尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

ハワイはアメリカなのかー「真珠湾攻撃」をめぐる3つの論点

2016年12月30日 23時54分45秒 |  〃 (歴史・地理)
 年末に安倍首相がハワイ・真珠湾を訪れて、オバマ大統領と共に「アリゾナ記念館」で真珠湾攻撃の犠牲者を「慰霊」した。オバマ大統領の広島訪問は何も書かなかったんだけど、演説内容や趣旨について、想定できる範囲に収まっていたから必要ないなと思ったのである。今回の安倍ハワイ訪問も、さらに想定内のできごとなので、書くまでもない。だけど「真珠湾攻撃」に関して、いくつか触れて起きたい問題があって、あまり書かれていないと思うから、ちょっと時機を逸したけど今年最後に書いておきたい。

 ところで最初にやはり触れておくけど、ハワイから帰ってきた次の日に、稲田防衛相が早速靖国神社を参拝するとはさすがに思ってなかった。ハワイ訪問は「日米同盟強化」が目的であり、アジア諸国との和解を目指したものではないんだと、改めて表明しておきたいのだろう。重要閣僚になっても、いまだに「国家的戦略」の観点を持てないのだから、思想以前に「困ったもんだ」と思う。

真珠湾攻撃は「奇襲」だったのか
 日本は真珠湾を事前通告なく奇襲攻撃した。だから、「日本人は卑怯」であり「真珠湾を忘れるな」と言われることになってしまった。この問題をどう考えるべきか。よく知られているように、日本は事前通告するつもりだったけど、ワシントンの日本大使館で暗号翻訳に手間取り、通告が遅れた。真珠湾攻撃は、現地時間で1941年12月7日午前7時49分である。(日本時間は12月8日午前3時49分。)ワシントンで来栖、野村両大使がハル国務長官に「対米覚書」(交渉打ち切り通告)を手渡したのは、日本時間午前4時20分だった。確かに攻撃後だった。

 ところで、本来は日本時間午前3時(ワシントン時間午後1時)に通告することを予定していた。その通りだったら、攻撃前である。どうして遅れたのか。その問題はさまざまに論じられてきたが、完全に解明されたとは言えないようである。だけど、僕はそのことにあまり関心はない。「国際法」(ハーグ陸戦条約やジュネーブ条約等)に触れるか触れないかという問題も大事だけど、先の時間関係を見れば判るように、何十分か前に通告したとしても「奇襲」であることは間違いない。

 作戦の性格として「奇襲」であり、日本は日清戦争でも日露戦争でも「奇襲」で始めている。大日本帝国の置かれた政治的・軍事的環境から、宣戦布告を行うような大戦争では「日本より強い国」(と思われている国)と戦うことになる。初めから「奇襲」で主導権を握ることを予定している作戦なのである。だが、その当時は真珠湾の米海軍基地には主要空母が修理のため寄港していなかった。「大戦果」と宣伝されたけれど、実は米国太平洋艦隊の主力は残存したのである。作戦的には失敗だったのである。

マレー半島攻撃の方が先だったことをどう考えるか
 真珠湾攻撃は、海軍連合艦隊によるものである。一方、ほぼ同時刻に、陸軍がマレー半島を奇襲攻撃した。マレー作戦は、日本時間12月8日午前1時30分に開始された。真珠湾攻撃の2時間以上前で、こちらの方が先である。(イギリスへの事前通告は予定されず、こっちは間違いようのない「奇襲」である。)当時のマレー半島は英領マレー植民地で、日本は後に「アジア解放」を旗印に掲げるが、植民地であっても戦争を仕掛けてはいけない。「不戦条約」で「自衛」以外の戦争はできない。

 ところで、マレー侵攻が先だったことを、「日本の戦争目的がアジアの資源獲得のためだったことを示す」と理解する人もいる。真珠湾だけを大きく取り上げることは、「間違った戦争観」だというのである。それは正しいけれど、この戦争開始時間だけ過大視するわけにはいかない。日本陸軍はアジアの英領植民地、そしてオランダ領東インド(インドネシア)を占領する。一方、海軍は西太平洋における米英の制海権、制空権を撃破する。両者あいまって初めて戦争遂行ができる。

