尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「減いじめ」は「学校の目標」ではない

2012年08月29日 00時05分07秒 | 教育 (いじめ・体罰問題)
 いじめ問題が数年に一度大問題になると、報道などで「いじめは絶対にあってはならない」と大きなキャンペーンが始まり、「学校でいじめをなくすにはどうしたらいいのか」という議論が起きる。まるで「いじめ根絶」が学校の存在理由であるかのような議論が続く。そうして「学校はいじめに毅然とした対応をせよ」と言い出す人が出てきて、「いじめに対処できない今の教員が問題なのだ」となっていく。でも、いじめは学校が学校である以上根絶できないので、対応を求められる教員の疲弊がますますひどくなる。こういう(いじめ問題に限らないのだが)「負のスパイラル」が学校現場を覆いつくしてから、もうずいぶん経っている。

 そういう議論は教育に害をなすだけで、教育現場を荒廃させるだけである。どうしてかと言う理由はいろいろあるが、そのひとつは学校の対応を短期的なものにしてしまうことである。いじめが起こったら当然「いじめられている生徒」への配慮を第一に考えなければならないが、同時に「いじめている生徒」への支援も緊急に必要だし、「傍観している生徒」への指導も忘れてはならない。そしていじめ対応で疲弊する教員集団への支援も欠かせない。ところが、「いじめをなくすのが教員の責務」という発想だけで考えると、とりあえず今いじめられている生徒へのいじめを止めることにのみ関心が集中してしまう。それが緊急の課題であるのはもちろんだが、「学校の毅然とした対応」でいじめが止まったとしても、いじめる側のケアがなされていないと、しばらくすると標的を変えて次のいじめが始まってしまう。次々に指導を繰り返していくと、いじめ生徒は学校にいられず校外で問題を起こすようになる。「学校で問題を起こされるよりはいい」と考えて、後は警察まかせという発想になってしまう。

 学校だけで考えると、教師はそれでいいわけなんだけど、社会全体で考えると学校が問題生徒を見放すデメリットは大きい。「中学を出てなんとか高校に入り卒業したい」というのは、今の社会で要求される最低水準で、生徒の側でもその価値観を内面化している。中学、高校の段階で学校から排除されてしまうと、今の日本では非常に生きにくい。多くの若者がアウトロー集団で生きるようになると、犠牲も大きいし社会のコストも高い。学校が毅然と対応して問題生徒を校外に追い出すと、結局数年後、数十年後に犯罪の増加や社会保障費の増加につながる。今の日本では、ほとんど報われることもないのに多くの中学、高校教員が時間外労働で多くの若者がドロップアウトするのを最後の最後で救っている。このように「問題生徒への対応」こそが長期的には大変重要なものなのである。

 そういう問題もあるわけだが、僕が一番言いたいのは、そもそも「マイナスをなくす」が学校の目標であっていいのかということである。最近は「いじめをなくす」も学校の大きな取り組み目標になってきて、「思いやりの心を育てる月間」とかが設定されていることが多い。こうなると、もう「学校の目標」に近くなっている。しかし、「小さないじめ」が無くなることはないし、もしあったら教師が見回り、呼び出しを繰り返し、他の教育活動を差し置いても(教材研究や部活指導をほとんどせずに)、「生徒を見張る」ことにエネルギーを費やしている場合だろう。しかし、その結果いじめが全然報告されなくなっても、それが生徒を伸ばしたと言えるだろうか。「悪事」をなさないけれども、「善事」をなす知恵と力も育たないのでは、教育とは言えない

 新聞に載るようないじめ事件は極めてまれである。いじめだけでなく、学校では小事件はいろいろ起こるが、大事件はめったに起きない。ほとんどの教員は何十年も勤めて一度も経験しない。反対に授業や部活での活躍で新聞に載ることも普通の教員にはまずない。すごくいいことにも悪いことにも当たらず、教員生活を終えるというのが大方の教員である。そういう学校の日常のあり方の中では、「大きないじめ問題」がないのは当たり前であって、「遅刻を減らす」がクラス目標になるときはあるけど、「いじめをなくす」は当たり前すぎて学校の目標にはならない。テストの目標が「赤点を取らない」では情けない。それが現実的目標だという生徒もいるだろうけど、大方の生徒はもっと高い目標を立てなければいけない。

