『クサナギツヨシ研究所』分室・管理人リハビリ会議室

『クサナギツヨシ研究所』

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kyoko/木馬座?(ネタばれてしています)

2008-05-26 16:12:07 | Weblog
出てくる役者がいちいち全部、何か一枚着ぐるみのようなものを着て、それから衣装を付けて化粧をして芝居をしている感じが、最初から最後までつきまとっていました。

何だろう、何を着ているのか……何か一枚。「役者」の顔を素の役者の上にもう一枚かぶってやってるような、全体的なぎこちなさ。


お約束のお約束過ぎ具合。いくら旅芝居でも人気の演目とはいえ、なぜそんなにみんな声を張る? しかもわざとらしく? 大切な台詞は単独ではなく、会話の中にある。

なのに、どの言葉も単独で宙に浮かび、そして消える。会話になっていない。

クサナギツヨシの着ぐるみは、一番分厚い着ぐるみだった。当人は細身だけど。何を着せられたんだろう? 台詞回しより、声を作っているのが気になる。そして芝居は、着ぐるみを着せられて、その上に衣装を付けている。

着ぐるみは演出なのかなあ。どんな芝居でも、演出家の色は出る。匂いのときもある。今回は演出家が、一歩一歩まで決めたのではないかと思うほど、色濃かった。その決め方が、人によっては合っていなかったのかなあ、そうすると着ぐるみのような気がするのかなあ、などと考えてみた。

……これ、切ない芝居なんですよね?……

母を改心させる肝心の妹役、もうちょっとなんとかならなかったものでしょうか、濃い演出で。濃すぎてああなったのでしょうか。

あ、一人だけ着ぐるみ着てない人、いた。大竹しのぶ。彼女は、役者・大竹しのぶが、母を演じていました。一人で。

最後の場面がなあ。親も子も「そんなもなぁいねえ!」と言われて初めて斬り捨てる。あそこの台詞のやりとり、着ぐるみ同士の会話では、「そこに落ちるのか!」という観劇の醍醐味は味わえません。

何かが余計だった。何かが足りなかった。

クサナギツヨシは、頑張ったけど足りなかったのか、頑張っても無駄だったのか、そも、なぜいま、クサナギツヨシで『瞼の母』で『按摩と女』なのか。

クサナギツヨシはどこにつれていかれるのでしょうか。いい年して知らないおじさんについて行くはずもなく、自分で納得しているのだろうと思うと、よけいわけがわからなくなってきます。周りを食べさせなければいけない宿命を背負っているアイドルさんは、まだ見ぬ世界に飛び込んでみたかったのでしょうか。

義理と人情。

クサナギツヨシ、キミは『蒲田行進曲』で、最高の義理と人情を演じたんだから、それを忘れないでください。

yuki/「記号」を演じる 〜瞼の母 感想〜

2008-05-21 15:18:04 | Weblog
「しかしずいぶん窮屈そうだなぁ、クサナギくん」

これがまず、今回の舞台を見ての感想でした。
・・・彼、ちっとも楽しそうじゃなかったです(笑)

結局のところ、芝居についても、演出家に何言われてるのかも、ちゃんと理解できないまま板のうえにあがってるんじゃなかろうか、と思いました。彼にとって「理解する」というのは「自分が気持ちよくやれること」であって、今回はいつまでたっても「気持ちよくなれなく」て、だから「これ違う」って思ってるんじゃないかしらん、と。

わたしの友人が、初日にこの舞台を見て、「母を探してることは分かったけど、母を恋しいってとこがよくわからなかったなぁ」と言ってました。まさにその通りだと思いました。っていうか、わたしには、「母を探してる」ことすらわからなかった。「50歳見当の武州生まれの女性を探してる」ってことくらいかなぁ、伝わってきたのは。

考えてみれば、舞台に関してクサナギくんはいつでも、自由にやらせてもらっていたように思います。蒲田行進曲はもちろんのこと(つかこうへいっていう人は、その役者のために自分の芝居をどんどん変えて行くことをまったく厭わないばかりか、それを自らの誇りとしている稀有な演出家なので)、台本がきっちり決まってる菊池寛シリーズでもそうでした。演出の河原雅彦さんは、彼を慎重にコントロールしながらも、最終的には「じゃ、あとお任せね」っていうやり方してたと思います。

ついでなので、まだ書いてないから「父帰る/屋上の狂人」を見たときの感想をちょっとだけ書いておきますが、父帰るについては、2回見て、1回目は「はてはて」と思ったのですが、2回目に見たとき。

