尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「体罰」なきのみをもって「善し」とはせず

2013年02月14日 00時13分34秒 | 教育 (いじめ・体罰問題)
 「体罰」の問題に戻って。この問題も早く書き終わって、本や映画、国際問題などを書きたくなってきたが、「体罰の『体』問題」や「暴力そのものの考察」、「歴史認識としての体罰」「教員の成績評価制度の問題」などと続くと、あと数回は必要。そういうことを書いてるうちに、自分自身の体罰論を書くのが億劫になってくる気がするので、先に書いてしまおうかと思う。

 僕は「体罰」という名の「私的制裁」は、今は「教員は身を守ることが優先の時代」になっている以上、必ず避けるべきだと思っている。早期退職だろうが定年退職だろうが、何十年も勤めれば2000万以上には退職手当が出ることを考えると、家族の顔も頭に浮かべれば、生徒にバカにされようが、部活で負けようが、それがなんだというのか。こういう言い方は批判されるかもしれないが、世の「教師批判」は政治的思惑を持って行われているので、標的にされたら助からない。いじめでも体罰でも、一度問題化してしまったら、管理職は自分が助かるために平気でウソの報告をして、現場教員は切り捨てられる。僕はそのように認識しているので、残念ながら、そこまで考えて「身を守る」必要がある。諸書類の提出、もちろん教員免許の更新等は、部活指導や補習などに優先して処理しておかなければいけない。落とし穴はどこに仕掛けられているか判らない、そういう時代なのである。

 ところで、「体罰」というか、「暴力による生徒指導」を完全に否定できる教員も、正直に言うならばほとんどいないはずである。僕が書いている「私的制裁」が行き過ぎると、「私刑」(リンチ)に近づいてしまう。これは刑法上の傷害罪に他ならず、正当化することは全くできない。しかし、「体罰」的要素を持つ「私的制裁」はありうる。それは「量刑の平等性」が確保されたうえで、「あの先生は忘れ物をしたらゲンコツ一回だ」などとなっている場合である。これは望ましい「良い指導法」ではないと思うが、こういうのはよくあったはずだ。それは「体罰が効果をもたらす現実」があるからである。生徒は内心不満をため込んでいるとは思うが、嫌なことは避けたいから気を付けるという効果はある。(ただそれで効果をあげる生徒は、言葉で注意することで同じ効果が期待できる。)一方、もう一つの類型として、「思わず手を挙げてしまう」というのがある。それは生活指導や部活動で起こりやすい

 結局のところ、教師も生徒も人間なのだから、全くどうしようもない言い逃れやヘリクツを並べ立てる生徒を前にすれば、熱心な先生ほど「怒り心頭に発する」こともあるはずだ。ぼくはそういう現実があることは否定できないので、「一度も体罰をしたことがない」などと自分がいかにも理想的な指導をしてきたかのように語る教員は信用していない。教師は、理想的な教員として、理想的な学校に配置されるわけではない。右も左もよく判らぬ新米教員として、いじめや対教師暴力、暴言のはびこる学校に採用されたとしたら、一番下っ端の教員に何ができるのか。「大学では体罰は禁止と教えられました」と言うのか。あるいは、見て見ぬふりを続けるのか。それとも、体を張って生活指導をしている教員にならって、自分も体罰を始めるのか。それとも「問題生徒」の中にとびこみ、徹底的に話を聞く役を演じるのか。そういう現場を知らずに教員生活を続けていける幸福な教員は別だが、今50代、60代の教員なら、そういう修羅場の時を知ってる人も多いのではないか。今のような少子化時代ではなく、ちょっと前までは「第二次ベビーブーム世代」が学校にあふれ返り、生活指導も進路指導もムチャクチャ大変な時代だった。

