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尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

星野仙一と野中広務-2018年1月の訃報①

2018年02月09日 22時32分39秒 | 追悼
 例年にないような寒波が続く日々、1月の訃報もけっこう多かったので2回に分ける。僕が知らない人がいかに多いことか。知名度の高さでは星野仙一野中広務がまず挙げられる。日本人の過半数は名前ぐらい覚えているだろうが、世の中には案外野球や政治に何の関心もない人がいるもんだ。それでも一面に出た訃報はこの二人だったから、まずはそこから。

 星野仙一(1947.1.22~2018.1.4、70歳)は、知られているように中日ドラゴンズで投手として活躍したのちに、中日、阪神、楽天で監督を務めた。1968年のドラフトで中日に入団、1982年まで現役。87年~2001年まで中日監督(優勝2回)、2002、3年に阪神監督(優勝1回)、2011年~14年まで楽天監督(優勝1回)。阪神で優勝したのも昔だから、2013年に楽天で日本一がなかったら、そんな人もいたなあレベルの訃報だったかもしれない。だけど、震災のあった東北のチームの監督として、日本シリーズ最終戦で田中将大をリリーフに送り出したシーン。日本球界で最後の投球になったこの鮮烈な思い出が、まだ多くの人に残り続けているだろう。

 1968年のドラフトは「空前の当たり年」と言われる。1位指名は阪神が田淵幸一、広島が山本浩二、阪急(オリックス)が山田久志、西鉄(西武)が東尾修、東京(ロッテ)が有藤通世、そして中日が星野である。もともと、星野は明大から巨人に行きたかったわけだが、結局巨人は島野修という高校生投手を1位指名した。そこから「巨人キラー」伝説が生まれるほどの反発心が生まれたという。しかし、中日時代の戦績は、146勝121敗34セーブ。勝利数で歴代50位だから、すごいことはすごいけど、超スゴイ!というわけじゃない。
 
 殿堂入りも監督しての業績であるように、結局3チーム、及び北京五輪の監督(4位)になった印象が強い。特に中日辞任直後に阪神の依頼を受け応諾した時はビックリしたし印象が強い。そういうのもありかと思った。そして、監督として評価され「上司になって欲しい人」なんかで高い評価を受けた。でも「拳骨をふるっても後でフォローした人情監督」なんて言われても、もうそれは否定しないといけない指導法だなあと思う。そういう時代の野球人だったということだろう。

 野中広務(1925.10.20~2018.1.26、92歳)の名前をちゃんと認識したのは、1994年に村山内閣の自治大臣、国家公安委員長として初入閣した時だ。僕は昔は全国の選挙区事情を大体覚えていたので、名前だけは知ってた。1995年に阪神淡路大震災オウム真理教事件が起こった。戦後史の転換点と言える年に、その双方で最も重大な担当大臣だったのである。その内閣における言動を見て、ただものではないと思ったのである。

 野中氏を「ハト派」として評価する声が「リベラル系」の中にけっこうある。しかし、それはどうなんだろうか。後藤田正晴を「ハト派」という人もあったが、後藤田や野中は「保守中の保守」である。確かに彼らは戦争体験者として戦争反対だったろうし、憲法9条の改憲にも消極的だったろう。全体の軸が右に寄り過ぎて、彼らも前より左に見えてしまうのかもしれないが、戦争をしないなんて当たり前すぎる。当たり前のことを言うだけで評価されてしまう方がおかしい。「保守」体制を維持していこうとすれば、戦争は不可だし過度な国家主義は危うい。

 野中広務がある種「胆力」のある「剛腕」政治家となったのは、京都府で長く革新府政に対する「野党」政治家として鍛えられたからだろう。7期府知事を務めた蜷川虎三時代に府議会議員を務め、保守系府政になって副知事に就任し、1983年に衆議院議員に当選した。自民党は94年の細川内閣成立で結党後初の野党となったわけだが、そこから社会党と組んで政権を奪還するという「修羅場」政局に野中が力を発揮したのも当然だ。そして、以後竹下派の実力者と認められ、小渕内閣で官房長官、森内閣で自民党幹事長となった。

 その剛腕で成し遂げたのは、政局的には当時の自由党小沢一郎に「ひれ伏してでも」と連立を組み、その連立に公明党を引き込んだこと。「自自公連立」である。その後、小沢は小渕内閣との連立を解消し、以後反自民陣営にいるが、当時は「自自連立」なしに公明党との連立はならなかった。つまり、民主党政権時を除きずっと続いている「自公連立」を作った人だ。そして政策的には「国旗国歌法」を成立させたこと。当時の国会答弁で強制するものではないと言ったけれど、そんなものはウソだったことは歴史に照らして明白。

 このような野中を政治家として評価する「リベラル」がいるのは理解しがたい。しかし、野中は小泉内閣時に政治家として失墜した。以後は小泉内閣や安倍内閣に対して批判的なスタンスを取るようになった。自民党内で野中に親和的な勢力は、大体郵政民営化法案をきっかけに離党するか、小泉・安倍に屈してしまう。それが嫌なら引退しかない。そして野中は2003年の総選挙に立候補せずに引退したわけである。まあ「筋を通した」ということだろう。

 ところで野中広務には魚住昭「野中広務 差別と権力」や辛淑玉との対談「差別と日本人」がある。被差別の出身だったことは周知だが、マスコミの訃報では触れられていない。それはどうなんだろうか。運動団体には批判的な立場だったから、あえて書かなくてもいいのかもしれない(解放運動の要職にあったことは一度もないのだから。)でも、彼が「骨のある」「胆力」を身に付けた背景には、反差別の思いがあったことは間違いない。だがそうして選んだ地方政治家出身の戦後保守政治家という道は、今やほとんど絶滅してしまった。その意味はまだ全体的な評価が難しい。星野、野中を書いたら長くなってしまったので、1月は2回に分ける。
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