 同じように学校としては、いじめやその他の問題行動をなくすというのは当然どの教員の前提ではあるけれど、大きな目標とすることはもっと違うことになるはずである。「マイナスをなくす」ではなく、「プラスをつくる」という方向の目標があるはずである。それは「生徒一人ひとりにあった進路の実現」であるとか、「生徒皆が生き生きと取り組む学校行事の成功」であるとか、「生徒が主体的に学びあう授業の創造」とかなんとかである。言葉にしてしまえば、どういう目標をたてようが、「絵に描いたモチ」である。しかし、それに向けた具体的な生徒の取り組みを作っていくと、そこには大きな違いが表れてくると思う。「マイナスをなくす」を目標にすると、例えば「遅刻を減らす」で言えば、生徒の委員会を動かして遅刻回数比べをして、クラスごと、班ごとに競わせたりする。たまにやると生徒の意識向上になるのは間違いない。でも一年中そういう取り組みだけをしていると、目標にした問題行動自体は消えても、競争で競うために集団規制で消えただけで、生徒の本質は変わらない。自主性が育たないから、他のところで別の問題行動が起こってしまう。

 それにそういう「マイナスなくせ運動」だけやってると、学校がつまらないものになってしまう。教師も生徒もつまらないなあと思いながら、「決まったことだから」と言い聞かせてみんなでガマンする。そういう学校を作ってしまうことになる。学校の日常、授業や日々の生活は楽しいことだけではない。それは間違いないんだけど(集団生活はガマンを強いられる場面があるし、授業は難しく、あるいはやさしすぎ、またはまったく関心が持てない内容の場合も必ずあって、楽しいとは思えない場合が多い。)でも、だからこそ、日常を抜け出す学校行事、特に宿泊行事なんかは楽しいものである。いや、それこそ面倒なことがいっぱいで大変とも言えるけど、学年皆で泊まりに行くと言うことだけでワクワク感があるものだ。(全員ではなく、行事こそ辛いという問題を抱えた生徒もいることは確かだけど。)

 教師は本当はそういう「ワクワク感」を様々な行事をとおして作っていくのが仕事ではないのか。問題行動をなくすということだけを考えるのではなく、生徒とともに「何か充実したもの」を作り出していく。子どもの自主性を伸ばしながら、共に行事や部活動を作っていく。その結果(かどうか誰にもわからないんだけど)、リーダーが育っていって、他の問題行動も減っていく。そして行事などの成功を見て、生徒が自分の学年、学校に誇りを持っていく。その「生徒内世論」がいじめ、仲間はずれなどの行動を内面から抑えていく。そういう「正のスパイラル」を作り出すというのが本当の「学校目標」なのではないか

 今のいじめ(だけでなく)に見られる、教員や生徒に多くの負担を強いる形で「マイナス行動を学校からなくせ」キャンペーンだけでは、学校がますますつまらなくなる。教師がいつも「これはいじめではないか」という目で生徒を疑うようなピリピリした学校になっては、生徒は安心して暮らせない。いられなくなってしまう生徒も出てくる。生徒だけでなく、教員も居づらくなり病気休職が増えていく。教師はホンネが言えなくなり、「今の学校が楽しいとは思えない」という気持ちになり、どんどん転勤していく。そうなってはいけない。

 卒業式を迎えて、この学年でやった修学旅行は楽しかったね、文化祭のクラスの出し物面白かったよね、運動会も合唱コンクールもみんなの力でうまく行ったねと言えるかどうか。生徒をそういう気持ちで送り出し、教員の飲み会では「今年の生徒は楽しかったね」と言える。「そういえば、あんまりひどいいじめ事件もなかったしね」となる。「まあ、小さないじめはあったし、タバコや万引きもあったけどね」。「でも、生徒にリーダーがいたからか、行事もうまく行ったし、大きな事件も起こらずに済んだ。良かった、良かった」と美味しく飲み交わす。そういうのが、あえて言えば「理想」であって、なんで大事件がなかったかは誰にも判らないけど、行事や進路活動は大体うまくいき、生徒も感謝して卒業していった…となるのがいいと思う。

 「いじめをなくす」は「目標」ではなくて、生徒を育てた「結果」だと思うのである。生徒はいじめはよくないと思っているのが圧倒的に多数であるけど、その気持ちを力にできていない。その生徒の力を、行事などで育てていくことで引き出していく。結果、生徒の思いが学年作りの力になっていく。これが本来の学校の目指すものではないかと思う。ここで次に考えるべきことがある。「リーダー育成」「行事の作り方」「学年団の団結」である。このあとはそういう「各論」を書いてみたい。 
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