 例えば、こういう生徒がいたとする。成績もよくスポーツも得意で、級友の信頼も厚いためクラスの選挙で男子学級委員に選ばれた。ところが「マジメにコツコツ」が苦手で、というか学力も運動神経も抜きん出ているので、塾や少年スポーツしか一生懸命にならず、学校では手を抜いているのである。そこで清掃の時間なんかは、率先してさぼりまくり、女子に大変な役を押し付け、自分は男子を引きつれ、毎日ほうきでチャンバラをしている。だから担任は、毎日注意をしている。学級委員で男子のリーダーが先頭に立って遊ぶので、男はマジメに掃除をしなくなる。女子の不満も爆発寸前である。「先生がちゃんと注意しないから男子がさぼって困る」と訴えてくる。そこで担任はその生徒を「学級委員が先頭に立って掃除をさぼってていいのか。恥かしいと思わないのか」と語気もきつく注意したわけである。そうしたら、その生徒は「みんなサボってるのに、先生は何で僕だけ注意するんですか。僕が学級委員だからですか。それだったら、それは「差別」なんじゃないですか。みんなサボってるんだから、同罪で同じように注意して欲しいと思います。第一、なんで僕たちが掃除しないといけないんですか。僕の親はちゃんと税金を払っているんだから、清掃業者を学校でお願いするべきじゃないですか。生徒が掃除するなんて、そんなの日本だけだと思います」とか何とか言い張るわけである。

 この生徒の気持ちが判らないわけではない。これで掃除まで一生懸命なら優等生すぎるので、あえて女子の嫌われ者になるというのも思春期の行動として自然だろう。勉強も運動もできるのだから、掃除くらい一緒にさぼらないと、男子の中で居場所がなくなるかもしれない。しかし、学級委員が女子に掃除を押し付けているのは良くない。すいませーーんと言って、注意されたらさっさと掃除をして終わりにした方がいい。ヘリクツを言い立てるから、担任も女子の声を受けて引けなくなるわけである。こういう場合、親を呼んで一緒に考えようなんてしても逆効果である。そういう親に限って、「先生はなんで、そうじのことだけで連絡してくるんでしょうか。学校は学習だけしっかりやってくれればいいと思っています。何でも他の生徒も一緒にさぼっていたとか。うちの子だけ特に怒られてると子供は言ってますが、先生の対応はおかしいんじゃないですか」とか言うに決まってる。「うちの子は確かに学習も運動能力も恵まれていると判っています。そういう人間は、生活面でもしっかりしないといけないと、常々「ノブレス・オブリージュ」をしつけているつもりなんですが、行き届かなくて恥ずかしいと思っています」なんて言う親が日本にいるわけない。

 
 こういう場合、ヘタすると教師と生徒でヘリクツ合戦になってしまい、消耗戦が始まってしまう。それくらいなら、ふざけてんじゃねえとゲンコツ一回お見舞いして、それでオシマイにした方がお互いずっとすっきりする場面があるだろうと思う。今の場合は、まあヘリクツに対抗する「体罰」という場合だが、成績もよく顔も可愛い女子が、裏でいじめの張本人だということもある。はっきりした証拠を付きつけても、言い逃れして絶対に認めない。顔もまともにあげず、明らかに反抗的な姿勢を示している。そういう卑劣な行為を止めるためには、担任が悪者になるしかない。お前のやったことは絶対に認めない。一発ビンタして今回は終わりにするから、二度とするんじゃない。いいか。では、歯を食いしばれよ、と声かけて、一発張り手をするということが、良い指導法であるとは思わないが、僕は絶対にないとは言えないと思う。大人が怒ってることを判らせるためには、暴力を使わないと判ってもらえない場面があるのが、日本社会の現実ではないかと思うのである。

 そういうことが一回もない教員人生なら、いいのだろうか。男の教員である程度大変な学校を何校も経験していれば、そういう場面に何回かぶつかったことがあるのではないか。そういう場面を経験しないで済んだ教員は以下のようなことが考えられる。初めから体罰が無理なような女性教員は除く。(女性教員で「体罰」を行う人も結構多いと思うけど。)
①体罰の必要もないくらい生徒の能力が高く、落ち着いている学校の場合。(進学高校を渡り歩いた場合)
②もはや誰も立て直しようがないくらい学校が荒れてしまい、生徒の暴力はあっても、教員側で押さえられないような学校。
③一部の教員の「暴力的指導」に生徒が脅えていて、他の教員はその傘の下で自分は体罰をしないで済んでいる学校。
④学校の性格上、教師が暴力を使ってはならないような生徒が集まっている学校。