 日本軍には「大本営」が設置されていたが、陸海の統一作戦本部はなかった。だから、マレーが先、ハワイが次などと決めていたわけではない。「12月8日開戦」は御前会議で決められていたが、陸軍は参謀本部、海軍は海軍軍令部がそれぞれ作戦を起案する。(大元帥である天皇が裁可する。)どっちも「奇襲」攻撃だから、ほぼ同時に始めないといけない。マレーでは深夜、ハワイでは早朝に作戦開始するという大枠は決められていた。陸海には対抗意識があったが、マレー攻撃軍が連合艦隊の状況を認識できたわけはない。ほぼ同時に陸海それぞれで奇襲攻撃を開始したということでいいと思う。

 それより大問題なのは、陸軍第5師団が中立国のタイに強行上陸したことである。英領マレー北端では上陸可能地点が少ない。一つはマレーのコタバルで、強行上陸した。もう一つがタイのシンゴラ、パタニを通ってマレーを侵攻する方法である。独立国タイを侵攻する意図はなかったが、その後日本を支持するタイも、開戦時点ではあくまでも「中立」を掲げていた。タイ領通過を求める日本軍は許可を得ることなく上陸しようとしてタイ軍は抵抗して衝突になった。この過程はタイ側からすれば、小国でも誇りをもって戦ったことになる。(2000年には「少年義勇兵」という映画が作られ日本でも公開された。)

ハワイはアメリカなのだろうか
 上記二つの問題は割とよく取りあげられるが、この問題は忘れられているのではないか。いや、もちろんハワイはアメリカ合衆国の一部だった。それは間違いないんだけど、当時のハワイは州ではなかった。アメリカ合衆国大統領の選挙人を選べるのは、50の州とワシントンD.C.(コロンビア特別区)だけである。アメリカ合衆国にはそれ以外に、プエルト・リコ、グアム、米領サモアなど「自治領」的な地域がある。(名前と位置づけは複雑なので省略。)

 ハワイが州に昇格するのは1959年のことである。それまでは「準州」という地位にあった。さらに以前は「ハワイ共和国」(1893~1898)、それ以前は「ハワイ王国」だったわけである。名前がよく知られているカメハメハ大王が、1795年にハワイ王国を建国し、1810年にハワイ全諸島を統一した。この王国がずっと統治していたが、やがて白人入植者が増えていき、細かいことは省略するが、「最後の女王」リリウオカラニはクーデタによって幽閉された。アメリカ系白人により臨時政府が作られ、ただちに併合はできなかったので1894年にまず「ハワイ共和国」となる。

 その後王政復古を求める動きもあったが、阻止されている。王党派は日本に支援を求め、日本も一時東郷平八郎率いる艦艇を送ったりしているが、それ以上のことはしなかった。1898年に米西戦争が起きると、スペイン植民地のフィリピンとアメリカを結ぶ要地としてハワイの戦略的価値が高まり、アメリカ議会はハワイ併合を決定した。このようなハワイ併合の経過は、暴力による強引な「併合」だったと言わざるを得ない。ハワイ王国転覆100周年にあたる1993年には、アメリカ議会によってハワイ併合に至る過程が違法だったと謝罪する両院合同決議がなされているという。(ウィキペディア)

 このように、ハワイの先住民による国際的に認められた王国をクーデタで転覆して併合したのが、アメリカ合衆国だった。「日本人は卑怯だ」と言われると、ではハワイを併合したアメリカ人はもっと卑怯なやり口だったのではないですかとちょっと言い返してみたくもなる。ただし、もちろん日本が大韓帝国を「併合」したやり口はもっと強引だった。1931年の満州事変では、自分で満鉄線を爆破しておきながら、中国軍の仕業として軍事行動を開始して「満州」全土を制圧してしまった。このやり口は「卑怯者」と非難されるべきものだろう。日本はもっとひどいやり方をしている。それは十分に認識しておかないといけないけれど、ハワイや「北方領土」など本来は先住民の土地であった歴史を忘れてはいけない。
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