芝居の最初から、最後ぎりぎりまで、彼の芝居は抑えに抑えられています。しかしほんとうの最後、出て行ってしまった父を探しに行こうと、彼がダッと立って地面を蹴って外に出て行く。

その瞬間がすごかった。

今まで彼の心の中で揺れ動いた全ての感情、憎しみだったり復讐心であったり、それらごたごたとしたものがすべてがいちどきに解き放たれました。しかも伝わってきた感情はただ一つ、「愛情」でした。
ダッと立ったクサナギから、その後姿から、いや、その後姿の足のかかとから、その感情はまるでレーザービームみたいに客席に向かって照射されたんです。

「クサナギ、すげぇーー!」

ほんの数秒のうちに一気に感情を揺さぶられて、わたしは思わずのけぞっていました。「これがわたしの大好きな、クサナギツヨシの力だよーー!」と心から思ったのです。

ま、もう一つの「屋上の狂人」については、あれはちょっと、「クサナギさんいくらなんでも自由に気持ちよくやりすぎです・笑」って感じが2回ともして、もっぱら、日本一の弟役者(勝手にそう命名した)、勝地涼くんを愛でておりましたけども。

そして今回のこの「瞼の母」。

今回のこのお芝居は、前回よりももっと、きっちり決まっています。台本が決まってるのはもちろんのことですけど、渡辺えりさんの演出方法は「脚本を読んで、そしてその脚本を自分で解釈して、考えて、そしてなにかこたえを見つけていきましょう。全てのこたえは、脚本の中にあります」ってやり方だったんじゃないかなと思います。

世界が、まず、きっちり規定されてる。

それは、「全ての答えがクサナギくんの体の中にあればそれでよい、それを思いっきりやりなさい」という今までの世界と真逆です。

クサナギくんが、今回のお芝居のお稽古、相当しぼられて相当苦しんで相当がんばってるらしい、というのは、雑誌だとかラジオだとかで彼自身がだだモレさせてましたよね(笑)。こうして芝居を見てみると、「こりゃたしかにつらかったろうなぁ」と思います。彼にしてみりゃがんじがらめだもん。

そして・・・多分今もつらいままだ。脚本の中に答えがある、とか多分認めてねぇよこいつ(爆)

まったく個人的な好きキライということで言ったら、わたしは、つかさんや河原さんみたいなやりかたが好きです。今回のお芝居みたいのはほんと苦手です。だって芝居くせえんだもん←?

でも、お芝居ってこういう形も当然あります。そして、こういう形も(というかむしろこういう形の方が?)多くの人々に愛され、支持されてきました。

今回、クサナギくん以外の全員(えっとぉー、本音ではぁ、市なんとかって人だけ除外したいんですけどぉーー。ただの悪口になるからこの際無視する姿勢にする。でもあれヒドイ)は、この形のお芝居がちゃんと出来ています。うまい。でもこういうお芝居におけるうまさっていうのは、誰かが急遽レシーブに回るとか代わりにトス上げてあげるとかそういうことはないです。みんなが、それぞれに考えてそれ出して、共通認識として、「ここに答えがあるよね」って了解のもとに進んでいくものだから、その時点で役割が決まる。
で、今回は彼だけ、その役割にきちんと乗れてないように思えました。つまり、言い方変えると、浮いてます。

そしてなにより、楽しそうじゃない。てか、楽しくないから、浮いてるのかもしんない。

わたしはこういう芝居はほんとに好きではないけど、でも
「そのカタチの芝居が世にあって、そのカタチの芝居をやるなら、そのカタチでやらないといけないよ、クサナギくん」
これは、見ていてとっても思ったのです。多分、今回、出来てない。

ところが。そういう風だとたいがい、「彼だけダメダメだなーこの芝居。つまり彼ダメだ」で終わりになるものなんですけど。
クサナギくん、終わりにはなってなかったんですよねー。

それは、大竹さんとの、つまり母との対面シーンに顕著でした。
はっきり言ってこの場面、会話も、感情の交流もなーんも成立してないんだけど。

大竹しのぶさんというのは強烈な女優さんで、とにかく、ありとあらゆる芝居を「全部彼女がもってく」系の女優さんです。時として、そのもっていき方があまりに強引で、脚本の本質や主題を勝手に変えちゃってねーか?って思うことがあってその点で時折苦手です。そこまでやりすぎると結局「なにをやっても大竹しのぶショー」になるんだもん。そういう場合はわたしは彼女のことを、「芝居のうまい木村拓哉」と呼ぶことにしている(←また語弊のあることを書いてからに・・・笑・・・)。

