日常道場

現代人の道場手記

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日下部泰生 個展 『陽願』

2011-03-23 10:35:01 | 日記
日下部泰生 個展 『陽願』
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地神

2011-03-22 10:33:20 | 日記
3月11日宮城沖でM9.0の地震が起きた。この時僕は白金台の瑞聖寺境内にあるギャラリーにいた。個展の初日で、公開製作として床一面に広げた紙の中心に数本の黒い線を引いたところで大きく揺れ始めた。来場されていた小島さん一家と一緒に屋外に避難すると、木造建築の本堂がぐにゃんぐにゃんと揺れていた。
大きな揺れがおさまり、19:00まで絵を描き、自転車で練馬の自宅まで帰宅。携帯も不通で、地震後ほとんど誰にも会わず絵を描いており、地震に関する情報をほとんど得ていなかった僕の目には、交通網が麻痺して車道に連なる車の列や歩道をぞろぞろ歩く人々の流れが、まるでお祭りのように映った。歩く人々の目には生き生きとした光が宿り、みな高揚しているように見えた。
大きな地震が起きると本能的に命の危機を感じる。命の危機を感じるということは、逆に生きていることも普段より強く感じる。だからみんな生き生きしてるのかな?などと思いながら、車と人の流れの中をふわふわとただようように自転車をこぎながら家に帰ると、落ちた食器や植木鉢が割れて散らばり、飼い猫のふじこがパニックになりミャーミャー啼いている。テレビを付けると、どのチャンネルも震災の惨状を映し、能天気な僕の脳内に不安がじわじわと沁みてくるのを感じた。
翌日からも同じように自転車で個展会場に通い絵を描き続ける。地震の影響でお客さんはほとんど来ない、寺の境内というのは時空のポケットのように世間から隔離されているようなところがあり、そこで絵を描いていると静寂であり、たまにある余震の揺れでハッとして、東北は大惨事であり、原発がコントロール不能に陥り、放射能の脅威が広がりつつあることを思う、しかし、今自分は穏やかな陽光の中で絵を描いているという事実。無力で無意味な存在、社会的役立たず、もっと現実的に出来ることはないのか?多分考えればいくらでもあるだろう、だが、これも何かの縁だと思い、絵を描き続けることに決めた。そのかわり、自分を律して、ダラケや甘えは一切許さず、精一杯の気を込めて描くという条件を心に決める。鎮魂や祈りを込めて絵を描くというのは、能天気な僕にとって嘘になる。だから何も思わずただ描く。
この絵を『地神』と名付けた。神とは人間が創ったものであり、人間がいなければ、ただ宇宙的秩序と混沌があるだけで、神など存在しない、人間が制御出来ない自然の力を前にして、それをどう納得するかというところに、神は生まれたのではないか、今回の地震からもいろいろなメッセージが受け取れる。しかし、人間的心情を抜きにして地球規模で考えれば、時期が来てプレートが跳ね上がっただけである。しかし地表に暮らす人間にとっては不条理な大災害である。だからこれからも人間が地表で暮らしていくためには、地神からのメッセージをしっかり受け取り、今までの習慣や価値観の幾つかを改めていかなければならない、今回は原子力という人間が生み出した力も地震に伴い強いメッセージを発している。
今回の絵は、中心から縦横斜め八方向に伸びる直線で、流動的な筆の線を制御した。たとえ大地が揺れたとしても心まで揺らすまい、という自分なりのプライドを込めたつもりでもある。
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アクシデント

