尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

劉暁波氏の逝去を悼む

2017年07月14日 21時30分49秒 | 追悼
 中国の人権活動家、詩人・文芸評論家の劉暁波(りゅう・ぎょうは リウ・シャオポー)氏が亡くなった。7月13日、満61歳。僕と同年の生まれである。

 5月末に末期の肝臓がんと判ったとされ、家族が仮出所を求め、6月末になって仮出所となって病院に入院した。我々が劉氏の病気を知ったのはそれ以後で、そこへ至る中国刑務所当局の医療体制は非難されなくてはならない。もちろん、拘束そのもの、あるいは有罪判決そのものがおかしいのだが、それにしても刑務所内で受けるべき医療を受けられなかったことは明らかだ。

 もっと早い段階で釈放、国外での医療が認められなければならなかった。だけど、まあ僕もこのブログでその問題は書かなかった。アムネスティのネット署名はしたけれど。恐らく中国の非人道的対応からして、「国外移送」ができない段階まで拘束を続けたんだろうし、最後が「獄中死」にならない段階で「仮出所」にしたんだろう。だから欧米諸国が出国を要請しても、その調整ができる前に劉氏の訃報を聞くことになるんだろう…と悲しいけれど予想していたからだ。

 劉暁波氏は1989年の天安門事件の時には、国外にいた。コロンビア大学の客員研究員だった。だから、そのまま国外で研究生活を続けることもできたのである。そうだったら、今はそれなりに知られた進歩的学者になっていたはずだ。だけど、彼は祖国に戻って大きな広場に集まった学生たちのハンストに身を投じたのである。そして、全力を投じて、天安門の運動が非暴力で進められるように努めた。そして年長者グループの一員として、弾圧時に軍と交渉する役となった。

 そういう生き方を我々はできるだろうか。天安門の悲劇が起こった後も、一貫して天安門事件の死者たちの家族に寄り添ってきた。1989年以後、海外のエリート研究者から、一貫した反体制知識人として生き抜く道を選んだ。劉暁波『天安門事件から「08憲章へ」』(藤原書店)という本をかつて読んだが、彼の本質は詩人だということが判る。同書には「墳墓からの叫び」の4つの詩を収めている。

 2008年にネット上に「08憲章」を発表し、2010年2月に「国家政権転覆扇動罪」で懲役11年の判決が下った。2010年のノーベル平和賞に選ばれたが、出国して受賞式に参列することはできなかった。劉暁波氏は非暴力で言論の自由を行使しただけである。このような人を「良心の囚人」と呼ぶ。現代の代表的な「良心の囚人」が劉暁波だったけれど、日本でどれほど意識されていただろうか。

 中国は彼を「犯罪者」と公然と呼ぶ。しかし、中国は国連加盟国であり、それだけでなく安保理の非常任理事国である。「国際人権規約」を率先して守るべき国のはずだ。しかし、中国は自由権規約に署名はしたものの批准していない。(2012年段階、ウィキペディア。)そういうことがあっていいのだろうか。中国でも「政治改革」は避けられないものとある時期までは考えられていたと思う。だが、2012年に成立した習近平政権下でずいぶん保守化が進んでしまった感じがする。

 劉暁波氏は亡くなった。しかし、それほど彼の言論が怖いのか、中国当局は墓をすら作らせないようにしているらしい。劉氏を悼む自由さえ本国にない時は、歴史の中で多くの人がそうだったように、国外にいる人が語り継いでいくことになるだろう。そして、それがやがては本国をも変えていくに違いない。(一体、「我が国の法律での犯罪者」は認めないというならば、「中国共産党」は歴史の中でどのように存在しえたのだろうか。)
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