その大竹しのぶさんと同じ場面にいて、クサナギくん、まったく引いてなかったんですよねー。
それこそ主題としてはずれずれになってるかもしんないけど、二人の間になにがどう流れてんのかはさっぱり分からないけど、ここが大竹しのぶの独擅場にはなってなかった。なんか、双方が、ちゃんと対峙できてたんですよー。

二つの華が、咲いてるんですよ、なんだかしんないけど。これはすごい不思議な感じでした。
なんかねぇ、やっぱねぇ、これって、クサナギが才能あるってことだと思うんですよ。あそこでなかなかがっぷり四つはできないよ。

そのあと、妹が母を説得して(すばらしく説得力がなかったけど)、去ってしまった忠太郎を探しに行く、探されて隠れる忠太郎、母と妹の哀しみ・・・とかこの辺はもう三者が三者バランバランで「どーなっちゃってんだこれ?」と思ってしまってもうほんとにはてはて???で終わっちゃってー。もー、もったいないよーー。一番の峠は軽々越えられてたのになんでだよーー、みたいなことをとってもとっても思ったのです。

だからほんとだったらね、なんかちょっと劇評みたいにね、
「長い時間をかけて、母のない忠太郎は人も殺めるヤクザになってはいたが、その心は母の面影を追い求める幼子のままであった。しかし母と出会い、母の一人の人間としての苦しみ、哀しみを知った忠太郎は、このまままた母と離れて暮らそうと決意する。それは、自分の母への幼い一方的な思いと決別し、ほんとうの意味で、人間として、男として独立し、巣立ってゆこうという決意である。最終シーン、クサナギの明るい立ち姿に、その「生まれ変わった忠太郎」の姿を、希望を、わたしは確かに重ね見たのだ」
とかなんとか言ってみたかったんですけど(せっかくだから架空の感想書いてみた)。

それまるっきりかけらも言えなかったけど。

つくづく、クサナギくんは、「記号」を演じることはできない役者なんだなぁと思いました。
でもね、今までだったらそこで「だから記号じゃなくてちゃんとした物語を与えてやれよ」的なことをわたしはよく言っていたのですが、今回このお芝居をみて、それもまた、ちっと違うかなぁと思ったりもしたのです。

記号が演じられるようになったら、もっと、クサナギくんの俳優としての世界とか可能性とかが広がる気がする。今回の記号の世界で、ま、勝ちか負けかと敢えて問われたら負けかもしんないけど、でも完敗はしてない。一番大事なとこはちゃんとしてた気がするんで、そこはどんな芝居でも変わることのない「魂」みたいなとこかもしれなくって、それは確実にクサナギくんは持ってるんだから、もう少し、この不自由さ、窮屈さを認めて、それもできるクサナギ、ってのも悪くないのかもしれない、今回そういうクサナギは見られなかったんだけど、でも、もしもまたやることがあったらわたしそれ、ちょっと見てみたいかも、と思ったんです。

クサナギくん。
つかさんが言ってた、「役と遊べ」
もしかして、思ってるよりもっともっと、もんのすごーく深い言葉なのかもしれないよ。

yuki/とりあえずお知らせ

2008-05-14 22:12:48 | Weblog
えと、「瞼の母」につきましては、yukiもkyokoも、観劇は来週になります。
もし感想を書くとしましたら来週になりますのでよろしくお願いします。

えとえと・・・ドラマはその後見てないかもしれないです・・・(爆)

kyoko/パロディでもパスティーシュでもなく

2008-04-30 02:38:51 | Weblog
『ガリレオ』パクって何が楽しい。バカじゃないのか、このスタッフ。

『猟奇的な彼女』、元の映画は見ていませんが、どっちも半分子供の男女が、2時間弱右往左往する話なら面白かったのかもしれません。

それを10回とか11回のドラマに、しかも男は30、女は20代半ば。二人ともバカにしか見えないのは、誰の責任?