2011-02-06 21:12:36 | 日記
一月の末にMISSING RINGというグループ展を五人のアーティストで開催した。今回の展覧会の趣旨は五人が会期中に作品を描き上げるというもので、実験公開アトリエ!と名付けた。
 会期中は五人ともほぼ毎日会場に通い、だらけること無く真剣に作品を仕上げて行く、とても濃密な時間を過ごせた。足を運んでくれたお客さんにも、その創造に対する純粋なエネルギーを感じてもらえたと思う。
 しかし、一生懸命絵を描き上げて、いよいよ最終日のクロージングパーティーだ!という前日の夜に、謎の吐き気と腹痛が五人の絵描きと、会場の従業員二人に襲いかかった。食中毒説やウィルス説が飛び交い、原因ははっきりしないが、ともかく緊急事態である。
 当日熱と吐き気でふらふらしながらもなんとか会場にたどり着くと、クロージングパーティーは中止にしようという話になっていた。会場はカフェも併設しており、もしお客さんにも伝染したら、今後の営業の存続にまで関わってくる問題である。だが、この話をしていたのが15時頃、オープンは18時である。お客さんに中止の告知をするには遅すぎる。結果、予定していたバンド2組をキャンセルして、DJ一人が音楽を提供し、お客さんを一カ所に貯めず、会場とカフェの間を流動的に動けるようにして、換気を常時する。カフェで食べ物は出さない、ということで、ともかく決行することになった。絵描き五人中二人欠席、三人はなんとか出席しているが、フラフラで顔色最悪。従業員四人中二人欠席。これが学校だったら学級閉鎖である。
 これまで野外のイベントの仕事で、台風にあったり、高波でステージが水没する。などと自然のエネルギーに圧倒される経験はしたことが有るが、今回は体内から浸食される初めての体験であった。しかし野外で自然の圧倒的なエネルギーを感じる時も、今回体内にウィルスが入りこんだ時も、何故だかしんどい反面ワクワクしている自分がいる。すんなりいくより、なにか乗り越えるべきアクシデントがあったほうが底力が湧いてくる。絵を描いている時も同じ様な感覚があり、自分がコントロール出来る予定調和の範囲でやっていてもあまり面白くなく、何か自分のコントロールを超えたところでの瀬戸際で遊べた時の方が、充実感を伴いそれまでよりレベルアップしたものが創れるように思う。
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2011

2011-01-05 11:18:28 | 日記
今年の大晦日は久しぶりに家で過ごした。年が明けると近所の寺から除夜の鐘の音が聞こえてきた。近年はいつも大勢の人が集まり、カウントダウンをするような場所で年を越していた。
 年が明けいろいろな人に挨拶をして話をすると、今年は年が明けたか明けていないかよくわからない、と言う人が少なくなかった。自分の中にもその感覚があり共感した。どこかシラケていて、めでたい気分が無く、スル~っと2010年から2011年に入って来てしまったような感じがする。
 大晦日の年越し寸前まで僕は胎児の絵を描いていた。友達のお腹に子供ができ、そのお祝いのためである。特別に個人的な意味をもって描いていた訳ではないが、何となく意味深な気もする。

 人類は今まで外へ広がる方向に一生懸命進化してきた。領土を広げるために戦い、競うように宇宙にロケットを飛ばし、インターネットで世界中をつなぎ、瞬時に遠くの人ともコミニュケーションをとれるようにもなった。しかしここらでいったん自分の足下を見つめ直す時期が来たのではないだろうか、自分が暮らしている地球を、国を、土地を、文化を、家族や自分の生活を、そして自分の身体と心を、生命体である自分を見つめ直す。
 
 これまで僕はいろいろな条件や人々に守られて何不自由無く、まるで胎児のようにぬくぬくと半分夢をみて生きて来た気がする。本質的に現実と正面から対決していない。
 今年は生まれ直しと心得て、改めて自分自身を見つめ直し、現実を自覚的に体感して対決する年になればと思う。
 
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2010-12-15 10:32:33 | 日記
息とは不思議なものだ、意識して息をすることもできるが、日常生活の中では息をしていることをほとんど意識しない。
 最近道場では稽古前の黙想に少し長い時間かける。数息に集中して雑念を払う時間は、身心を掃除するような感覚で雑念満載の日常をリセットできるようで気持ちが良いし集中力も冴えるように思われる。
 そこで私はこれを日常にも応用することにして、毎朝黙想の時間をとるようにした。息を観察すると今まで気が付かなかった心や身体の様子が面白いように観える。一つ例を挙げると、力みは深く息をすることに対しての抵抗となる。力みのある箇所が素直な息の流れを詰まらせる。これは刀で斬る時も同じで、力みが抵抗となり全身全霊の力が出せないという弊害になる。息を観察することは、身体の力みを観察することにも通じると思う。私の場合顔から首筋にかけて力みが残るようだ。顔は感覚器官が多く、周囲に対して表情をつくり、さらには頭には脳みそがある、あまりに人間らしい力み方で微笑ましくもあるが、息の出入り口である鼻と口がある顔が力んでいては、息を含めたエネルギーの出入り口が狭くなっているとも考えられる。これはもったいない、とりあえず全身の力みが抜けるまで黙想するようにしている。全身の力みが抜けてくると、自然と雑念妄想の波も静まってくる。
 
 インドで佐々井秀嶺師に自己紹介をさせていた頂いた時、佐々井師は私の泰生という名の生という字に対して、生きるとは息をすることであると語ってくれた。
 これはシンプルだがすごく大事なことだと思う。日常で生きていることを忘れないための基本は、息をすることを忘れないこと。

 
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