 もし、そういう学校でなければ、特に「いじめ」「校内暴力」が多発した80年代の中学を経験したことがある教員ならば、自分が被害者になったことも加害者になったこともある場合が多いと思う。仮に自分が「体罰」をしていなくても、他の教員が暴力を振ったり振るわれたりしたケースを見てしまい、心痛む思いをしたこともあるのではないか。そういう中で「体罰」を行うのは、やはり「熱心な教員」であるということが多いという事実がある。熱心でなければ、そこまで体を張った指導はしない。熱心な教員でなければ、生徒は誰も付いてこない。暴力があっても付いてくる生徒がいるのは、やはり熱心さはあるのである。そうすると、他の教員は、自分はそこまで熱心に指導しているのだろうかと自問自答しないわけにはいかない。個々の教員がバラバラに頑張らさせられれば、中には熱心さが力の指導に頼る場合を生むこともある。それが「暴力のエスカレート」に陥りやすい。

 だから、自分の場合も、暴力的指導を一回もしていないという風には言わない。一回もなかったという教員は忘れてしまったのである。あるいは、そこまで熱心でなかったか、たまたま恵まれた学校ばかりを回ってきた「教員の特権階級」なのである。僕はそう思っている。(「夜回り先生」水谷修さんも、体罰の経験はないとブログに書いて、いや俺は殴られましたよと卒業生から言われたと書いている。)だけど、体罰経験があるということは、そういう大変な時代もあったという証ではあるが、別に誇るべきことではない。もっとうまく指導する力が自分になかったか、自分も未熟で感情的になってしまったかである。反省の材料でしかない。

 そしてやはり、体罰に限らず「力による指導」は、教員集団を引き裂き、生徒の心を遠ざける。一回の体罰だけなら、かえってすっきりした関係になることはありうる。しかし「継続的な暴力」になれば、それを止められない周りの教員も周りの生徒も皆傷を負ってしまう。教員集団の誰もが力の指導をできるわけではないから、力で押さえることが優先の学校では、「生徒が言うことを聞く先生」と「暴力を使わないから生徒が言うことを聞かない先生」に、学校が分断されてしまいやすい。そして、「体罰で生徒を押さえている教員」は、他の教員がだらしなくて強い指導ができないから自分が憎まれ役をやってやってると考えて、周りの教員に不信の念を強める。こうして学校がバラバラになっていくのである。こうなってしまう学校と言うのは、管理職の指導力が不足しているということではないかと思う。

 さて、長くなってしまったが、日本の現実の中で教師は指導して行かなくてはならない。大津市のイジメ事件では、学校や教育委員会が襲われたり非難された。大阪市立桜宮高校では、関係ない生徒が嫌な目に合っていることもあるようだが、この学校のガラスが割られたという事件もあった。学校のガラスに「体罰」を加えたわけである。このようにイジメや体罰が問題化すると、今度はその学校がイジメや体罰の対象になってしまうくらい、日本社会には暴力の根深い衝動があるのである。そういう中で、ただ「体罰をしなかった」というだけで、僕はそれがいい教員である証になるという風には思っていない。人生の中に数回、強い指導をせざるを得ない場面に遭遇することもあるし、そのときの指導のあり方があれで良かったかどうかと悩み続けるという方が自然な教員人生だと思っている。ただ、そういう場面の話ではなく、一般的な指導のあり方を論じるとすれば、やはり生徒が自ら考えて行けるような心の指導を心がけて行かなくてはならない、というしかない。しかし、教員集団が連帯して生徒に一致して「心の指導」をできる学校がどれだけあるだろうか。タテマエではなく、現実の学校現場を考えていくとするなら、「体罰がないというだけで、いい教員だというわけではないだろう」と思っているわけである。

 そして最終的には、加害者であれ被害者であれ、教師が「暴力」に直面した時に、生徒が味方になってくれるかが分かれ目なんだろうと思う。「あれはやり過ぎだ」と他の生徒に思われるか、「あの場面は生徒の方が悪い」とその生徒の友人も「早く先生に謝りなよ」と忠告してくれるか。
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1 コメント

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年取った (ぱぱ)
2013-02-14 06:30:59
現在は年齢もそこそこ行って、守るべき家庭も持つようになった。最近は体罰の禁止の声がますます高まっている中、学校現場で起こることは昔と変わらなく思える。従って、教師成り立ての若い頃ならば手が出ていただろう場面であっても、言っても判らない生徒に対して手を挙げ、自分の身を危険にさらすのが馬鹿らしく思えるようになった。昔は自分が危険にさらされることはある程度覚悟して、生徒に判らせたいという気持ちが強かったような?気がする。
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