わたし個人のクサナギツヨシの尺度、というものがあって、それは舞台『蒲田行進曲』以来の尺度ですが、いい仕事、充実しているときのクサナギツヨシは目の輝きが違う。ビジュアル的に、自信にあふれている。このドラマを撮っている頃の彼は、そんなふうに見えません。女二人と三角関係になる人に見えません。

本が悪い、といえば簡単だけれども、蒲田以来、「蒲田を超えたい」「誰も見たことのないクサナギツヨシを見せたい」と思うクリエイターが多くなったのではないかとおもえてなりません。

蒲田行進曲のとき、つかこうへいは、ほとんど演出をつけなかった、と自身で語っています。ただ本を与える。毎日のように変わる本を与える。するとクサナギツヨシがそれを口にする。つかこうへいは、それでいい、と、ただそうすると顔がむこうむくから、こっちにした方がいいぞ、なんてことしか言わなかったそうです。

「自分が“クサナギツヨシ”を変えてみせる」

と考えているクリエイターがいるとしたら、そして、そういう人と仕事をするとしたら、わたしはファンとして、ああ、がっかりだな、と思うしかないでしょう。

てゆうか、ドラマ、語るに足らず。

初の「クサナギツヨシが出ているのに最後まで見ない」ドラマになりそうです。

ふうーむ/yuki

2008-04-27 22:29:38 | Weblog
「こういうのを『やっつけ仕事』と言うのかしらねー」とふと思う日曜の夜(爆)

yuki/改めて、普遍ということ。

2008-04-18 00:09:12 | Weblog
いまさらのように告白するわけですが、わたしがこのサイトに載せているメールアドレス、「yutoma」というのの「toma」部分なんですが、これ、生田斗真の名前を借りてるんです(笑)。かなり昔からの生田ファン。ながーくながーく地道に応援していたのですが、ここのところの大ブレイクぶりにやや腰が引けています。

というように、わたくしは基本、ジャニーズファン(ジャニヲタっていうんですか?)。
一方湯山さんは、ジャニーズなんかにまったく興味がない、でも、ある日テレビで見たクサナギツヨシに電撃的なショックを受けた、って人です。

その二人を出会わせたのが、1999年上演された、「蒲田行進曲」でのクサナギツヨシのヤスでした。

今でも、それはすごいことだな、って思います。それまでの、生きてきた道がまったく違う人たちを、一瞬にして結びつけたその力を、すごいな、って思うのです。

そしてそれをわたしは「だってツヨシが見せたのは普遍だったからさ」と言います。どんな道を生きている人たちも、人間だからこそ、共通に持っているテーマ、感覚。クサナギツヨシの力は、「普遍を表現できる」ということなのです。

生田斗真どころじゃなく、クサナギツヨシはあれ以降、第一線の俳優としてずーっと走ってきました。テレビドラマ、映画、そして、舞台もずっと続けています。

近年、クサナギツヨシが要求されるものは「家族」をテーマとしたものが多くなりました。

家族。人間が社会的な動物として生きていくための、もっとも身近な「普遍」です。
前回の舞台は、「(父に対しての)息子」、そして「兄」でした。

今回、彼は、「母と子」というテーマに挑みます。もー、普遍中の普遍だろこれ。
父親というのは、生物学的には存在しますけど、母親の持つ意味はもちょっと大きいです。とにかく、どんな人でも、間違いなく、「母親の胎内」から生まれるんですから。

ここでちょっと話を変えますけれども。

普遍を演じることができる、というのは、「誰にも所属しない」ということではないかと思います。
「誰のくせもついてない」「誰のものでもない」

もちろん、草なぎ剛、という個人として、誰が好き、とか、どんなことが好き、とかどんなものに対してシンパシーを感じる、とか、そういうことは当然あるでしょう。そりゃそれも、人間だから。

でも、ひとたび俳優として彼がそこにいるときには、たとえば(たとえとしては下手ですが)、それがフジテレビであれTBSであれどこであれ、彼はその役としての普遍を生きます。それはもはや、彼自身であるかどうかすらあやふやな、でも、間違いなく「彼という人間だからできる」という、多いなる矛盾と混沌の中から、「その役自身」を生み出します。

「母と子」という、あまりにもわかりやすいゆえに、色がつきがちであろう今回の役柄。作るものが、それぞれの思いがあるゆえに、色をつけやすい設定ではあります。

でも、わたしは、彼はそういう「一般的なわかりやすさ」をはるかに突き抜けて、もっと先の、もっと上の、だからもっと「人が人として、理屈でなく共通に感じられる、わかる」母と子、というか「母に対しての子」を演じてくれるよう、心から願っています。

簡単じゃなく、難しく。
でも、その難しさを突き抜けた先に、実はもっとはるかに澄み渡る広い世界があるというのを、かつて一度彼から教えてもらったものとしての、心からの願いです。