻雀にいそしんだ。その間も余震はあるが、誰もそれに触れることなく麻雀を続けた。突然雄太が私に質問した。
「なんで、母さんは麻雀ができるの?」
「えっ?」
私は一瞬たじろぎ、次にはなぜか笑いが込み上げてきた。
「言っとくけど、真面目な高校生だったんだよ。でも男子とも仲良かったからね」
そう答えるのが精いっぱいであった。昔の私は遊び癖があり、それを長男に話をしたら、きっと同じように、羽目をはずす子どもに成るだろうからと思い、自分の学生時代の事は極力話さないでいたのだが。
 がしかし、血は争えないらしい。私の学生時代同様、雄太は、高校生のころから、休日は、自分の部屋に友達を呼ぶか、または自分が友達の家にいくか、とにかく大勢の誰かと一緒にいた子である。
 友達といる事がきっと雄太の力になっているだろうから、私はあえて、とやかくいうこともなく、寛容に受け止めていた。私自身、自由奔放に育ったのだが、だからこそ自分の行動に責任を感じ、親に恥じない生き方をしないといけないような、見えない圧力を自分は感じていたように思う。
私は麻雀の役など詳しくないのに、引きがどうやら強いらしい。実は学生時代マージャン放浪記でも有名な幻の役と言われる九連宝鐙で上がったことがある。と、この話をしても、誰も信じてくれないことが難点である。などと、そんな想い出話もしながら、私が一人勝ちして、朝はまた来た。
翌日も、さらに翌日も電気は来ないから、携帯電話の電池も切れ、ワンセグが見られないから、社会から遮断されているかのような妙な寂しさがあった。しかしその数日後、やっと水や電気が復旧し始めた。たとえ冷たい水でも、台所で食器を洗うことができるなんと幸せなことか。信也と奈央は食べた食器を洗ってくれたり、買い物の荷物を持ったりとよく働いてくれていた。だが盛岡のスーパーに品物が入ってこないという状況になり、我が家の米も底をつきかけたときだ。
わたしは信也と奈央にどうにか実家に帰れないか話してみた。一人は青森で一人は二戸に実家があった。親も心配しているだろうし、余震のこともある。車で途中まで送ろうかとも話をした。だがガソリンもないからそれも難しいことだった。雄太は私が友人らを追い出す話をしたものだから、顔をこわばらせ、怒りをあらわにした。それを見た私は頭にきて、
「これだけ世話したのになんで恨まれるんだよ」
と私は息子の顔に反論した。しかし彼は無言のままだった。結局その日のうちに信也と奈央は我が家から立ち去ることで了承してくれた。
「本当にお世話になりました」
と奈央。信也は
「東京に行ってビックになってきます」
と半分おどけてみせた。私は
「すでにみんなビックなんだよ。あとは自分がどのくらい人にサービスできるかだよ」
と言ったら、
「そうですよねえ」
と言って笑った。それから二人は深く頭をさげると、雄太と一緒に、友人の車に乗り込んで去って行った。
私は米が無くていたのだが、親類に電話したら、知り合いの農家に声をかけてくれて、そこから米を購入することができた。
雄太ら三人は、どうやらほかの友人の家にあがりこんで、なんとか食べているらしかった。私は〈実家に帰らないなら、米があるから連れて返ってこい〉と雄太に何度もメールした。それでも反応がないから、3人のいるかもしれないうる覚えのマンションを、夜中一人でぐるぐると巡ってみたりもした。しかし、あの明るい三人の声も姿もなく、諦めて一人自宅に帰った。 
朝方のまだ薄暗い中玄関を入ると、私はすぐにトイレに入り、静まり返った闇に包まれながら嗚咽した。震災後、夫の居ない我が家では、一家の柱が私であった。子どもたちの前では気丈にしていたが、半人前の小学生二人の命が私一人にかかっているかと思うと、強い余震が来るたびに、大きなストレスを感じ、また実は心細かった。いまだ安否が分からない釜石の親類のことも不安にさせた。こんなときあいつらがいれば…。私は初めて震災の見えない恐怖と、それにも増して、人を傷つけた罪の深さにおそれおののき泣いた。海原に放り込まれた3人はどうしているんだろう。人を傷つけることがこんなにも痛いのかと、本当は知っていたはずの、すでに40歳も過ぎた大の大人を私は許せない。
「いい加減帰ってくれないか」
昔私が学生時代に、友人宅で言われた言葉だ。あれは夏休みだったはず。その時バイトに出ていた友人のお母さんに、何日も居座っていた私も含めた悪友3人が言われた言葉である。自分たちの楽しい世界の中で生きていた時代。私たち3人は、友人の家を出て、数日ぶりの岐路の途中、バイトを終えた友人とばったり道で会った。結局、そいつに連れられ、つい先ほど叱られたばかりのお宅に舞い戻ると、4人でまた、たわいのない話と麻雀で、長い夜を過ごすのだった。私たち悪友は、他人の家で平気でご飯をお代わりし、お世話されるのが、当然のように暮らしていた。休日、家に居付かない私を、母親がくどくど注意してくれていたのは記憶がある。その、お小言に、私は「はい、はい」と返事をしながら、自転車のスタンドを外し、友人宅に向かったことも覚えている。親として多少の心配はしてくれていたに違いない。だが、私を強制的にどうこうしなかったのは、例え友人らと遊ぶにしろ、特段悪さをするでもないと、理解してくれていたからに違いない。
高校の学校の中でもそうだ。担任の山口先生は大ベテランの男性の先生で、男子からも怖い存在であったが、私に対しては、何をやっていても一度も叱る事が無く甘やかしていた。私は柄でもない生徒会に、1年の頃から入ったので、仕方なし仕事をこなしていたわけであるが、結局クラスのまとめ役にも、また学校全体のことも私が荷を負う場面が多くなり、気の強かった私は仕切り役であった。
そのせいなのか、学業でクラス一番でも無い私に山口先生は、学校代表として青少年の船の研修に行くよう勧めてくれたり、卒業生代表で答辞を読む役は、私を指名してくれたりもした。
小学校の太田先生の出会いからはじまり、就職するまでの学生時代、先生も、そして友人ら誰もが私に優しくて、何のストレスも感じないまんま青春時代を謳歌したことは、私にとって一生の宝であり、人生の生きる力となっている。あの震災のさなかの麻雀タイムは、私の若い時代をほうふつさせた。だから息子の友人も、昔の私の友人のようにさえ感じられる瞬間であった。また、息子をうらやましくも思えた。
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